《じっくり解説》生命倫理とは?

生命倫理とは?

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生命倫理…

1.生命倫理の諸問題.<復> (1) 生命倫理の問題はキリスト教にとって,古い問題であると同時に,新しい現代の課題でもある.古い問題であるというのは,人工中絶は古代ローマの時代においてすでになされており,キリスト教が成立していく過程において教会にとって避けることのできない課題であったからである.同時に神学的に中絶を容認する思想を教会が取り入れてきたからである.新しい現代の課題であるというのは,近代科学の進歩とともに,先端技術が生命に直接かかわってくることになり,体外受精や遺伝子操作,そして脳死と臓器移植という今までにない問題が出てきて,教会としての対応が問われてきたからである.このような課題によって,基本的に生命をどのように見,現代科学の功績をどのように評価するのかということが問われているのである.<復> (2) 生命倫理がキリスト教にとって最重要課題となってきたのは,これらの新しい問題に直面してきたからだけでなく,現代科学の先端技術の進歩とともに,生命についての社会の倫理規準が崩壊してきたからである.人工中絶は日本では1948年以来,優生保護法のもとで認められており,現人口の半数ぐらいの件数の中絶がなされてきたと言われる.しかしこの人工中絶がキリスト教にとって大きな課題となったのは,米国において1973年に連邦最高裁判所によって中絶が認められてからである.特にこの最高裁の判断の規準になったのは古代ギリシヤ・ローマの思想であって,それはキリスト教にとって大きな挑戦となったと同時に,米国の伝統的なキリスト教の価値観,倫理観の崩壊を意味したのである.<復> (3) このことは人工中絶の容認ということだけでなく,生命倫理に対しての新しい課題が続いて起ってきた時代を意味している.同じ1973年には,遺伝子工学の分野で遺伝子の組み換え技術が開発されたのである.これはその20年前に,ウォトスンとクリックによって遺伝子の構造が解明されて以来,科学者がその開発を求めてきた結果であった.ウォトスンとクリックは,遺伝子の構造を二重螺旋構造のモデルに従って説明した.このモデルの螺旋階段の部分は,アデニン,チミン,グアニン,シトシンの4つの単純な塩基から構成されている.すべての生命体は,基本的にこの構造を持っていて,生命体の種の違いはこの4種類の塩基の組合せの違いによる.遺伝子の組み換え技術は,二重螺旋を別々に分け,他の生命体の遺伝子の一面と組み換えることによって,理論的に新しい種の生命体を造ることができるというものである.自然界には今まで存在しなかった生命体が,遺伝子操作によって造り出されるという理論を打ち出したのである.この理論と技術の背後にある思想は,植物の品種改良と人間の遺伝子操作とは連続線上にあるもので,特別なことと考える必要はないというものである.人間が明らかに単なる物質として見られているのである.<復> (4) 遺伝子操作は,遺伝病の治療を第一の目標としていたのであるが,この遺伝子治療を受精卵のうちに施すことが考えられ,受精卵を体外でつくり,体内に戻す技術が同時に考えられた.これは体外受精という新しい技術である.この技術の応用は,卵子に何らかの問題があり体内で受精できない場合に,卵子を取り出し,体外で受精させて,その受精卵を子宮に戻し,妊娠を促すというものである.卵子と精子を試験管で受精させることができるということは,生命の始まりを人間自身が操作することができるようになったことを意味している.そこに特に遺伝子操作が深く結び付いているのである.<復> 最初の体外受精児は,1978年にイギリスのマンチェスターで生れている.日本では,1983年に東北大学病院で生れている.1978年に最初の体外受精児が生れる前に,この体外受精のための実験が繰り返しなされてきた.体外受精は三つの段階を通してなされる.第1は排卵直前に成熟卵を採取する段階で,第2は培養器の中で受精させる段階で,第3は2細胞期から8細胞期までの受精卵を子宮に戻し着床させる段階である.この技術の確立のために,受精卵が体外でつくられ,処理されてきたのである.<復> (5) この体外受精が可能になる以前,1960年代に人工授精というものがなされていた.この技術は,夫に何らかの異常があって妊娠に至らない場合に,人工的に精子を体内に入れることによって,妊娠を促す方法である.夫の精子に異常がある場合には,夫以外の精子を使って人工授精させることも可能である.現実に第3者の精子を使って生れた人工授精児が多くいる.この場合,夫婦による婚姻関係を越えた家族構成となる.<復> このことは大きな倫理問題とはならなかったが,同じ方法が体外受精にも用いられることになったのである.東北大学病院で体外受精児が生れた時,体外受精を婚姻関係にあるものにおいてのみ行うということが確認されているが,諸外国においてはこの規定は崩れており,「代理母」や「借り腹」ということがすでになされている.日本でも,人工授精においては婚姻関係にあるもののみということが崩れているので,体外受精においても同様の問題を持つことになると思われる.<復> (6) 1970年代における生命倫理のもう一つの課題は,脳死と臓器移植の問題である.特に心臓の移植が行われるようになってから,脳死の判定規準が問題になってきた.心臓の移植は1967年に南アフリカにおいてなされ,日本では1968年に札幌医大においてなされた.この時期はまだ脳死の判定規準が定まっていなかったために,心臓がまだ動いている時期に移植したことによる死の判定が問題になった.<復> 1974年に日本脳波学会が脳死の判定規準を出したことによって,死の判定が脳死による場合と心臓死による場合との2つの面が考えられるようになった.従来は心臓死を死の判定としてきたのであるが,脳死をもう一つの死の判定とすることによって,脳死と心臓死との間に時間の間隔をおくことになったのである.脳は,大脳と小脳と脳幹の三つから成っている.特に脳幹が脊髄と結び付いていて,この脳幹の機能の停止は内臓の死をもたらし,それは不可逆なものとして,脳死状態と定められたのである.大脳が死んでも脳幹が働いている場合には,脳死ではなく植物状態である.脳波学会の脳死の判定規準は次の六つの点から成っている.<復> (1)深昏睡.(2)両側瞳孔散大,対光反射及び角膜反射の消失.(3)自発呼吸停止.(4)急激な血圧低下とそれに続く低血圧.(5)平坦脳波.(6)以上(1)から(5)の条件がそろった時点より,6時間後まで継続的にこれらの条件が満たされていること.<復> この条件が満たされても,患者には人工呼吸器がつけられているので心拍動は1,2週間保持される.脳死が個体の死と認められれば,その間にまだ動いている心臓を取り出して,他の人に移植することができるのである.脳死の判定は,人工呼吸器や脳波の判定のできる機関においてのみ可能である.脳死の判定規準は,臓器移植のためだけでなく,死のプロセスについての解明をもたらした.<復> 2.生命倫理の判断規準.<復> (1) このような生命に対しての先端技術の介入に関する倫理の判定規準の問題が,生命を直接取り扱っている医療関係者だけでなく,生命が直接かかわっている個人と家庭にとって重要な課題となっている.交通事故等によって脳死状態となり,臓器の提供を求められたり,中絶を医師から間接的にでも勧められたりすることが起ってきている.また体外受精で生れた子供が増えてきている.そして死を間近にして,痛みで苦しんでいる家族が身の周りにいる.生命倫理の判断は,私たちが生命を持って生きている限り,いつもどこかで求められることなのである.さらに直接生命を取り扱っている医師や科学者が,どのような生命倫理の判断規準を持っているのかということも,大きな課題である.一つの病院の判断で,人工中絶と体外受精とがなされているし,一人の医師が,人工中絶を奨励し,体外受精のために努力するということも起り得ることである.このような状況の中で,聖書を倫理の判断規準としているキリスト者にとって,これらの新しい動きに対しての明確な規準を示していくことが求められている.同時に現代の倫理の判断規準となっている基本的な考え方について確認しておく必要がある.<復> (2)『バイオエシックス』(講談社現代新書)において,生命倫理の問題は,「あうんの呼吸で決まってしまうのが,最もよい対処の仕方だと思っている」(p.241)と言われている.すなわち,生命倫理の問題は当事者たちのその場のあうんの呼吸で決められてもよいということで,判断の規準については語ることができないし,明確に打ち出すこともできないことを認めているのである.倫理のことについては語ることができないということは,哲学者ヴィトゲンシュタインによって1920年代にすでに哲学の命題として提示されている.彼は,近世の啓蒙思想に基づく近代科学と哲学においては物とその総体が存在することとその現象についての解明はできても,何のために,またどのような価値をもって存在するのかということについては沈黙以外にないというのである.倫理の命題は成り立ち得ないというのである.彼の結論は,「語ることのできないことについては,ひとは沈黙しなくてはならない」(『論理哲学論考』7)というものである.沈黙の後に残されるのは,あうんの呼吸か,その社会のために役立つかどうかという功利主義しかないのである.古代ギリシヤ・ローマの社会では,その都市国家にとって有益であるかどうかということで,生命の判断がなされてきた.<復> 3.生命倫理と聖書.<復> (1) このような課題と状況に対して,聖書を基盤とした生命倫理の判断規準が求められてきている.キリスト教の生命観の基本的な枠組みは,生命が神の創造の中で与えられており,神とのかかわりで存在し,神の手のうちでその存在を終えるということである.生命そのものの現象をどれだけ解明しても,そこに生命の意味や目的を見出すことはできないのである.<復> 生命の意味と目的は,生命そのもののうちにあるのではなく,その生命を創造した創造主のうちにある.生命の倫理と価値についても,その生命を造った創造主のうちに見出されるのである.生命は,その始まりと,その存在と,その終りとの三つの面を持っており.その全体像は生命を越えたところでしかとらえられない.この全体像は神の創造と終末という神のわざの全体の中でとらえられるのである.生命の三つの面には,生命倫理の個々の課題が直接にかかわっている.生命の始まりには,人工中絶と体外受精の問題がかかわっている.生命の存在には,遺伝子操作と臓器移植の問題がかかわっている.生命の終りについては,脳死と安楽死の問題がかかわっている.<復> (2)a.生命の始まりは,生きている神のうちにあるもので,偶然や自然によるものではない.神が人格的な生きた神なので,その神のかたちに似せて造られた人間のいのちには,人格的な意味が含まれている.「生き物」と呼ばれているものは動物にも人間にも当てはまるが(創世1:20,21,2:7),人間はその中で特に神のかたちに似せて造られているので,神との直接的なかかわりの中で存在している.すなわち,神は造られたすべてのものを人間にゆだねており,人間が神の創造の秩序に従って治めていくことを求めているのである(創世1:28).人間には人間のいのちも動物のいのちも,この神の創造の秩序の中で取り扱っていくことが求められているのである.このことのゆえに「殺してはならない」という十戒(十のことば)の戒めが与えられている.すなわち,人間はいのちに手を加えることは許されていないのである.動物の肉を食べることが許されるようになったのは,ノアの洪水の後で,人間の罪のゆえに地が十分な植物を生産することができなくなった結果と考えられる.人間のいのちに関しては,堕落後も手を加えることは許されなかった(創世9:6).自分のいのちにも人のいのちにも手を加えることは許されていない.自殺ということには,深刻な心理的,精神的な問題が含まれているが,基本的には神の創造のわざに反することなのである.<復> b.人工中絶はまだ生れていない胎児に対して手を加えることで,「殺してはならない」という戒めが当てはまるかどうかという問題がある.しかし,いのちをその初めから考えた場合に,この胎児のいのちにどの段階でも手を加えることは許されない.聖書では「母の胎のうち」(詩篇139:13)にある時からすでに神に覚えられていることを認めている.神の胎児の取り扱いの代表的な例は,ヨセフとマリヤに対してである.神はマリヤに対して,聖霊によって身ごもった子を受け入れることができるように,親戚のエリサベツを用いて,いのちは神によって与えられるものであることを教えている(ルカ1:42).また,胎を開かれたのは神であって,神には不可能なことは何もないことを御使いを通して教えている(同1:35‐37).胎を開かれ,いのちを与えるのは神であることを,神はアブラハム,イサク,ヤコブを通し,サムエルの誕生を通し,そしてイエスの誕生を通して教えている.その意味で胎児に人が手を加えることは許されていないのである.<復> c.人工中絶については聖書から明確な答を引き出せるのであるが,神学的に中絶を容認する思想が教会に入ってきたことも事実である.それは出エジプト21:22の70人訳を通してである.流産の場合の戒めで,「殺傷事故」がある場合とない場合のことが言われている箇所であるが,70人訳では「形づくられている」場合といない場合となっている.それはギリシヤの身体論で,人間は肉体に魂が入った時に人間となるという思想からきている.すなわち,すでに魂が肉体に入って「形づくられている」場合と,まだ魂が肉体に入っておらず「形づくられていない」場合,と訳し換えたのである.アリストテレースは,男の子は40日目,女の子は80日目に魂が肉体に入ると考えた.この考えが70人訳聖書を通して教会に入ってきた時に,ある神学者たちは,魂は受精してから2週間目に,あるいは40日目に,場合によっては産声を上げた時に肉体に入ると考え,それまでは中絶をしても殺したことにはならないと考えたのである.これはギリシヤの思想が神学に入ってきた結果であって,聖書から出てきた思想ではない.<復> d.人工中絶は,まだ生れていない胎児に対して手を加えることであるが,胎児の始まりである受精卵を人として見るかどうかということで体外受精の問題に対しての対応が決ってくる.胎児に手を加えることが許されていないならば,その始まりである受精卵にも手を加えることは許されないことになる.体外受精の技術が可能になるために,受精卵を体外でつくり,処理することが繰り返しなされてきた.体外受精そのものは理論的に許されるようであるが,現実には受精卵の処理ということも繰り返しなされてきたのである.すなわち,体外受精が可能になるためには,人工中絶の思想がなければ成り立たなかったのである.体外受精は自然の妊娠に至らない場合に,代理として認められるようであるが,そのために人工中絶を認めることになり,矛盾した倫理のあり方になってしまう.<復> e.体外受精は人工授精とのかかわりで,婚姻関係以外の代理母や借り腹といったかたちでなされると,家庭のあり方そのものを崩すことになる.創造のわざの中には,生命の誕生と同時に,その生命が育っていく場としての家庭が神によって備えられている.すなわち,その家庭を築いていく夫婦の間のこととして生命の誕生が備えられているのである.生命はその家庭の中でその誕生の意味を知らされていく.現代科学と技術による体外受精は,この家庭のあり方を崩壊させる危険を持っているのである.<復> (3)a.人間は生命の存在を自らの問としてその意味と目的とを問うている.存在していること自体が問題となるのである.そして与えられた肉体を持って存在していることをどこかで認め,受け入れている.受け入れることができないということは,生命倫理の問題を越えて,心理的,精神的な問題となる.ダビデは,自分の存在の意味を母の胎のうちで神によって造られたところで認めている(詩篇139:13,14).すなわち,自分の存在の認識を神の創造の認識の中においているのである.また,自分の存在が母の胎を通して与えられていること,つまり両親の遺伝的なあり方を受け入れている.自分で顔,かたちを決めて存在しているわけではなく,両親の遺伝的な性質を受け継ぎながら存在していることを認めているのである.遺伝子操作にかかわることは,この意味で創造の秩序を乱すことになる.しかし,遺伝的な病気の治療は,正常なあり方に戻すために医学の可能性として考えられることである.<復> b.臓器移植に関しては,個々の臓器が個体の一部としての固有性を有しているのと同時に,臓器としての普遍性を持っていることから考えられる.固有性は免疫ということで,個々の臓器を含めた一つの個体は他のものの進入を阻止する能力を持っていることから知ることができる.しかし機能的には普遍性を持っているので,この免疫の問題を乗り越えられれば,移植の可能性が出てくる.個々の臓器がその人のあり方,アイデンティティーを決定していると考えるならば,移植は考えられない.しかし臓器は重要な機能であっても,その人のあり方を決定しているものではないと考えるならば,移植の可能性が出てくるのである.しかしこの場合にも脳は臓器とは考えられないし,移植のできるものではない.汎神論的な考えの強い日本では,臓器の中にその人の人格が組み込まれていると考えるので,移植は現実に制限されている.<復> 移植の臓器を提供するか,それを受けて移植をするかということに関しては,個々人に任されていることである.というのは,臓器は基本的にはその人のものであり,その人の家族のものだからである.臓器移植を認めるということは,その提供を義務付けるものではないのである.<復> (4)a.生命に終りがあるということ,すなわち,寿命ということについては科学的に解明されているわけではない.しかし聖書の視点から見れば,生命の終りは罪の結果として全人類に入ってきたものである.死は避けることのできない現実として存在している.しかし死を体験したことのない者にとっては,死は他の人の死を通して問題となる.キリスト教にとってキリストの死は,この避けることのできない現実を見させるためのものである.すなわち,罪の中にあるものは必ず同じ死を迎えなければならないことを教えているのである.キリスト者は,この意味でキリストの死を見詰めることによって,今の生を生きることができる.脳死は,死のプロセスを解明したもので,死の判定の問題であり,生命に手を加えることではない.脳死という現代科学の技術による死の解明がなされる以前は,心臓死が一般的な死の判定の規準となっていた.イエスが十字架で死ぬ時も,「息を引き取られた」(ルカ23:46)と記述されている.それはイエスの死の事実を示すために必要なことであった.脳死というのはそれなりの機関でないとできないことで,一般的には心臓死が受け入れられている.脳死で明らかになったのは,脳幹の死は不可逆的なことで,心臓の死に至るのは時間の問題であるということである.すなわち,死はある時点を越えたなら,戻すことはできないということである.その時を人間は自分で決めることはできない.その時は神の手のうちにあるのである.<復> b.安楽死の問題に関しては,死の時を人間は決めることはできないという原則が当てはまる.安楽死という言葉には,良い死,あるいは,美しい死という意味がある.それで尊厳死とも言われている.痛みで苦しみが続いていて,いやされる望みのない時に,良い死を迎えさせてやるという考えである.この場合にも生命倫理の基本的な原則が当てはまる.すなわち,どのような場合でもその人のいのちに手を加えることはできないということである.この意味での安楽死は許されないことである.しかし,いのちに手を加えるのではなく,それ以上治療をしないという消極的安楽死と呼ばれていることは,医師と家族との判断の中で考えられることである.この場合には,いのちに手を加えているのではなく,死の時をその生命体にゆだねていることである.ただ治療の可能性があるのかないのかということの判断の難しさが伴う.<復> 4.生命倫理とキリスト者.<復> 現代の生命倫理の課題は,生命についてのキリスト教の視点を明確にすることに役立っている.生命を神の創造と終末の全体の視点からとらえていく時に,生命についての基本的な考え方が与えられる.その視点を持ちながら現実の場で生命を取り扱うことが,生きているすべての人の課題である.聖書の倫理の教えの基本的なあり方は,神がそうされているように,あるいは,キリストがそうされたように,私たちもすべきであるということである.神の倫理の取り扱いの事実に基づいて,同じようにしなさいという命令が出てくるのである.イエス・キリストが,病める者,弱い者を取り扱われたように,私たちも弱い者たちを取り扱っていく必要がある.またイエスが幼子を抱かれたように,私たちも幼いいのちを守っていく必要がある.このことを知っているキリスト者は,生命倫理に関して神の創造の秩序に沿って取り扱っていくことができるのである.特に,倫理の規準を失っている現代の社会に対して,聖書から明確な規準を示していくことが,キリスト者と教会に求められていることである.→いのち,死,中絶,ホスピス,キリスト教倫理.<復>〔参考文献〕多井一雄/上沼昌雄/油井義昭『生命をみつめる』『失われゆく生命の尊厳』いのちのことば社(1984,1985);Koop, C. E., The Right to Live, The Right to Die, Tyndale, 1980 ; Schaeffer, F. A./Koop, C. E., Whatever Happened to the Human Race ?, Revell, 1979.(上沼昌雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社