《じっくり解説》カトリック,カトリック教,カトリック教会とは?

カトリック,カトリック教,カトリック教会とは?

カトリック,カトリック教,カトリック教会…

[英語]Roman Catholic Church.<復> 1.名称.<復> 「カトリック」とは,ギリシヤ語で「普遍的」という意味である.このことばは,アンテオケの主教イグナティオスがスミルナの教会に宛てた手紙(110年頃)の第8章で「どこでも,イエス・キリストがおられる所には,普遍的な教会([ギリシャ語]ヘー・カトリケー・エクレーシア)が存在する」と語ったことに始まり,エルサレムのキュリロスにより,すべての地域のすべての人を導くがゆえに「普遍的」と言う,と定義付けがなされた(348年頃)ことによって一般的な名称となった.<復> 2.組織.<復> ローマ司教すなわち教皇(法王)をかしらとする階級制度に基づく教会である.教皇聖座([英語]Holy See)は,カトリック教会の最高機関である.その中に教皇を補弼(ほひつ)する機関として,枢機卿会,司教会議,教皇庁その他がある.<復> (1) 枢機卿会.枢機卿とは教皇の最高顧問機関のメンバーとしての職名で,教皇により任命され終身制である.1986年末現在で総数143名,そのうち教皇選挙権を持つ80歳以下の枢機卿は114名である.枢機卿会の最も重要な任務は教皇の選挙で,システィーナ礼拝堂に閉じこもってコンクラーベ(教皇選挙会)を行う.全投票の3分の2プラス1票が,教皇選出の条件とされる.<復> (2) 司教会議.教皇の諮問機関であるが,議会に準ずる機能を有する.<復> (3) ローマ教皇庁.教皇の教務執行中央機関である.その最高機関は国務省であり,国務省の下に10省,3庁,29評議会及び委員会,ほか数多くの行政機関がある.<復> 現在ローマ・カトリック会員は8億5千万人と言われる.また,教皇聖座は中立主義のため国際連合には加盟していないが,オブザーバーを派遣している.<復> 3.教理.<復> (1) 教皇首位権.これは,教皇レオ1世(440—461年在位)が「偽クレーメンス文書」(360年頃)のペテロのことばを引用してローマ司教の首位権を主張したことに始まる.この文書には,使徒ペテロが,自分の死が近付いたことを知ってクレーメンスをローマ教会の司教職に任じ,マタイ16:19にある「つなぐ」ことと「解く」こととの特権を与えると,ローマ教会の全会衆の前で宣言したこと等が書かれている.これは,中世カトリック教会でたびたび引用され,その都度,教皇首位権が確認された.<復> もう一つ根拠とされた文書は,「コンスタンティーヌス大帝の寄進状」(750年頃)である.それには,アンテオケ,アレキサンドリア,コンスタンティノポリス,エルサレムの総主教に対する首位権がローマ教皇にある,と皇帝コンスタンティーヌス1世が認めたと記されている.<復> (2) 功績の宝庫([ラテン語]Thesaurus meritorum).「教会によって分配されるキリストの功績の宝庫」の教えは,13世紀以後のカトリック神学者によって形成された.これは,十字架上で流されたキリストの血を神が自らの宝庫に保管し,この宝を,信者の救いのために分配するための鍵の権能を所有する使徒ペテロとその後継者(教皇)にゆだね,心から悔い改めて告白懺悔した者の有限の罰を全部または一部赦すために用いることを任せたという免償の教理である.さらに,この宝庫の中に神の母マリヤの功績,諸聖人の功績すなわち殉教者たちの流した血が加わり,功績の宝は増え続けていくと教える.カトリック教会の義化の教理はこの功績の宝庫の教理に支持され,トリエント公会議において決議された.<復> (3) 諸聖人の通功.天国にいる者と煉獄にいる者と地上に存在する者とが一つの国に属する者として,祈り,償い,恩恵の助けを交流し合うという教えで,「勝利の教会」(天国の聖徒たちの群れ)と「戦いの教会」(地上の教会)との交流に関するものである.<復> 4.典礼.<復> (1) サクラメントの典礼.カトリック教会では,洗礼(バプテスマ),堅信,聖体(聖餐),告解,終油,叙階,婚姻の七つがサクラメント(秘跡)として決められている.このうち,洗礼,堅信,叙階は,一度しか受けられないものである.またミサ典礼は,ことばの典礼と,感謝の典礼(プロテスタントの聖餐式に当る)との部分から成っている.そのほか,準秘跡として,建物の聖別などがある.<復> (2) 聖務日課の典礼.この典礼は,「いつも油断せずに祈っていなさい」(ルカ21:36)とのみことばに基づく.聖務日課には,朝の祈り,晩の祈り,読書(聖書,注解書等),昼間の祈り,寝る前の祈りの五つの時課があり,その中で最初の二つは毎日の聖務日課の最も重要な部分である.この二つは初めの祈り,賛美歌,二つの詩篇と一つの聖書賛歌の唱和,聖書朗読,応唱,交唱と聖書の歌,共同祈願,主の祈り,結びの祈り,派遣の祝福の構成でなされる.<復> (3) 典礼暦年(教会暦).聖節の部(①待降節と降誕節,②復活節の準備期,③復活節,④聖霊降臨の主日後の時)と,聖人祝日の部とに分けられる.<復> 5.教育.<復> ローマ帝国によるキリスト教公認は,キリスト教教育を盛んにした.特に6世紀になると,修道院を中心に,聖書教育が始められるようになった.修道者たちは,典礼に参加するために詩篇を暗唱しなければならなかった.ローマのカッシオドールス(490年頃—583年)は,自ら創設したヴィヴァリウム修道院の教育方針を聖書の学びに置いた.彼の学習計画は,第1に聖書の写本を正しく校訂すること,第2の仕事は聖書本文の解釈であった.このために,聖書注解者の著書が図書館に集められた.特にヒラリウス,キュプリアーヌス,アンブロシウス,ヒエローニュムス,アウグスティーヌスの著書を中心とした.また,グレゴリウス1世のラテラノ図書館には,宗教会議の文書,聖人伝,教父(特にアウグスティーヌス)の著作集が集められた.<復> 聖書教育の場所は6世紀から7世紀には,フランス,ドイツ,そしてヨーロッパ全土に広まっていた.教区学校や司教学校が建てられ,これらの学校では典礼書の読み方と歌い方も教えられていた.<復> また7世紀は,ギリシヤ語からラテン語へと,典礼用語が移り変った時代でもあり,ビザンチン式典礼に代ってラテン式典礼が中心となった.ケルト人,アングロ・サクソン人,フランク人は,ローマに来てローマ典礼を学び,自分たちの国へ持ち帰った.一方ビザンチン式典礼の特色である聖歌は,ローマ典礼に大きな影響を与えた.ローマ典礼がカトリック教会全域に伝えられていく中で,一つの変化が見られた.すなわちミサ典礼の執行が司教と司祭だけの特権となり,聖餐のぶどう酒はキリストの血そのものであるから無駄にされてはならないという理由で,一般信徒が陪餐でぶどう酒を受けることは許されないこととなったのである.<復> 6.歴史.<復> (1) 2,3世紀の教会.70年から140年頃にかけて教会は,シリア,小アジヤ,アルメニア,ローマ,カルタゴと様々な地域に種々の礼拝形態を伴いながら拡大していった.その中で特にローマ教会の関心は教会の組織に,アレキサンドリアは神学問題に,アンテオケは苦行すなわち修道に向けられていた.そして,この三つが教会全体を指導した.<復> (2) 235年から285年頃のローマ帝国.この時期,帝国は,外部からはササン朝ペルシヤ帝国の攻撃,内部では権力の不安定という恐るべき危機に直面していた.しかしローマ帝国内の不安定さに反して,カトリック教会は確実に成長し,教理の確立に努めていた.<復> (3) アリウス論争の始まり.キリスト教が国教化への道を歩み始めた時,棄教したことのある聖職者が授ける洗礼の無効を,カルタゴ教会の主教ドナートゥスが主張した.これに対しローマ教会は,執行者の個人的な状態がどうであれ,正しい授け方によるならば有効であると主張した.この論争はカルタゴ教会のローマ教会からの分離へと発展し,ドナトゥス派に参加してくるカトリック教徒に再洗礼を施すまでに至った.<復> 同じ頃のアレキサンドリアでは,主教アレクサンドロスと長老アリオス(アリウス)との間に三位一体論争が起った.アリオスは,箴言8:22の70人訳ギリシヤ語「造られた」を根拠に,御子は御父に従属すると主張した.この論争はその後,55年にわたる大論争となった.この間にアリオスが死ぬと,賛同者たちは民族大移動前のゲルマン諸族間に伝道を開始し,カトリック教会に対抗する大きな勢力となった.<復> (4) 修道制の発達.カトリック教会とアリウス派教会との論争が続く中,エジプトでは,隠修士アントーニオスがマタイ19:21に基づき隠修生活に入った.このアントーニオスの修道制は,ヒエローニュムス,アンブロシウス,アタナシオスによって西方に伝えられた.また,アントーニオスと同時代人であるパコーミオスは,エジプトに共同生活型修道院を創設した.パコーミオスの作った会則は,コプト語からギリシヤ語に,さらにギリシヤ語からラテン語に翻訳されて,その後の東方修道制や西方修道制の模範となった.またカッパドキアのバシレイオスは,服従(マタイ19:21),従順(ピリピ2:8),労働を重視した.<復> やがて,道徳が低下し,すぐれた司教を登用することが困難となると,教会は修道院に司教養成を依頼し,修道院は司教養成所となった.司教養成所出身の司教は,自分たちの周りに司祭を集めて司祭団を形成し,司教区修道院をつくり,戒律を与えた.それぞれの司教区修道院が創設者による会則を持ったので,会則の氾濫となった.このような時,ヌルシアのベネディクトゥスが修道院をつくったが(529年頃),極端を嫌う性格から会則を中庸的なものとし,有機的な組織化をもって修道院を運営しようとした.彼の考え方はグレゴリウス1世に受け入れられ,この教皇はベネディクトゥス会則を用いて教会改革すなわち典礼改革を行った.<復> (5) カロリング朝のフランク教会.8世紀の半ば頃,フランク教会を通じてベネディクトゥス会則は西ヨーロッパ全体に伝わっていった.会則が積極的に取り入れられる反面,大修道院長を王族が兼ねることによって,聖職売買が頻繁に行われていた.また,領主と教会による十分の一税の徴収が法令化された.サラセン人の侵入と,俗人が修道院長や尼僧院長の位につくことによる混乱とが,フランク教会を襲った.813年トゥールの宗教会議では,聖職者は,民衆のことばで説教するか,あるいは通訳を用いるか,いずれにしろ一般のことばで説教することが義務付けられた.<復> (6) グレゴリウス改革.ローマ司教座の他の司教座に対する優越性については,教皇グレゴリウス1世以来問題となっていたが,ローマがマタイ16:18,19を,他の司教たちはマタイ18:18を主張して,互いに対立していた.この時,教皇庁は「コンスタンティーヌス大帝の寄進状」を発表した.ローマ皇帝コンスタンティーヌス1世がローマ教皇の首位権を認めたという文書が公開されることによって,カロリング朝フランク王国は一つの教会,一つの王国の理論を確立した.またカトリック教会はカロリング朝の助けを得て,教皇の権威を強化していった.9世紀中頃になると国家権力は弱体化し,統一理念は失われてしまったが,カトリック教会は霊的権威を確立していった.偽イシドールス教令集(「コンスタンティーヌス大帝の寄進状」を含む)が集成され,彼らは俗権が教会を侵害することに反対した.しかし,カロリング朝が衰退期に入ると,封建制度に生きる領主たちは慣習に従って法を発布し,裁判を行った.そして,宗教的職務を遂行するために,聖職者は領主であることが必要となった.こうして,すべての新任の司教は権力をも与えられることとなった.このような状態は,俗人による教会の侵害を生む結果となった.聖職売買はこのようにして発生したのである.<復> クリュニー修道院連合体は,この聖職者の堕落の進行に歯止めをかけるために,ロートリンゲンの教会改革を推進していたブルノーを,レオ9世として教皇の位に上らせた(1049—54年在位).レオ9世はローマ赴任の際,自分が改革した修道院の修道士2人を伴った.この3人を中心として,ローマ教皇庁は教会改革を開始した.そしてこの改革は,レオ9世の伴った修道士の一人ヒルデブラントすなわち教皇グレゴリウス7世に受け継がれ,聖職叙任権の問題を巡って皇帝と激突することになった.グレゴリウス7世が求めていたのは教会の世俗権力からの全面的自由であった.これを実現するために,彼はマタイ16:18,19に「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」という聖句を付け加えて引用し,教皇の聖職者に対する完全な権力と,この権力はペテロの後継者にゆだねられていること,さらに教皇のみが主の羊の群れである信徒を牧する配慮を得ており,それゆえ何人も教皇をさばくことはできないことを主張した.そして,彼もレオ9世と同じように,「コンスタンティーヌス大帝の寄進状」を教皇首位権の論拠とした.<復> (7) プロテスタント教会への道.時代が十字軍の時代へと移ると,カトリック教会は十字軍の問題で財政を極度に疲弊させた.このような時代背景の中でフランシスコ会(1210年),ドミニコ会(1216年),カルメル会(1245年),アウグスチノ隠修士会(1256年)などの托鉢修道会が次々に創設された.第4ラテラノ公会議(1215年)は,信徒が母国語で説教を聴くことができることを決議し,また説教師と聴罪司祭を司教座聖堂に置くことを決議した.さらに第2リヨン公会議(1274年)では,托鉢修道士たちの特権を認めた.これによってフランシスコ会士たちは東洋への伝道を開始し,中国に至った.他の托鉢修道会は,説教師,聴罪師,あるいは異端審問官として,ヨーロッパ全土に伝道を開始した.しかし,このことは教区の聖職者と多くの司教たちの権利をすべて無視することとなった.教皇ボニファーティウス8世は司教と教区司祭の権利を守るため,説教をしたり告解を聴いたりする前に教区司祭の許可を受ける義務を托鉢修道士たちに課し,司教は許可済みの者の中からさらに決められた数の者に,その任務を実際に行う許可を与えることとした.古い修道会と新しい修道会との争いは,こうして始まった.<復> その上,教皇とフランス国王との紛争を発端として,ローマ教皇庁の70年以上にわたるアビニョン滞在が1309年に始まった.フランク教会以来の伝統は,国王が教会に自由に課税することを許していた.教皇はこれを改革しようとしたが,フランス国王に押え付けられ,やがて教皇庁はアビニョンに移された.教皇庁がペテロを守護聖人とするローマから離れたことで,全カトリック教会からの献金はやみ,財政は疲弊した.そのために財源をフランス国王に求めることになり,聖職売買を盛んにした.高位聖職者の堕落は聖職者全体に及んだ.イギリス国王は,ペテロ献金をローマ教皇庁へ送ることを拒否した.ついに1377年,多くの助言者の仲裁により,教皇庁はローマに戻った.しかしフランス人枢機卿たちはアビニョンに自分たちの教皇を選び,ローマ教皇庁はローマに自分たちの教皇を選んで対立した(1378—1417年).このような状態の中で,免罪符の販売と免償説教師の働きが,教皇庁の財政困窮の解決策として用いられるようになっていった.<復> (8) 宗教改革.マルティーン・ルター(1483—1546年)がカトリック教会の免償についての教えに対して95箇条の提題を公にし(1517年10月31日),悔悛の秘跡(告解の秘跡)を批判した時,彼は宗教改革への道を歩み始めたのである.ルターは,悔悛の秘跡が適用されるのは教会法が効力を発する範囲においてのみであることを主張した(第8条).これは,シクストゥス4世の勅令(1476年)に基づく,全免償を代祷によって死者に適用させるという教理に対する批判であった.彼はまた,「教会によって分配されるキリストの功績の宝庫」についての教理(クレーメンス6世によって1342年勅令)をも批判した(第58条).このように,ルターが提出した95箇条の提題は,カトリック教会の教理そのものを土台から揺り動かすものであった.ルターは矢継ぎ早に新しい文書を提出し,福音の真理を明らかにした.ドイツで始められた宗教改革は,スイス,フランス,オランダ,イギリスへと広がっていった.<復> (9) 対抗宗教改革.宗教改革に反発し,あるいは刺激されて,カトリックの中で起った対抗宗教改革運動は,カトリック教会を没落から救い,今日までその強大な勢力を伸張させる出発点となった.イグナティウスに率いられたイエズス会士は,教皇の命じる所ならどこへでも行って,トリエント公会議(1545—63年)で決議された内容と矛盾する教理を廃止しカトリック教会を刷新することを誓い,実践していった.また,ドミニコ会士は典礼改革を行い,統一的な典礼書の出版に努め,ロザリオの祈りを世界中に広めた.カプチン会士やプレモントレ会士は,神聖ローマ帝国最後の王朝ハプスブルク家の宮廷に仕えた.また,この時期にアウグスチノ会士,フランシスコ会士,イエズス会士,ドミニコ会士たちがインドのゴアを中心にアジア伝道を開始した.しかし,このアジア伝道において典礼論争が起った.中国で伝道していたイエズス会士が土着宗教に対して妥協的であるとして,問題となったのである.教皇クレーメンス14世は1773年にイエズス会の解散を命じた.だがこの時期,彼らは神聖ローマ帝国への伝道,そしてロシアへも伝道を始めていた.イエズス会は1814年ピウス7世によって再び公認され,活動を再開した.<復> 1849年に教皇ピウス9世は「無原罪懐胎」の教理の決定化を全世界の司教たちに尋ねた.そして1854年11月,カトリック信仰の真理としての宣言を行った.これは公会議を開かずの決定であり,教皇の不謬権を前提としていた.<復> (10) 第2ヴァチカン公会議.レオ13世は1894年,東方典礼の維持の意義を告げ,「教会一致」を呼びかけた.1929年,ピウス11世は「ヴァチカン市国」を創設するための協定を結んだ.そして20世紀の初頭,マリア・ラーハ修道院のベネディクトゥス会士たちが教会を「キリストの神秘体」として理解することによって,中世以来の,教会を法的共同体として把握する方法を,「終末的完成を待ち望みつつ旅する教会」として理解する方法へと大きく変化させたのである.彼らの考え方は,その後のカトリック教会の神学を新しい方向へと進ませた.それは「神秘神学」を中心に置く神学体系である.これによって第2ヴァチカン公会議への道が備えられた.<復> この公会議(1962—65年)では,東方教会とプロテスタント教会からオブザーバーが招待された.1894年レオ13世によって呼びかけられた「教会一致」の希望が,ここで確認されたこと,その後,聖書協会世界連盟と協力して各国語でカトリック,プロテスタント共同訳聖書の刊行が始められたことは注目されよう.さらに,この公会議で,カトリック教会は開かれた教会を宣言し,キリスト教以外の諸宗教との対話も始めた.<復>〔参考文献〕P・リシェ『中世における教育・文化』東洋館出版社,初版1988;M・パコー『テオクラシー—中世の教会と権力』(歴史学叢書)創文社,第1刷1985;上智大学中世思想研究所編訳監修『キリスト教史』全11巻,講談社,第1刷1980—82;“Ignatius to the Smyrnaeans Ⅷ,” Apostolic Fathers (Loeb Classical Library) Vol.1, Harvard Univ.,1975.(太田良一)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社