《じっくり解説》賜物とは?

賜物とは?

賜物…

聖書には「神からの贈り物」という概念が一貫してある.「賜物」は,それが神から与えられる良い贈り物であることを意味する表現として,聖書が印象的に用いている独特な用語である.<復> 1.旧約聖書の用例.<復> 旧約聖書に見られる例としては,まず,「天の賜物の露,下に横たわる大いなる水の賜物,太陽がもたらす賜物,月が生み出す賜物,昔の山々からの最上のもの,太古の丘からの賜物,地とそれを満たすものの賜物,柴の中におられた方の恵み」(申命33:13‐16),ここで(原文では5回)繰り返されている言語[ヘブル語]メゲドゥの原意は「最良のもの,貴重なもの」である.天から注がれ,地が生み出す自然を通じての神の恵みが,最良の賜物として,たたえられ,祈り求められる.次に,「わたしはあなたがたの祭司職を賜物の奉仕として与える」(民数18:7),また「人がみな,食べたり飲んだりし,すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物である」(伝道者3:13),この二つの例では原語はそれぞれ[ヘブル語]マターナーとマッタス,共に動詞ナータン「与える」からの派生語で,ここでも神から与えられる良いものが,賜物として表現されている.<復> 2.由来する人名.<復> この同じ語根からの人名が,旧約聖書には数多く見られる.マタン(Ⅱ列王11:18,エレミヤ38:1),マテナイ(エズラ10:33,37,ネヘミヤ12:19),マタヌヤ(Ⅱ列王24:17,エズラ10:26,27,30,37,ネヘミヤ11:17),マタタ(エズラ10:33),マティテヤ(Ⅰ歴代9:31,15:18,25:3,エズラ10:43,ネヘミヤ8:4)などである.新約聖書では,まずイエス・キリストの系図の中に,マタン(マタイ1:15),マタテ(ルカ3:24,29),マタテヤ(ルカ3:25,26),マタタ(ルカ3:31)の名が見られ,イスラエルにこの種の名前が多かったことを確認させられる.さらに,イエスの弟子にも,「主の賜物」を意味するこの種の名前が受け継がれた.12使徒の一人マタイ(マタイ9:9)の名は,かつて取税人であったレビがイエスに従った時,たぶんイエス御自身から与えられたものと思われる.また,イスカリオテのユダが脱落したために,補われて使徒となったのはマッテヤ(使徒1:23)である.マタイの原語マタイオスも,マッテヤの原語マッティアスも上記のヘブル名のギリシヤ語転記にほかならない.<復> 3.新約聖書の用例.<復> 新約聖書においても賜物の概念は受け継がれ,表現は一層豊かになり,新しい強調が見られる.原語はほとんどが[ギリシャ語]ドーレア(語源は動詞ディドーミ「与える」)かカリスマ(語源は名詞カリス「恵み」)で,ドーレアが11回,カリスマが17回出てくる.やはり,「神から与えられるもの」「恵みとしての贈り物」の意味で用いられている.ドーレアの例には,「もしあなたが神の賜物を知り,また,あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら,あなたのほうでその人に求めたことでしょう」(ヨハネ4:10),「悔い改めなさい.そして,それぞれ罪を赦していただくために,イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい.そうすれば,賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒2:38),「キリストの恵みによる賜物」(ローマ5:15)などがあり,カリスマの例には,「神の下さる賜物は,私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23),「私たちは,与えられた恵みに従って,異なった賜物を持っている」(ローマ12:6),「あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません」(Ⅰテモテ4:14)などがある.<復> 4.聖書における独特な概念.<復> このように,聖書が賜物と言う場合,それはいつでも,神から人への贈り物の意味である.しかも,それは決して人の何らかの功績に対する報酬として与えられる贈り物ではなく,一方的な恵みによる無償の贈り物である.この点で,特に日本の社会通念との間には大きな違いがある.一般には「たまもの」(賜,賜物)と言えば,①たまわったもの,くだされもの,②結果として生じた,よい事や物,を意味する(『広辞苑』).この語が聖書の「神からの良い贈り物」という独特な概念を表す訳語として選ばれたのは,この語が語源的に持つ①の意味によると思われ,聖書和訳に当ってこの訳語を発掘した先人に敬意を表するが,広辞苑がこの語の①の意味の用例として挙げているのは『今昔物語』の「七日の内に其の蓮花を取りて持て参るべし.若し持ち来れらば汝に賜を給うべし」という文章である.そこにあるのはあくまで人と人との上下関係における「下賜」の概念である.元来この語には絶対者としての神は主体として意識されておらず,賜物の贈与にも絶対恩寵の観念はない.賜物それ自体に何らかの働きへのほうびとしての性格があったことをうかがわせる.さらに②の用例としては「努力の賜物」という熟語を挙げており,そこには働きに対する報酬の観念が一層強く出ている.しかも,日常的にこの語が使われるのは①の原意よりもむしろ②の意味においてであると思われる.結局,日本語としての「賜物」の概念には,そもそも神からの贈り物という観念はなく,上下関係の中での人から人への賜わり物,あるいは人が自らの働きによって獲得する報酬にすぎない.従って,日本のような人本主義的な土壌では,聖書における賜物の概念は理解されにくいのである.しかしまた,裏を返して言えば,聖書の言う独特な賜物の概念を正しく知るなら,それこそが,神の国理解への入口ともなるのである.「賜物」の語に新しい意味を盛り,新しい意味で用いること,それは本来あるべき意味にこの語を復権することとも言えよう.はっきりしているのは,聖書での賜物の概念には創造者であり,救い主である神がそれを与える存在として前提されていることである.「すべての良い贈り物([ギリシャ語]ドーシス),また,すべての完全な賜物(ドーレーマ)は上から来るのであって,光を造られた父から下るのです」(ヤコブ1:17)と言われている通りである.<復> 5.賜物の二重の意味.<復> 神からの賜物は,天地創造の初めからこの世界に注がれ続けた(一般恩寵).使徒パウロのアテネでの有名な演説に述べられている通りである.「…神は,すべての人に,いのちと息と万物とをお与えになった方だからです.神は,ひとりの人からすべての国の人々を造り出して,地の全面に住まわせ,それぞれに決められた時代と,その住まいの境界とをお定めになりました」(使徒17:25,26).それ自体が神の賜物であり,また賜物で満ち満ちているこの地上,そして「それは非常によかった」(創世1:31)と言われたこの被造世界を「支配させよう」(創世1:26)との神からの使命を授かって,人は造られた.すなわち「賜物の管理人」としての役割が,初めから人に与えられたのである.「神が造られた物はみな良い物で,感謝して受けるとき,捨てるべき物は何一つありません」(Ⅰテモテ4:4).人は,ゆだねられたこの賜物のゆえに神に感謝し,そのすべてを用いて神の栄光を現すべきであったのに,自らの罪のゆえに心の目が曇り,神を認めず,賜物を賜物として見ることも受け取ることもせず,かえってそれを自らの栄光のための道具とし,自らの努力によってすべての良いものが得られるかのごとくに思い込み,神をあがめようとしない.その行き着く所は死でしかない.しかし,神は愛のゆえに,死と滅びから人を救うために自ら行動され,そのために必要な一切のものを,新たに賜物として下さった(特別恩寵).すなわち,神は聖書を通して語られ,聖書に約束された通りに,時至って,御子キリスト御自身を賜物としてこの世に下さった(ヨハネ3:16).このキリストを頂点とし,また基点として,キリストを受け入れる者には,キリストとともに,キリストに添えて,神はすべての良いものを賜物として下さらずにはおられない(ローマ8:32).<復> すなわち,聖書では賜物という語は二重の意味で用いられている.良い方である神が,すべての人に(すべての人が罪を犯したにもかかわらず)お与えになる,人が地上で生きるために必要な一切の良いものを指す言葉として,また,罪人が罪から救われて神に立ち返り,永遠に神に仕える者となるために必要な一切の良いもの,それに添えて与えられる一切の恵みを指す言葉として,用いられる.神学用語で言えば,前者が一般恩寵であり,後者が特別恩寵である.<復> 6.新約聖書における強調.<復> 新約聖書は後者の意味での賜物を強調して説き明かす.従って,新約聖書は,人が行いによらず信仰によって神からの恵みとしてキリストの救いを受け取る時,その救い自体が賜物であること(エペソ2:8,[ギリシャ語]ドーロン),救いの結果としての永遠のいのちがまた賜物であること(ローマ6:23,[ギリシャ語]カリスマ),信じる(悔い改めてバプテスマを受ける)すべての者に約束されている聖霊御自身もまた賜物であること(使徒2:38,[ギリシャ語]ドーレア),キリスト者がキリストを信じ,その信仰を告白できるというその事自体がすでに御霊の賜物であること(Ⅰコリント12:1‐3,[ギリシャ語]プニューマティコス),さらに御霊がキリスト者それぞれにみこころのままにいろいろな種類の(御霊の)賜物を分け与えて全体の益のために互いに奉仕させること(Ⅰコリント12:4‐11,[ギリシャ語]カリスマ)などを,次々に明らかにしていく.「ことばに表わせないほどの賜物のゆえに,神に感謝します」(Ⅱコリント9:15,[ギリシャ語]ドーレア)と言った時,使徒パウロの心にあったのも,キリストにあってすべてが賜物として与えられるという,この神の恵みの計画の全体像であったに違いない.<復> 7.二種に大別される賜物.<復> 新約聖書が賜物について言及する時の語彙の豊富さ,特にドーレアとカリスマがほぼ同じ頻度で現れている事実は,見逃せない点である.すなわち,賜物には,信じるすべての者に与えられる賜物(主としてドーレア)があり,また全体の徳を高めるためにある特定の者に与えられる賜物(主としてカリスマ)がある.賜物にはその両方があり,その両方が賜物なのだということである.しかも,カリスマは時には永遠のいのちを指して用いられ(ローマ6:23),すべての信者が例外なしに賜物を受けていることを言う場合にも用いられている(Ⅰペテロ4:10).このことは,カリスマという語の概念を,ある特定な狭い意味に限定して理解したり,論じたりすることのないように,私たちを戒める.神の賜物の豊かさの中で,神があまねく惜しまずに与えて下さったものと,みこころのままに特定の者に分け与えられるものとを,正しく識別し,また慎み深く受け取ることが必要である.<復> 8.賜物をどう生かすか.<復> 賜物を健全に認識し使用するための知恵もまた,賜物の与え手である神のものである.聖書が至る所でそれを教えている.直接賜物に言及している箇所に限らないが,イエスの語られたタラントのたとえ(マタイ25:14‐30)はその代表である.この話のタラントの原語[ギリシャ語]タラントンから由来した[英語]タレントは,英語のみならず今や日本語としても「才能」を意味する語として使われるに至った.ミナのたとえ(ルカ19:12‐27)も同趣旨であるが,この二つの話から,hide one’s talents in a napkin(自分の才能を持ち腐れにする)という言い回しが生れたほどである.両方のたとえ話に共通する「だれでも持っている者は,与えられて豊かになり,持たない者は,持っているものまでも取り上げられる」という結論的な教訓は見落せない.「持っている」とは,ただ持っているとか,なくさないとかいうのではなく,「使っている」という意味である.与えられても使わないのは,持っていることにならない.賜物は,それを与えた方の意図に従って用いられるために与えられたのである.「それぞれが賜物を受けているのですから,神のさまざまな恵みの良い管理者として,その賜物を用いて,互いに仕え合いなさい」(Ⅰペテロ4:10)と聖書は教える.なお,この「管理者」([ギリシャ語]オイコノモス,[英語]ステュワード)から「スチュワードシップ」という言葉ができ,現代のキリスト教用語として確立するようになった.<復> 9.御霊の賜物.<復> 賜物についてのバランスのとれた認識と理解に立って,聖書の言う特定の霊的な賜物があることを知る必要がある.聖書では「御霊の賜物」([ギリシャ語]カリスマ,ローマ1:11,Ⅰコリント12:4,[ギリシャ語]プニューマティコス,Ⅰコリント12:1,14:1,12)と表現されることが多い.「御霊が…みこころのままに,おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださる」(Ⅰコリント12:11)からである.それは特定の者に与えられるが,目的は教会全体の徳を高めることにある(Ⅰコリント12:7,14:12).新約聖書にある御霊の賜物のリスト(ローマ12:6‐8,Ⅰコリント12:8‐10,28‐30,エペソ4:11)から,大別して二つのグループに御霊の賜物をまとめることができる.神のことばを語る働きのための賜物と,実際的な奉仕のための賜物とである.使徒ペテロも同じように大別して二種の賜物があること,そしてその両者の目的は一つであることを明言している.「語る人があれば,神のことばにふさわしく語り,奉仕する人があれば,神が豊かに備えてくださる力によって,それにふさわしく奉仕しなさい.それは,すべてのことにおいて,イエス・キリストを通して神があがめられるためです」(Ⅰペテロ4:11).<復> 10.語る働きのための賜物.<復> 語ることにかかわる賜物として,第1に「使徒」([ギリシャ語]アポストロス,「遣わされた者」の意,Ⅰコリント12:28,エペソ4:11)がある.使徒の名称は初め12使徒(ルカ6:13)に,次いでマッテヤ(使徒1:26),そしてパウロ(ローマ1:1,5,Ⅰコリント9:1,2)に与えられ,あるいはバルナバ(使徒14:4,14),アンドロニコとユニアス(ローマ16:7),もしかするとアポロ(Ⅰコリント4:6,9),シルワノとテモテ(Ⅰテサロニケ1:1,2:6),そして主の兄弟ヤコブ(Ⅰコリント15:7,ガラテヤ1:19)にも,与えられた.使徒の特別な任務は,使徒という名が示す通り,福音をまだ信じる者のいない世界に出て行って宣べ伝えることにあった(ガラテヤ2:7‐9).<復> 第2に,「預言」([ギリシャ語]プロフェーテイア,ローマ12:6,Ⅰコリント12:10.参照エペソ4:11)がある.新約の預言者のおもな働きは,ある特定の状況下で教会が知るべき重要な神のみこころを告げ知らせることであった.そのメッセージは,徳を高め,勧め([ギリシャ語]パラクレーシス,ローマ12:8,これをも一つの賜物と見ることができる)をなし,慰めを与えるものであった(Ⅰコリント14:3).また権威をもって特別の任務を与えるケースもあった(使徒13:1,2).決して多くはないが,未来の出来事を予告する場合もあった(使徒11:27,28,21:10,11).その働きはおもに教会に向けられており(Ⅰコリント14:4,22),中には巡回の預言者もあったが(使徒11:27,21:10),コリントの教会がそうであったように,教会ごとに何人かの預言者がいたと思われる(使徒13:1).少数だが名前も残っている(使徒11:28,13:1,15:32,21:9).預言の賜物に関連しそれを補足する賜物として,「霊を見分ける力」([ギリシャ語]ディアクリセイス・プニューマトーン,Ⅰコリント12:10)がある.預言的に語られる言葉を解き,あるいは吟味して,聞く者にそれが神からのものであるか,偽りのものであるかを判別させることをした(Ⅰコリント14:29.参照Ⅰコリント2:12‐16,Ⅰテサロニケ5:20,21,Ⅰヨハネ4:1).<復> 第3に,「教え」([ギリシャ語]ディダスカリア,ローマ12:7,Ⅰコリント12:28,29.参照エペソ4:11)がある.預言者と対照的に,教師の働きは神から新しいことを示されて語るのではなく,すでに確立したキリスト教教理を説明したり適用したりするものであった.その働きは地域教会に限定されていたと思われる(使徒13:1.参照エペソ4:11).「知識のことば」([ギリシャ語]ロゴス・グノーセオース,Ⅰコリント12:8)は,人を励ます知識に富み知識そのもののようなことばであり,この賜物も教えの賜物と関連がある.一方「知恵のことば」([ギリシャ語]ロゴス・ソフィアス,Ⅰコリント12:8)は霊的洞察力を表すもので,これはむしろ使徒や伝道者(参照Ⅰコリント1:17‐2:5,特に1:24‐30)また預言者に関係の深い賜物と思われる.<復> 第4に,「異言」([ギリシャ語]ゲネー・グローッソーン,Ⅰコリント12:10,28,30)と「異言を解き明かす力」([ギリシャ語]ヘルメーネイア・グローッソーン,Ⅰコリント12:10,30)がある.<復> 11.実際的な奉仕のための賜物.<復> 第1に,「信仰」([ギリシャ語]ピスティス,Ⅰコリント12:9)が挙げられる.救いを得させる信仰のことではなく,何らかの特別な目覚しいわざを結果する信仰のことである(Ⅰコリント13:2,ヘブル11:33‐39).<復> 第2に,「いやしの賜物」([ギリシャ語]カリスマタ・イアマトーン,Ⅰコリント12:9,28,30)がある.これは超自然的に健康を回復させる力である(使徒3:6,5:15,16,8:6,7,19:11,12など).<復> 第3に,「奇蹟を行う力」([ギリシャ語]エネルゲーマタ・デュナメオーン,直訳すると「力の力」,Ⅰコリント12:10,28,29)がある.この賜物は様々な奇蹟を行わしめる能力そのものを指すと思われる(マタイ11:20,21,23,ガラテヤ3:5).<復> 以上の三つは力の賜物と呼ぶことができよう.<復> 第4は,「助ける者」([ギリシャ語]アンティレーンプセイス,直訳すれば「助ける能力」,Ⅰコリント12:28)である.これは強い人から弱い人に与えられる援助のことで(使徒20:35),病んでいる人や貧しい人を世話する特別な賜物である.次の三つの賜物はこれに含まれるとも言える.<復> 第5に,「分け与える人」([ギリシャ語]ホ・メタディドゥース,ローマ12:8)である.<復> 第6に,「慈善を行う人」([ギリシャ語]ホ・エレオーン,ローマ12:8)である.<復> 第7は,「奉仕」([ギリシャ語]ディアコニア,ローマ12:7)である.これは監督,あるいはそれ以上に執事の働きが,関連して考えられているに違いない(ピリピ1:1,Ⅰテモテ3:1‐13).<復> 以上の四つを同情の賜物と呼ぶことができる.<復> 第8に,「治める者」([ギリシャ語]キュベルネーセイス,直訳「指示を与える者」,Ⅰコリント12:28)があり,これは各個教会を治め導く権威につながる賜物である.<復> 第9に,「指導する人」([ギリシャ語]ホ・プロイスタメノス,ローマ12:8)がある.これも同じ目的に奉仕する賜物である(この語はⅠテサロニケ5:12,Ⅰテモテ5:17にも出てくる).<復> 以上の二つは教会政治の賜物であると言えよう.<復> 12.御霊の賜物の性格とその永続性.<復> ある賜物は日常的な奉仕の働きの中で用いられ(使徒,預言,教える賜物など),ある賜物は時に応じてその力を発揮した(異言,いやしの賜物など).ある場合,賜物は生得的な能力を解放し,強調する仕方で与えられ(教える者,助ける者,指導する者など),他の場合,明らかに特別なものとして授けられた(信仰,いやし,奇蹟を行う力など).<復> 御霊の賜物の永続性については議論がある.御霊の賜物([ギリシャ語]カリスマタ)は教会の基礎の確立のために与えられたので,そうした賜物の助けなしにも教会が十分存続する力をつけるに至った4世紀までには,賜物の賦与はやんだとする見方と,他方,Ⅰコリント13:8‐12によれば,使徒パウロはキリストの再臨まで賜物は続くとの見方をしていたとする立場がある.この場合,御霊の賜物の現れが歴史とともに間欠的なものになってきている事実を説明するには,教会の信仰や霊性が低下したとするか,あるいは,「みこころのままに」(Ⅰコリント12:11)賜物を分け与えられる御霊御自身の主権的なお考えによるとするか,のいずれかとなる.<復>〔参考文献〕W・コールドウェル『聖霊の実と賜物』福音文書刊行会,1983;New Bible Dictionary (2nd ed.), Tyndale, 1982.<復>(森 和亮)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社