《じっくり解説》世界の教会と神学とは?

世界の教会と神学とは?

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世界の教会と神学…

Ⅰ アジアの教会と神学<復>Ⅱ アメリカの教会と神学<復>Ⅲ ラテンアメリカの教会と神学<復>Ⅳ アフリカの教会と神学<復>Ⅴ オセアニアの教会と神学<復>Ⅵ ヨーロッパの教会と神学<復> Ⅰ アジアの教会と神学<復> 1.歴史と沿革.<復> 古代,地中海東部に栄えたフェニキア人が,自分たちより東方の地域をアス,西方の地域をエレブと呼んだのが,アジア及びヨーロッパの名称の起源であるとされている.アジアという言葉が,ヨーロッパ人によって現在とほぼ同じ範囲を指して用いられるようになったのは,16世紀になってからのことである.すなわち,世界最大の大陸であるユーラシア大陸の大部分と周辺の島々であって,ヨーロッパとの境界は18世紀頃から,ウラル山脈からカスピ海北岸を経て,黒海に至る線が一般的に考えられるようになった.地質学的には,アジアはロシア平原からシベリアに続く大陸と,アラビア半島からインド亜大陸を経て,中国の一部にまで達する南の大陸とから成り,この二つの大陸がぶつかる部分は,ヒマラヤ山脈を初めとする複雑な地形の山地になっている.フィリピンやインドネシアなどの,東南アジアの諸島がアジア大陸から離れたのは,地質学的には氷河期以後のことである.広大なアジア大陸には,あらゆる型の気候があると言ってよい.寒冷な北アジア,そして東アジア,東南アジア,南アジアの湿潤なモンスーンアジア,さらに中央アジア及び西アジアの乾燥アジアまたは砂漠アジアの三つに大きく分けられる.ここに,中国を中心とした東アジア農耕文化圏,インドを中心とした南アジア農耕文化圏,北アジア遊牧文化圏,ペルシヤやイスラムの文化の影響が及んでいる,西アジアと中央アジアの農耕・遊牧・オアシス文化圏という,四つの大きな文化圏が認められる.東南アジアでは,東アジア農耕文化圏と,南アジア農耕文化圏との影響が重複して現れており,日本文化には北アジア遊牧文化圏の影響も認められるが,基本的に日本は,東アジアの中国文化圏に属する.これからアジアを(1)東アジア,(2)東南アジアと南アジア,(3)西アジアの三つの地域に分けてその位置と歴史を概観したい.<復> (1) 東アジア.<復> a.位置.太平洋に面した東アジアは,人口では世界第1,面積では世界第3の大国である中国と,モンゴル・朝鮮半島・日本を含む地域である.面積は1175.9万平方キロで全陸地の8.7%を占めるにすぎないが,人口は16億を越え,世界人口のおよそ3分の1を占めている.<復> b.歴史.黄河の流域には,世界四大河文明の一つである中国文明が生れ,朝鮮半島・日本へ伝わり,漢字・仏教・農業を中心とする独自のアジア文明を作り上げた.近代以後の中国・日本・朝鮮は,それぞれ王朝が交代しながら統一国家として存続してきたが,19世紀後半,日本は急速に近代化し,欧米諸国とともにアジアに進出した.その結果,朝鮮半島は日本に併合され,中国は半植民地のような立場に置かれ,近代化の歩みは少しもはかどらなかった.朝鮮,中国などでは民族独立運動が抗日運動の形をとった.第2次世界大戦後,各国はそれぞれ主権を取り戻したが,中国は本土と台湾に,朝鮮半島は北緯38度線を境にして二つに分れ,社会主義国家の中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国,資本主義国家の中華民国と大韓民国が独立した.そして朝鮮では同じ民族が二つに分れて戦った.日本は敗戦後の急速な成長と経済復興を経て,現在では経済大国としてアジア諸国に進出している.韓国,台湾はかなりの水準の工業化と一人当りの平均所得とを達成し,その他の国との格差も大きい.香港は1997年に英国から中国に返還されようとしている.<復> (2) 東南アジアと南アジア.<復> a.位置.アジア大陸の東南部を占めるインドシナ半島やマレー半島と周辺に散在する島々をまとめて東南アジアと言い,インド洋と太平洋の接点の重要な位置に,タイ・インドネシアなどの9か国が成立している.またヒマラヤ山地帯の南には,インド亜大陸と呼ばれるインド半島があり,インドと隣接する6か国を合せて南アジアと言う.面積は889.9万平方キロであるが,人口は約11億7800万人を数え,東アジアと並び世界人口のおよそ4分の1を占めている.<復> b.歴史.インダス川流域に古代文明が興ったが,前1500年頃西方から,アーリア人が侵入し,先住民と混血しながら定着してバラモン教,仏教,ヒンズー教を生み,インド半島に統一王朝が成立した.しかしその後,仏教は東南アジアや中国へ伝播し,さらに民族の交流,イスラム教の影響を受けて,極めて多様な文化と地域性を生んだ.15世紀末,ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットへ到達したのを初めとして,16世紀に入るとポルトガルはインドのゴア,マレー半島のマラッカを根拠地とし,スペインはフィリピンに上陸して支配を広げた.遅れてオランダ・イギリス・フランスが相次いで進出して,19世紀にはタイを除くほぼ全地域がヨーロッパ各国の植民地となり,アメリカ合衆国も米西戦争の結果,フィリピンを獲得した.さらに,第2次世界大戦には日本も進出して戦場となった所もある.第2次世界大戦の終結は,日本を後退させ,各地で根強く続けられていた民族の独立運動が一気に燃え上がり,国際世論も民族主義を支持したので,各国の独立が実現した.しかし,政治体制や民族・宗教・社会の違いから様々な国が生れ,独立したものの,人口の多い農業国で,政治的・経済的には不安定な国が多く,地域格差も大きい.ベトナムでは同じ民族が二つに分れて戦った.カンボジアも不安定である.<復> (3) 西アジア.<復> a.位置.アジア大陸の西南部を占めるイラン・イラク周辺からトルコ,アラビア半島,シリア,パレスチナに至る地域である.この地域は北緯30度付近に位置する乾燥地域であり,アラブ民族のイスラム文化圏が形成され,20世紀に入ってから石油資源の発見による豊かな産油国として,今世界の焦点となっている.しかし,アジア・アフリカ・ヨーロッパの接点にあり,「東西文明の十字路」と言われてきたこの地域は,大小様々な国が立地し,国際関係も複雑で,政情は不安定である.中でもペルシヤ湾周辺の地域は,20世紀初頭に石油が開発されて世界の注目を浴び,「中東」と呼ばれるようになった.<復> b.歴史.ティグリス,ユーフラテス川の流域に古代文明が興り,ユダヤ教・キリスト教も今のイスラエルの地に生れ,キリスト教は古代文明とともにヨーロッパ文明の基礎となった.7世紀には,アラビア半島でムハンマッド(マホメット)がイスラム教を興し,西アジアから北アフリカ,イベリア半島に広大なイスラム帝国が成立し,文化が栄えた.11世紀からはトルコの勢力が大きくなり,イスラム世界を支配下においた.19世紀後半には進出したイギリス・フランス・イタリアなどの植民地・半植民地化が進んだ.20世紀に入って発見された石油は一層欧米各国の進出を招いたが,一方,アラブ民族の独立運動も激しく,各国は独立を達成した.現在は石油資源を背景に国際社会においても強い発言力を持ち,また各国間の対立も見られる.特にイスラム教・ユダヤ教と結び付いた民族の独立とパレスチナ問題は中東の大きな問題であり,またイスラム教国の中でも派の違うイランとイラクの対立やイラクのクウェート侵攻もあり,様々な問題を持つ地域である.しかし石油の利益が各国の近代化を進める上で大きな力になっている.<復> 以上が東アジア・東南アジア・南アジア・西アジアの概観であるが,アジアの総人口は1989年には27億7千万人であり,これから概観するアジアのキリスト教徒の数は2億4千万(総人口の8.7%)である.アジアの教会を地域別に見よう.<復> 2.東アジアの教会.<復> (1) 中国の教会.<復> 中国のキリスト教の起源は,7世紀に,ネストリオス派(景教)が,ペルシヤ人伝道者アラボンによって唐の首都長安に伝えられた(635年)ことによる.大秦景教流行中国碑が781年に建立されたことからも,かなりの流布を想像することができる.845年,道教を尊ぶ武宗の勅令によって圧迫を受けたが,ネストリオス派は次第に衰退しつつも14世紀まで存続した.13世紀に蒙古大帝国の出現により東西交通が盛んになると,キリスト教は再び中国に入った.首都大都(北京)にはネストリオス派の大主教が任命された.チンギス・ハーンの息子の一人はキリスト教徒を妻とした.<復> ローマ・カトリックも元の時代に中国に伝道を行った.フランシスコ会士ヨアネス(モンテ・コルヴィーノの)が,1294年にマルコ・ポーロについて北京に来た.6千人が洗礼を受けたが,フランシスコ会もキリスト教を根付かせることに失敗した.元が滅び明朝になるとキリスト教は迫害を受けて消滅した.16世紀に,ヨーロッパの宗教的覚醒に駆られたキリスト教宣教師たちは太平洋に進出した.イエズス会士フランシスコ・ハビエルは1549年に日本に達し,中国伝道を望んだが,1552年広東の近くで死去した.イエズス会士ヴァリニャーノは1574年にマカオに上陸し,中国語の知識と文化受容の大切さを悟った.イエズス会士マッテーオ・リッチは1601年に北京に行った.自然科学的知識を持っていたことと中国文化を完全に採用したことが幸いして中国の知識人や官吏の尊敬を受けキリスト教をすすめることができた.彼はキリスト教を儒教の体系に融合することを求めた.その結果,数人の高官を獲得したが中国の典礼論争を始めた.また神を「天」「上帝」と訳し,祖先崇拝を承諾した.<復> 清の初期の皇帝たちはキリスト教に理解を示し各地に伝道所を開くのを許した.イエズス会は中国人信者より成るキリスト教会の設立を真剣に目指した.ドミニコ会とフランシスコ会が宣教に合流して,信者の数は25万を数えた.1717年に康煕帝はキリスト教禁教令を出し宣教師追放を命じた.西洋は中国文化との純粋の出会いの準備ができていなかった.19世紀,ナポレオン戦争後カトリックの中国宣教は復興し,天津条約による伝道の自由のもと,中国の各州に宣教師の活発な活動がなされた.<復> プロテスタントの最初の中国宣教者はロバート・モリスンであった.彼は1819年までに聖書の漢訳を完成させた.アヘン戦争(1840—42年)によって中国は英国に香港を割譲し,賠償金を払わせられた.また外国人の通商と居住のため5港の開港を要求され,治外法権も認めさせられた.中国人は西洋のキリスト教列強のやり方を侵略的,屈辱的行為と考えた.それで西洋人の宣教を帝国主義的侵略と犯罪に加担しているものと見た.「太平天国の乱」(1850—64年)はキリスト教の色彩を持った農民運動として始まったが,死と破壊の悲惨な騒ぎに終った.不平等条約による中国の開国を,宣教師の側は宣教の機会の到来と見たのである.宣教団の代表者たちは条約の5港に入った.最大の宣教師を持った中国奥地伝道会(CIM)はハドスン・テイラー(1832—1905年)によって1865年に設立された.CIMは杭州を初め広い範囲に宣教活動を展開した.CIMのおもな目的は,できるだけ早く中国全土にくまなく福音を宣べ伝える種播き伝道であった.CIMは19世紀末までにほとんどの州に伝道所を開設しその数が260にもなった.こうしてプロテスタントは各地に教会,学校,病院を建て,それらを通して中国人の生活にインパクトを与えた.19世紀の終りまでにカトリックが50万,プロテスタントが7万5千人いた.<復> 西洋の侵略の増加とともに西洋への敵意も増大し1900年に「義和団の乱」が起った.この時カトリックとプロテスタントの宣教師が181人,4万9千人の中国人キリスト教徒が殺害された.1911年に辛亥(しんがい)革命が起り,1912年に中華民国が成立した.しかし地域の統治権を握った軍閥政治が革命を骨抜きにし,中国を混乱させた.1921年には中国共産党が成立した.中華民国の指導者孫文の死後蒋介石の率いる国民党軍が,1930年までに中国を制圧した.1931年には満州事変が勃発した.この時期,中国はおもにプロテスタント教会によって,アジアの他のどの国よりも大きな影響を受けた.大学,医学校,高校の設立によってプロテスタントはエリートの教育を行い,中国人の生活改善を指導した.1915年に33万1千人であった教会員数は,1927年には60万となり,1927年に中国キリスト教会の合同教会が結成された.<復> 共産党の急速な成長は今や深刻な脅威となった.1926年共産党の扇動によって宣教師の中国奥地よりの引揚げが始まりプロテスタント宣教師の数は3千まで減少した.1924年から1934年までに29人のプロテスタント宣教師が殺害され,多数が誘拐され,生き残るために教会は自立せざるを得なくなった.1930年代に中国全土に広まったリバイバルがこの教会自立運動を促進したが,続く内乱は教会の将来の凶兆となった.中日戦争(1937—45年)は中国の教会に厳しい試練を与え,中国全土に共産主義が浸透した.3千人の宣教師が再び国中に散ったが,宣教活動の時は短かった.1949年毛沢東が中華人民共和国を掌握した.1950—51年にプロテスタント宣教師全員が中国本土から撤退した.中国の教会は単独で将来の不安に直面することになった.しかし教会は,大学生の間に起った顕著なリバイバルによって強められた.カトリック宣教師は長年にわたって一人ずつ国外に追放された.<復> 中国ではプロテスタントとカトリックを合せた教会員の数は人口の1%を超えたことがなかった.近代の宣教は中国の文化構造に深く浸透することに再び失敗した.中国の知識人にとってキリスト教は西洋・外国のものであった.共産主義者にとって教会は緊密に西欧帝国主義と結び付きすぎていた.教会は帝国主義の手先という非難を免れられなかった.教会は1950年のプロテスタント宣言によって帝国主義の足かせをふるい落すことに献身し,共産主義への全面的服従を誓った.キリスト教会はキリストと共産党のどちらに忠誠を誓うべきかジレンマに陥った.聖職者に対する大量裁判が全土で行われた.プロテスタントとカトリック双方で多数の英雄的行為があった.海外の諸教会との絶縁を強いられる状況の中で,中国人教会指導者のもとに三自愛国運動が展開された.解放前までのキリスト教が外国の宗教として中国支配の一翼を担ったと考えて,中国教会指導者は外国には一切頼らない「自治,自養,自伝」の三自運動を展開した.つまり,自力で教会を運営し,伝道しようという運動である.こうして教会は1958年までに独自の動きを止められ,1966年の文化大革命でキリスト教会は壊滅状態になった.教会は閉鎖,接収され,聖書や教会用具はすべて廃棄された.同時期,地下では,家の教会が各地で霊的覚醒を体験していた.一方中国のカトリック教会は政府の指示で1957年にヴァチカンとの関係を断絶した.政府管轄の下に中国天主教愛国会を組織し,司教を任命して,教会活動を続けることになった.<復> 1976年の毛沢東死後,四人組の逮捕とともに政府公認の三自愛国教会が再開し,中国基督教会が同時に再開した.またこの苦難の時期にも,独自の道を歩む各地の家の教会が目覚しい成長を遂げていることが判明した.現在三自愛国教会の信者は5百万である.1948年には70万であったので7倍の増加である.他にカトリック(天主教)信者が4百万いる.家の教会の成長は目覚しい.特に河南,浙江,山東,山西,広東,福建各省での家の教会の拡大は目覚しく,中国教会研究センター(香港)など複数の調査機関では少なくとも中国大陸には5千万以上のクリスチャンがいると発表している.1990年の三自愛国教会は5千余の教会堂を持ち,神学校は13箇所にあり,他に3万箇所の家の集会が政府の管理下でその信仰活動を行っている.この三自愛国教会に加わらない家の教会の信徒数はさらに規模が大きく,三自愛国教会の10倍を超えるとされている.1979年以来の解放政策によってキリスト教徒への締め付けが緩和されるかのような印象が海外にはあった.<復> 80年代に入ると,次第に教会は再開され,1982年の新憲法で信教の自由が認められて急速に信者を増やしていたが,1989年6月4日の天安門事件において,民主化を求める人々への虐殺があった.以来,政府の管理下にある三自愛国教会は「共産党への忠誠」を表明し,制限の中に置かれている.一方「家の教会」は状況にかかわりなく今も拡大成長している.今や都市でも地方でも,認可されない集りは非合法と見なされ,その多くが強制的に閉鎖されている.しかし中国は今や霊的収穫の時を迎え,中国にある教会はこの収穫のための働きに取り組んでいる.21世紀に中国がその門戸を大きく宣教のために開いた時こそ宣教の歴史上かつてなかったほどの魂の収穫の場となるだろう.新しい中国が誕生してからの40年間,中国では驚くべき福音の前進があった.それはかつての儒教を中心とした古い体制が崩され,それを崩したマルクス主義もまた幻影でしかなかったことが明白になったからである.その結果,中国にはあまりにも大きな霊的空白ができた.キリストの福音のみがその空白を埋めることのできる唯一の真理だったのである.<復> (2) 台湾の教会.<復> 台湾の宣教は17世紀,スペイン人ドミニコ会士B・マルティネスの基隆(キールン)上陸に始まるが,間もなくオランダが領有してから,商業活動のため東インド会社を設立して,宣教の手段とした.宣教師はこの会社から派遣された.1627年,オランダ人宣教師カンディディウスが初めて台湾宣教を始めた.オランダ人の台湾占領38年間に宣教事業は大いに伸展し,相当な成果を挙げた.根は浅かったがその感化は約百年も残った.オランダ人が台湾から撤退し,代って鄭成功(ていせいこう)が統治者となり,引き続いて次の統治者清朝に至る時代(1662—83年)は宣教中断時代であった.中国支配時代,久しく伝道は絶えていたが,19世紀後半になり,1865年,英国長老教会によって伝道が再開し,またその直前にローマ・カトリックが台湾南部に伝道を始め,迫害の中に教勢は上がった.台湾南部伝道の英国長老教会に続いて,1871年,カナダ長老教会が台湾北部に伝道を開始し,その医師マッカイは堅固な意志と自信と勇気によって多大な影響を及ぼし宣教活動の基礎を作り,台湾人指導者の養成に努めた.伝道とともに医療施設や学校の設立,現地語の聖書発行が行われた.1912年,カナダ長老教会と英国長老教会とが合同して台湾長老教会が生れた.キリスト教徒の数は急速には増加しなかったが,教会は堅実な独立教会形成の途上にあった.1895年から1945年まで日本統治時代に,台湾の教会は急激に成長し,教会堂数と信者数も約2倍に増加した.教会は自治,自己養成,自己伝道に力を入れた.台湾のキリスト教徒は政府と教育問題で衝突した.政府が日本語使用を台湾人民に強制して日本化しようとしたからである.日本の統治時代の後半の1931年以後の15年間は政府は教会に対する態度をガラリと変えた.軍閥を中心とした日本政府は中国征服の野望があり,台湾人は中国系で,台湾はまた南進の拠点であるところから特に人民の思想問題に注意し始め,ここで多くの伝道者が注目の的となった.1939年以後の大戦中,日本政府の反キリスト教感情はいや増しに高まり,教会の集会には特務員の監視が付き,神社参拝の強制,神学院を閉鎖するなど台湾の教会は数々の辛酸をなめた.第2次大戦直前に顕著なキリスト教運動が,山岳地帯の山地人の間で始められた.この大戦中宣教師は自由を束縛されて活動ができず,山岳地帯への福音宣教は日本軍による強力な抵抗に遭ったが,この運動は外部からの援助なしに発展していった.中華民国時代は1945年から現在までで,中国大陸共産主義化のため百万人の人々が大陸から台湾になだれ込んだ.そして1945年から1965年に大きな教会の成長があった.これは農業社会から工業社会への転換期でもあった.プロテスタントは戦後の信徒数3万7千人から1958年に20万,1965年に38万,1979年に45万になった.現在キリスト教人口は総人口1846万の7.3%(プロテスタント4.6%,カトリック2.7%)である.台湾長老教会は,台湾の人々の人権の尊重に関してたびたび声明を出している.台湾の教会は再開される中国宣教に貢献することが期待されている.
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社