《じっくり解説》復活<復>とは?

復活<復>とは?

復活<復>…

1.復活と蘇生.一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象,いわゆる「蘇生」と,中間時代以降その思想が目立ち始めた終末的な現象としての「復活」とは,区別されなければならない.前者の例としては,エリヤやエリシャによる蘇生の奇蹟が有名であるが(Ⅰ列王17:17‐24,Ⅱ列王4:18‐37),同様な例は新約聖書にも見られる(マルコ5:35‐43,使徒9:36‐43).もっとも新約聖書の場合は,それらの蘇生をも終末的な出来事との関連で理解している可能性も考えられる(典型的な例はマタイ11:5,27:52,53).しかし,いわゆるキリスト教の復活とは,単に生前の肉体が再びいのちに返るということではない.パウロが「御霊のからだ」(Ⅰコリント15:44)と表現しているように,復活のからだは生前の肉体そのままではなく,また,「神のラッパの響きのうちに」(Ⅰテサロニケ4:16)と描かれるように,それは終末的な出来事である.また,特に新約聖書においては,信仰者の復活はイエス・キリストの復活と関連付けられており(Ⅱコリント4:14,Ⅰテサロニケ4:14),キリストが「眠った者の初穂」(Ⅰコリント15:20),「死者の中から最初に生まれた方」(コロサイ1:18,黙示録1:5)と呼ばれるように,キリストの復活と信仰者の復活とは別個の出来事ではなく,一つの関連性を持った出来事としてとらえられている.従って,ここでは蘇生と復活とを区別して論ずるが,しかし,死者の復活とキリストの復活とを同じ項目の中で扱うことにする.<復> 2.復活信仰の重要性.<復> 復活に関する信仰箇条が非常に早い時期に成立していることから理解できるように,復活信仰はキリスト教会にとって極めて重要な信仰であった.Ⅰコリント15:3後半以下はパウロ以前にさかのぼる伝承に由来するものであると言われるが(15:3の「受けた」「伝えた」は伝承の継受を示すユダヤ教の用語.伝承の起源を巡っては定説はないが,ヘレニズム教団説とエルサレム教団説とが対立している.最も早い立場では,パウロ回心後のエルサレム訪問時の36年頃にはすでに成立していたとされる),その伝承を引用したパウロ自身,「最もたいせつなこと」として伝承を紹介し,もし復活がないならば,キリスト教は「実質のないもの」,「信仰はむなしい」と断言している(Ⅰコリント15:3,14,17).さらに,復活信仰は早期に成立したというばかりではなく,「使徒の働き」によれば,宣教の中心を占めていた(2:24‐36,3:13‐15,4:2,10,11,33,5:30,10:39,40,13:27‐38,17:3,18,31,26:23).このことは,降誕記事を省略する福音書があっても,復活記事を省略する福音書がないことからも理解できる.何よりも復活信仰の重要性を物語るものは,失意の弟子たちを再び世界宣教へと立ち上がらせたという事実である.この事実は,復活信仰を抜きにしては説明がつかない出来事である.このように,復活信仰の重要性に関しては,ほとんどの学者には異論のないところである.もっとも,後で触れるように,復活者との出会いという弟子たちの経験の性質については,その理解を巡って様々な見解が対立しているのが現状である.<復> 3.旧約聖書と復活.<復> 旧約聖書には死からの復活という希望はほとんどない.死者の霊に伺いを立てるという風習は周辺世界で見られるが(Ⅰサムエル28:6‐19,イザヤ19:3),死後の世界との交渉を禁ずるイスラエルでは(レビ19:31,申命18:11,12),死後の人間観や死を超える希望は形成されにくい状況にあった.死は人間の終りであり(創世3:19),よみに下る者には神と交わる希望すらない(ヨブ7:7‐10,詩篇6:5,30:9,88:10‐12,115:17,イザヤ38:18,19).しかし,他方では神の支配はよみにまで及び(詩篇139:8,アモス9:2,ホセア13:14),死が神との交わりを完全に断つものではないという確信に言及した聖句も見られる(詩篇16:10,49:15,73:23‐26).ホセア6:1,2やエゼキエル37:1‐14は,個人の復活ではなく,イスラエル民族としての回復を預言したものであるが,しかし,一つの表象としての復活が前提にあることは否めない.もう少しはっきりした形で復活のことに言及するのは,イザヤ26:19である.ここでは正しい者の復活が念頭に置かれるが,ダニエル12:2に至って,初めて悪人と正しい者の復活という二つの復活の概念が表明され,しかも,「永遠のいのちに」よみがえるという終末的な表現が登場して来る.しかし,ここでもまだすべての者の復活ではなく,「多くの者」の復活に限られている.<復> 4.中間時代と復活.<復> ユダヤ教の世界で復活について多くのことが語られるようになったのは,いわゆる中間時代以降のことである.ただし,この時代においても,ユダヤ教に共通した一定の見解が存在していたというわけではない.ダニエル書には,上述した通り,かなりはっきりした形で復活について言及されているが,それ以降に書かれた「第1マカベア書」(前2世紀後半)には,全く言及がない.しかし,ほぼすぐ後に記された「第2マカベア書」7:9以下及び12:43,14:46には,はっきりした形で肉体の復活への希望が述べられている.前2世紀前半の知恵文学「ベン・シラの知恵」は,依然として,よみにおいては神を賛美する機会はなく(17:27,28),そこから戻ることなどあり得ないと語る(38:20‐23).またパリサイ派は復活を信じていたが,サドカイ派はそれを否定していたとする新約時代の記述も(マルコ12:18,使徒23:8),中間時代にそのまま適用できるとは限らない.少なくともパリサイ派的文書の「ユデト書」(前2世紀?)には,復活に対する言及はない.同じくパリサイ派的文書の「ソロモンの詩篇」(前1世紀?)には,一方では義人の永遠のいのちへのよみがえりや(3:12),イスラエルの民族としての復活について語られているが(11:8),他方では永生の約束だけが語られ(13:11,14:3),時として,死後には神のあわれみも神を思う希望もないかのような発言も見られる(16:6).前2世紀頃に成立したと言われる「12族長の遺訓」には,イスラエルの義人の復活が肯定され(ユダ25:4,ゼブルン10:2),さらに義人と悪人の復活についても語られる(ベニヤミン10:8).しかし,同じ遺訓文学に属する「ヨブの遺訓」(前1世紀—紀元2世紀)には,復活の思想と同時に,義人は死後ただちに肉体も含めて天へと引き上げられ栄光の冠を受けるとも記される(4:9と39:8‐40:3を比較).新約時代とほぼ同時代の頃の黙示文学には,様々な例が見られるようになる.例えば,「エチオピヤ語エノク書」(前2世紀—紀元1世紀)によれば,人の子が呼ばれ審判が行われる時に,大地はその預かりものであった死人を返す(51:1‐5.参照「第2エスドラス書」7:32,「シリヤ語バルク黙示録」50:2).死人のよみがえりの時期に関しては,「シリヤ語バルク黙示録」(2世紀初頭)によれば,先在のメシヤが現れる時であり(30:1),「第2エスドラス書」(1世紀後半)では,400年の支配を終えたメシヤが死んでから7日後のことである(7:29‐32).これらの書物では,よみがえりは生前の肉体そのままが預かりものとして返されるが,その後義人のからだは天使のように栄光のからだへと変えられ,悪人はますます醜いからだとなる(「シリヤ語バルク黙示録」51:1‐12,「第2エスドラス書」7:95‐97).クムラン教団が復活思想を持っていたかどうかは,解釈の分れるところである(参照「感謝の詩篇」3:19,6:29,34,11:12).<復> 5.新約聖書と復活.<復> 新約聖書の教団が中間時代及び同時代の様々な思想グループと異なっているのは,復活のメシヤとの出会いという決定的な出来事を体験しており,その体験によって様々な復活に関する記述が決定付けられている点である.上に見た中間時代のユダヤ教の思想の中には,メシヤの復活という思想は全くなかったし(あえて挙げれば,「第2エスドラス書」7:32にある復活には29節の死んだメシヤも含まれるが,新約聖書が言うような救済的側面は全くない),復活が歴史上の現実の出来事として語られることはなかった.従って,新約聖書の復活信仰は,これらの思想グループと共通性を持ちながらも,しかし,その体験の特殊性のゆえに,極めて異なる特徴を持つ.<復> (1) 復活を伝える伝承と史実性.イエス・キリストの復活の様子は,ルカの福音書の記事によれば,空の墓の発見,天使による御告げ,復活のキリストの顕現という順序をたどる.しかし,この順序がそのまま伝承の形成発展の順序に反映されているとは限らない.特に空の墓の伝承と復活者顕現の伝承がどういう関係にあったのかは,今なお定説があるわけではない.神がイエスをよみがえらせたという使信(使徒2:24,32,3:15,4:10,5:30,10:40,13:30,17:31,ローマ10:9,ガラテヤ1:1,コロサイ2:12,Ⅰテサロニケ1:10)や,復活のキリストが現れたという使信(使徒13:31,Ⅰコリント15:5以下)が,「使徒の働き」や書簡の中でも伝えられるのに対し,墓が空であったという伝承は,福音書以外のところではほとんど言及されることがない(あえて挙げれば,使徒2:29‐31.Ⅰコリント15:4の「葬られた」の背後に空の墓の伝承を見る学者もあるが,この句は復活に関して付加されたのではなく,むしろ構造的にその前の「死んだ」という事実を補強している).また,空の墓の伝承は復活を証明しようとする弁証的モチーフによって支配されている,としばしば指摘される.従って,空の墓の伝承は後代の二次的な伝承に属するという説もあるが,しかし,弁証的モチーフが空の墓の伝承と結び付けられるのは,比較的新しい層においてであって(例えば,マタイ27:62‐66,28:11‐15,「ペテロ福音書」8:28‐11:49,「ヘブル人福音書」17,「ニコデモ福音書」13:1‐3),マルコの伝承では復活の事実性を「空の墓」によって証明しようという積極的な意図は読み取れない.従って,二次的な要素の有無からすれば,空の墓の伝承は顕現伝承と競合する古い伝承である可能性もある.また,沈黙からの議論によって,ただちに空の墓の伝承がパウロ以前に存在しなかったと言うこともできない.そもそも空の墓の伝承は復活を証明するために存在したのではないし,後代の伝承が示すように墓が空であったというだけでは復活の証明にはならない.従って,復活の事実性を基礎に据えるⅠコリント15章に空の墓の伝承が言及されないとしても不思議ではない.とすれば,復活を語る伝承は,早い時期から競合する複数の類型で伝えられていた可能性があり,独立した複数の証言が存在することは,復活体験の史実性を補強する一つの材料となり得る.さらに,メシヤの復活については,上に見た通りユダヤ教において並行する思想を見出し得ないゆえに,ユダヤ教の思想に影響されて伝承を創作したとも考えられない.さらにまた,キリストの復活の日付である「3日目」という数字の由来も,様々な説明がなされるが,復活の事実以外の説明で満足の得られるものはない(例えば,ホセア6:2にその起源を求める者もいるが,この句が復活との関連で言及されるのは,後世のことである).以上のことはいずれも,復活の史実性を暗示するものとして数えることができる.<復> (2) メシヤの復活の意義.キリスト教会,とりわけパウロは,メシヤであるイエスの復活を,終末的な時代を画する出来事として理解していた.この点では,死人のよみがえりを終末の到来と新時代開幕のしるしと理解していたユダヤ黙示思想と共通するものがあるが,しかし,イエスの復活において新時代が現実に開幕したと考えるのは,キリスト教会独自の主張である.キリストは初穂として(Ⅰコリント15:20,23),あるいは初子として(コロサイ1:18,黙示録1:5)死人の中からよみがえられた.その復活は信仰者の復活を予表し保証するものであり(ローマ6:4,5,Ⅰコリント6:14,Ⅱコリント4:14,Ⅰテサロニケ4:14),信仰者はやがて復活のキリストのからだのように栄光の姿へと変えられる希望を与えられている(ローマ8:29,Ⅰコリント15:48,ピリピ3:21,Ⅰヨハネ3:2).このようにメシヤの復活は信仰者の復活を確かなものとするが,それはまた世界更新の希望とも関係付けられ(ローマ8:18‐25.参照Ⅱコリント5:17,ガラテヤ6:15),神の国の完成とも関連付けられる(Ⅰコリント15:24).しかし,それは信仰者にとって単なる将来的な希望ではなく,洗礼(バプテスマ)において信仰者はキリストの復活にあずかり,すでに生かされた者とされている(コロサイ2:12.参照エペソ2:5,6,コロサイ3:1).確かにキリストの復活は信仰者の救済にとって不可欠であり(ローマ10:9),新生と生ける望みとを与える出来事であると表現される(Ⅰペテロ1:3).こうして復活によってキリストは,神の子(ローマ1:4)として定められ,死んだ者にとっても生きている者にとっても主となられ(ローマ14:9),信仰者のためにとりなして下さり(ローマ8:34),生かす御霊となられた(Ⅰコリント15:45).<復> (3) 死人のよみがえり.新約聖書は中間時代の黙示文学に見られるように,義人と悪人を問わずすべての者がよみがえることを告げるが(使徒24:15),前者にとっては救いの完成のためであり,後者にとってはさばきを受けるためである(ヨハネ5:28,29).パウロ書簡では特に信仰者の復活のことが述べられる.復活の時期については黙示文学的に語られ,「終わりのラッパとともに」起ると言われる(Ⅰコリント15:52,Ⅰテサロニケ4:16).その時,キリストの再臨があり,キリストにあって死んだ者がまずよみがえり,生きている者は変えられる(Ⅰコリント15:23,52,Ⅰテサロニケ4:16,17).上述した通り,この信仰者の復活の確かさは,キリストの復活によって保証されている.そのことは「卑しいからだを,ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださる」(ピリピ3:21)希望を生み,「からだの贖われることを待ち望む」信仰を生む(ローマ8:23).復活のからだは「朽ちないもの」「栄光あるもの」「強いもの」「御霊に属するからだ」と言われるように,地上での肉体がそのまま再現されるのではない(Ⅰコリント15:42‐44).イエス・キリストはそれを「天の御使いたちのよう」と表現しておられる(マルコ12:25).しかし,霊的なからだへの復活と,霊的な復活とは区別されなければならない.Ⅰコリント15章においてパウロは,復活は霊的な意味において済んでしまったのでからだの復活はあり得ないとするグノーシス的論敵に対し(Ⅰコリント15:12.参照ピリピ3:11,12,Ⅱテモテ2:18),まさにからだの復活の重要性を説いているのである.<復> 6.現代神学と復活.<復> 19世紀の自由主義神学は,正統主義神学の教義学の結論に支配された素朴な聖書解釈に対して,徹底した歴史的批評的研究を用いた結果,聖書記事の史的要素に対し極端に否定的となり,合理的自然主義的解釈へと向かわざるを得なかった.そこでは復活記事は,仮死説や幻覚説,捏造(ねつぞう)説などによって様々な説明が試みられ,また宗教史学派によって他宗教からの影響が論じられた.一般に現代神学は,このような自由主義神学を相克しようとする形で登場し,復活の議論もそのような神学史の中で発展してきた.ここではまず,K・バルト(1886—1968年),R・ブルトマン(1884—1976年),W・パネンベルク(1928年— ),J・モルトマン(1926年— )の4人を取り上げたい.<復> まず,バルトによれば,復活は信仰によってのみ知り得る神の啓示行為であり,歴史的な証明になじむものではないので,あらゆる自然主義的な試みは否定される.バルトにとって信仰告白の中心を成すものは,イエス・キリスト,とりわけその十字架と復活である.そして,十字架における神の和解がいかにしてわれわれのものとなり得るか,という問の答として,すなわち義認の根拠として復活が論じられるところに,バルトの特色がある.この復活は歴史的な証明になじまないとは言え,信仰を根拠付けるものとして客観的・現実的出来事であると理解される.<復> ブルトマンにとっては,弟子たちの原体験の性格というものはテキストの背後に隠れて知ることが不可能であり,復活者顕現の体験の客観性の問題も重要性を持たない.歴史的批評的研究が証明し得るのは,せいぜい弟子に復活信仰が生じたという事実であるにすぎない.ブルトマンによれば,新約聖書は復活を史実として信じさせようとしているのではなく,復活はケリュグマを通して表明されるところの十字架の有意義性に対する弟子の信仰の生起にほかならない.しばしば言われるように,ブルトマンのケリュグマ解釈によれば,イエスはケリュグマの中へ復活したのであり,復活信仰の意味はこのケリュグマの中に現在したもうイエスを信じることにほかならない.このような非神話化された復活理解には,実存主義神学の理解が影響を与えている.<復> これとは逆に,パネンベルクは復活の歴史的事実性を強調する.彼にとってキリスト論は使徒の宣教によって始まるのではなく,その背後にある史的イエスにさかのぼる.パネンベルクは復活を,ユダヤ教黙示文学における未来待望との関連で理解し,イエスの復活を,歴史の終りの先取りであり,終末的出来事の開始と見る.そして,このような終末の開始としての復活は,地上のイエスが主張された神的権威を確証する出来事であると理解する.従って,パネンベルクによれば,復活を歴史的に探究することは,キリスト教信仰にとって不可欠のことなのである.<復> モルトマンにとって,世界の未来に対する神の約束である復活は,キリスト教信仰の中心ととらえられる.モルトマンは,歴史の未来が過去と現在の歴史を動かすと考え,復活を終末的未来の先取りされた開示と理解する.<復> 聖書学の分野では,様式史的研究から伝承史,編集史へと関心が移る中で,復活の研究もそれに呼応する形で進められてきた.特に1970年代には復活に関する伝承史的・編集史的研究の書が多数出版された.そのおもなものを挙げると次の通りである.C・F・エヴァンズ『復活と新約聖書』(1970),X・レオン・デュフール『イエスの復活と復活祭の使信』(1970),R・H・フラー『復活物語の形成』(1972),J・E・アルサップ『福音書伝承の復活後顕現物語』(1975),N・ペリン『マタイ・マルコ・ルカによる復活』(1977),山内真『復活』(1979)など.→復活節,終末論,万物更新,永遠のいのち,栄化,初穂,新生,死.<復>〔参考文献〕Gaffin, R. B., The Centrality of the Resurrection, Baker, 1978 ; Ladd, G. E., I Believe in the Resurrection of Jesus, Eerdmans, 1975 ; Osborne, G. R., The Resurrection Narratives : A Redactional Study, Baker, 1984.(山下正雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社