《じっくり解説》イスラエルとは?

イスラエルとは?

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イスラエル…

この言葉に含まれている意味について以下のように取り扱う.<復> 1.名称の起源と適用.<復> (1) 起源.この名は族長ヤコブが神の使いと格闘した時に,神の使いがヤコブに「あなたは神と戦い,人と戦って,勝った」と言って与えたもので(創世32:28),ヘブル語のサーラー(争う)とエール(神)の組合せである.ヤコブと神との争い(サーラー)に関しては,ホセア12:3,4にも述べられている.ヤコブの霊的側面を表す呼称として意味深い.<復> (2) 適用.族長ヤコブ,すなわちイスラエルの子孫に対して,「イスラエル人」という呼称が用いられるようになり(出エジプト1:7以下),以後南北に王国が分裂するまでは,ヤコブの12人の息子たちの子孫によって形成される12部族全体を指す呼称となった(出エジプト12:51,民数1:2,16,13:3,申命1:3,Ⅰサムエル10:1〔口語訳〕,Ⅱサムエル5:1以下).イスラエルという名が聖書外で最初に出てくるのは,前1220年頃のエジプト王メルネプタの戦勝記念碑である.<復> 南北に王国分裂(前931/前930年)後は,南の2部族(ユダとベニヤミン)はユダ王国と呼ばれ,残りの北の10部族はイスラエル王国と呼ばれた(Ⅰ列王12章以下,Ⅱ列王,ホセア1:1,アモス1:1).前722/前721年の北王国滅亡から前587/前586年の南王国滅亡に至る期間の預言者の言葉には,イスラエルとユダが再び統一されて,真のイスラエルとして再形成されるという表現が見られる(イザヤ11:12,13,エレミヤ3:18,50:4,エゼキエル37:16‐22,ホセア1:11).そして神はイスラエルの神として正しく認められる時がくると言うのであるが,このことはバビロン捕囚から帰還したユダヤ人共同体において意識され(エズラ2:70,3:11,6:16,17,10:1,ネヘミヤ9:1,ゼカリヤ8:13,マラキ1:1),選民意識の現れとしてペルシヤ時代・ギリシヤ時代を経てローマ時代へと続いていき,新約聖書中では民族として,また信仰による神の聖なる民の名として出てくる(参照外典エステル記追加,マカベア書).それ以後の歴史の中では,ユダヤ教典の中で,ユダヤ人の総称として用いられたが,1948年5月15日の建国以来,正式に国家の呼称とされ,宗教とは関係なくイスラエルの市民はみなイスラエル人である.<復> 2.民族としての歴史.<復> (1) 族長時代.族長時代の聖書資料は創世11章の終りから50章までであり,ここにアブラハム,イサク,ヤコブとヤコブの12人の息子たちの物語が展開され,エジプト滞在へと続いている.イスラエル民族の先祖アブラハムは,メソポタミヤの南部にある故郷ウルを父テラとともに離れ,肥沃な三日月地帯を北部のカランへと旅を続け,そこからさらにカナンの地へと旅をする.そのカナンの地でイサクが生れ,ヤコブが生れ,ヤコブはイスラエルという名を与えられ,12人の息子たちとともにカナンの地に住むが,飢饉を逃れるためにエジプトへと下り,そこに定住する.しかしやがてその子孫は奴隷の状態になる.<復> この族長時代がいつ頃であったのか,明確ではないが,大体前2000年から前1500年の中期青銅器時代と考えられる.イスラエルの族長たちの名と同類の名がこの時代のメソポタミヤやエジプトの文書中に見られ,また前15世紀のヌジ文書によって族長時代の慣習に光が与えられている.前12世紀になって初めてらくだが大量に家畜化されたという主張から,アブラハム物語は時代錯誤であるという説に対しても,考古学的な証拠は,小規模ならくだの家畜化がかなり古くから行われていたことを示しており,ペリシテ人についても,前1190年以前にも,交易目的でパレスチナやエジプトに到来していたと考えられる.ところで,族長たちが飢饉のためにエジプトに下ったのがいつであったのかという問題は,出エジプトの年代とともに,正確ではない.しかし,注目すべき一つの点がある.それは,前1720年から1570年の約150年間,エジプトはセム系の人種ヒクソス支配の時代であったということである.出エジプト1:15に出てくる助産婦の名シフラが,前18世紀の奴隷の名簿に見られると言う.またヨセフ物語を理解する上で,アジヤ系の支配者の時代を背景として考えたほうが,わかりやすいと言えよう.ヨセフ物語によれば,イスラエル人が定住した場所はゴシェンの地で(創世47:27),エジプトの首都アバリスの近くであり,王宮に近かった.そしてヨセフの時代に飢饉を契機に農地の買収による土地改革が行われたことも,ヒクソスによる新しい支配を示唆する資料と言えよう.<復> 族長時代の正確な年代決定の困難性とは別に,創世記が提供する族長物語は,アブラハムに対する神の召しと祝福の繰り返し(12,13,15,17,22章)から明白なように,イスラエルの選びと,カナンの地を嗣業(相続地)として与えること,及びアブラハムの子孫による全地の祝福ということが主題となっており,これは以後のイスラエル民族の全歴史を貫き展開されていく主題である.モーセがエジプトの地にあるイスラエルの民に神の選びと約束を思い出させるために創世記の編集を行ったことが,イスラエル民族を選びの民として独自の方向に歩ませることになった.<復> (2) 出エジプト時代.この時代には,エジプト滞在,出エジプトの出来事,荒野の40年が含まれる.出エジプトの年代決定は結論の出ない議論として続けられており,三つの見解がある.第1は前1450年頃とする見解で,Ⅰ列王6:1を文字通りに計算することから引き出される.すなわちソロモン王が主の家の建設を始めた前965年頃より480年前に出エジプトがなされたとするのである.第2は前1290年頃とする見解で,出エジプト12:41の「430年が終わったとき,ちょうどその日に」に基づいている.すなわち「ちょうどその日」とはヤコブがエジプトに入った記念日のことで,その日から数えて430年目に出エジプトをしたという理解である.第3は前1250年以後とする見解である.このうち第2の見解が幾つかの点で有力視されている.前14世紀のテル・エル・アマルナ文書に出てくるパレスチナでのハビルの存在は,民族としてのヘブル人ではなく,前2000年も前から古代近東でハビル,アピルとして知られていた社会的階級であるとの理解が今日ではなされている.またナイル・デルタ近くにあったヒクソス時代の首都タニス・アバリスが前1300年から前1100年までの200年間「ラメセスの家」と呼ばれたということや,前1220年頃のメルネプタ戦勝記念碑にイスラエルという名が初めて出てくることから,出エジプトはセティ1世(前1308—前1290年)かラメセス2世(前1290—前1224年)の時と思われる.出エジプト1:11の「ピトム」「ラメセス」が再建され,拡張されたという記事も,この見解を支持しているようである.<復> 出エジプトの経緯については出エジプト記に詳しいが,モーセによるイスラエルの民の救出物語の中心は,神が族長たちへの約束を実行し,イスラエルを神の民として聖別する,ということである.過越と紅海(葦の海)の出来事は贖いを表し,シナイ山とモアブの野での律法の付与と更新は聖別を表した.シナイからモアブに至る40年間はモーセにとって苦労の連続であったが,出エジプト19:5,6の神の言葉の実現を目指し,約束の地への旅が続けられた.この40年間に,出エジプト記から申命記に至る文書が作成され,神の民としての教育・訓練・指導がなされた.特に申命記は,カナンの地に入ろうとする新しい世代への手引き書であり,警告と励ましの言葉としてモーセの死の直前に語られたものである.荒野の40年間は神と民との婚約時代であった(エレミヤ2:2).<復> (3) ヨシュア・士師(さばきつかさ)時代.モーセの死後,イスラエルの民はヨシュアの指揮の下に,ヨルダン川の東側と西側に定着することになるのであるが,このカナンの地への侵入の年代に関しても,出エジプトの年代に関する議論とのつながりで,見解は多様である.またカナン侵入と定着の仕方についても,聖書が記す戦闘による占拠とは別な見解が三つある.一つは,半遊牧的なイスラエル人が平和のうちに人の住まない山岳地帯に移り住み,次第に定着していき,やがてカナン人を追い出したという見解.二つ目は,高地の村落民がカナン人の君主に反抗したという見解で,アマルナ文書に見られるハビルの反乱と類似した出来事であって,外部からの侵入などなかったと言う.もう一つは,聖書のイスラエル人というのはカナンの諸地方にできた雑多の小グループから発生したもので,鉄器時代の初めに人種や文化の入りまじったカナンの「るつぼ」的な状況の中からヤハウェ信仰とともに出てきたという見解である.これらの見解に見られる非聖書的な共通点は,イスラエル民族が元来互いに無関係な諸グループであったとする点である.しかしイスラエルの12部族連合体がギリシヤのアンフィクティオニー(神聖同盟)のように聖所を中心に形成された連合体であるとするM・ノートの見解は,最近ではM・メツガーなどによって修正されている.ヨシュア記はカナンの地の占領を記し,士師記はカナンの地の鎮圧・制圧を内容とするが,長期間の対内的・対外的困難に対応する指導者,解放者として士師と呼ばれる有力な人物が諸地方に起された.しかし「そのころ,イスラエルには王がなく,めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた」(士師17:6,21:25)という実情とペリシテ人の脅威に対抗する必要性から,王を求める声が強まったのである.<復> (4) 統一王国時代.王を求める人々の声に対して,イスラエルの真の王は神であることがサムエルを通じて告げられて後(Ⅰサムエル8章),初代の王としてサウルが任職された(同9:16,10:1)(前1025年頃).サウルはダビデという有能な部下の働きによりペリシテの脅威に対抗し,国内の統一を計ったが,やがてダビデへのねたみが憎しみとなり,ヨナタンの尽力にもかかわらず,ダビデは逃亡者としての生活を余儀なくされる.ペリシテとの戦いでサウルが戦死して後,ダビデは王となり(前1010年頃),エルサレムを首都とし,北部の部族と南部の部族の統一に留意して,神殿建設の準備を行った.ダビデは戦いの人であったが,神の人でもあり,その信仰の告白は詩篇として記録されている.ダビデの子ソロモンが王となって(前970年頃—前930年頃),王国は拡大し,交易は栄え,産業は進展した.特にソロモンは父ダビデの準備した材料を用いて神殿を建設し,宮殿を建てたが,費やされた年月は20年であった.これは統治年数の半分に当り,強制労働や税による国民の負担は大きかったと思われる(Ⅰ列王9:10以下,12:4).ソロモンの知恵と英知と広い心については,Ⅰ列王4:29‐34に要約されている.<復> (5) 分裂王国時代.ダビデの時代から10部族と2部族の間に見られた分裂の兆し(Ⅱサムエル19:43‐20:1)は,ソロモンの後継者レハブアムの時に現実となり,「イスラエルよ.あなたの天幕に帰れ」(Ⅰ列王12:16)という古い言葉とともに北の10部族はヤロブアムを王とした.こうして北王国は前930年頃から前722/前721年まで約200年間存続したが,アッシリヤによって首都サマリヤが陥落し,捕囚となって滅亡した.王朝は九つ,王の数は20人であった.北王国は,フェニキヤとの経済的な交流やカナンの農耕的慣習との接触によって,宗教的には堕落・退廃の危険が大きかった.聖書はアッシリヤによる捕囚を信仰的堕落と断じている(ホセア書,アモス書).南王国ユダは北王国滅亡後もさらに130年余り存続したが,前586年,新バビロニヤ帝国によって首都エルサレムが陥落し神殿は破壊されて滅亡した.南王国にも20人の王が立ったが,王朝はダビデ王朝一つであった.南王国は,アッシリヤの支配と衰退,新バビロニヤ帝国の興隆と支配という国際的な動きや,南からのエジプトの干渉を受けながらも,ヒゼキヤ王,ヨシヤ王は王国内の信仰復興運動を行った.特にヨシヤ王が神殿で発見された律法の書に基づいて行った宗教改革事業(前622/前621年)は有名である.分裂王国時代は,預言者エリヤ,エリシャを初めとして記述預言者の活躍が注目される.またバビロニヤによる捕囚も前605年,前597年,前586年,前582年と数回に及び,ダニエルやエゼキエルは捕囚の地で活躍し,エレミヤはエルサレムの最後を目撃して後,エジプトに連行された.<復> (6) 捕囚と帰還時代.北王国イスラエルの10部族はアッシリヤに捕囚となり,サマリヤは異邦人の植民地となって「サマリヤ人」という共同体が形成されていった.南王国ユダはバビロニヤに捕囚となったが,バビロニヤの寛大な政策によって,共同体を作ることが認められ,預言者エゼキエルは長老たちを指導することができた(エゼキエル3:15,8:1,14:1,20:1).ダニエルやその仲間は政治的に重んじられた(ダニエル書).エレミヤ29:10は,エレミヤがバビロニヤに連れて行かれた捕囚の民に書き送った手紙の一節であるが,「バビロンに70年の満ちるころ」主が彼らを再び故国に連れ帰る,との慰めと励ましの言葉を記している.バビロニヤでのユダヤ人たちの生活は,帰還の希望があり,また居心地のよい生活であった.そして前539年,バビロニヤはペルシヤのクロスに倒された.バビロニヤの最後の王はナボニドスであったが,実際は息子のベルシャツァルが政権を担当していた(ダニエル5:30,31).なおメディヤ人ダリヨスとはクロスの武将の一人グバルであると考えられる.クロスが捕囚の民に与えた故国帰還の許可(前538年)に促されて,ユダヤ人たちはシェシュバツァルと甥のゼルバベルを先導として帰国した.ゼルバベルはエホヤキン王の孫である.また祭司ヨシュアもいた.その総数は4万2360人と奴隷7337人,男女の歌うたい200人(または245人)であった(エズラ2:64,65,ネヘミヤ7:66,67).<復> 帰国した人々は早速神殿再建に着手し,基礎を据えたが,周囲の住民の反対とペルシヤ王への訴状によって中断された.しかし預言者ハガイ,ゼカリヤの励ましにより,前515年に第2神殿は再建された.ソロモンの神殿が破壊されてから70年後のことである.しかし城壁の修復は妨害のため行われなかった.やがて前458年に学者であり祭司であるエズラがエルサレムに着き,律法を解き明かした(エズラ7章).その13年後の前445年に,ネヘミヤが総督の権限を与えられて帰国し,52日で城壁を修理し,エズラと協力して国内の政治改革と宗教改革を行い,厳格な律法遵守による神権政治を開始した.マラキ書は神殿を中心とした宗教生活が長く続けられていたことを示している.<復> (7) 中間時代.ペルシヤ帝国がアレクサンドロスに征服され(前331年),ギリシヤの支配下に置かれるようになった時から,ローマ時代に移ってヘロデ大王の世(前37—前4年)にイエス・キリストが生れるまでの期間は,ユダヤ民族にとって内外共に試練の時であり,ヘレニズムの影響を受けた時代であった.だが前300年から前200年の間になされた注目すべきユダヤ人の作業の一つとして,旧約聖書のギリシヤ語訳が挙げられる.また前200年から前100年の間の出来事として,ユダ・マカベアの勝利(165年)とハスモン王朝の始まりがあり,サドカイ派,パリサイ派,熱心党などの発生とユダヤ教の確立によって新約時代への道が備えられた.この時期に黙示文学も多く作られるようになった.<復> イエス・キリスト誕生(前6年?)時代は「ローマの平和」と言われた時代であり,ユダヤも属州として総督のもとで国家の形を保っていたが,ユダヤ戦争の結果,紀元70年にエルサレムも第2神殿も破壊された.それ以後ユダヤ人は離散の民としてローマ帝国内から世界各地へと出て行ったが,聖書の民としての存在は隠されることはなく,その独自性によって人類に貢献するとともに,不動産を持たない民として不遇の扱いを受け,ゲットー生活を余儀なくされ,特にナチス・ドイツによる第2次大戦時の迫害は凄惨を極め,600万人のユダヤ人が殺された.パレスチナに祖国建設をとの願いは,テオドール・ヘルツェル(1860—1904年)によってシオニズム運動として組織化され,パレスチナへの移住が盛んになったが,アラブ人との間の問題解決のため英国に統治が委任された(1922年7月22日).その後1948年5月15日午前0時11分(現地時間)に委任統治は終了し,イスラエルは「メディナト・イスラエル」として建国された.1983年の調査では全人口406万5000人で,そのうち9万4170人がクリスチャンと報告されている.<復> 3.イスラエルの回復・救い.<復> (1) 肉によるイスラエル.イスラエルの回復に関する約束は,旧約の預言者(ホセア,イザヤ,エレミヤ,エゼキエル,ミカ等)によって繰り返され,歴史的には捕囚からの帰還によって部分的に成就された.新約聖書ではイエスは「イスラエルの家の滅びた羊のために来た」(マタイ15:24)と言われ,また弟子たちにも「異邦人の道に行ってはいけません」(10:5,6)と言われた.<復> さらにローマ9‐11章でパウロは「イスラエルはみな救われる」(11:26)と記している.これらの預言と約束を文字通りに解釈して,終末時の民族的なユダヤ人の救いに適応させたり,イスラエル建国と祖国帰還を預言の成就と考える学者が多くいる.<復> (2) 霊によるイスラエル.旧約の預言やパウロの手紙の意図は,メシヤなるイエス・キリストの初臨と贖罪の事実を中心としていることを覚える必要がある.旧約の預言はキリストの初臨による罪の赦しと神との平和を指したものであり,パウロの意図も,キリストを信じる信仰によるイスラエル人の救いということにある.「イスラエルから出る者がみな,イスラエルなのではなく」(ローマ9:6),「ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません.同じ主が,すべての人の主であり,主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです」(同10:12)との言葉に示されるように,キリストを信じる者が真のイスラエル,霊によって生れたイスラエルであり,神に選ばれた民である点を正しく把握するなら,民族的特権が一時的であり,政治的な現象も救いとは無縁であることが理解できよう.民族としての選民イスラエルの中にもう一つ,キリストを信じる霊のイスラエルという選民がある.それはキリストをかしらとする教会へと召され,地上の諸民族とともにキリストを信じる信仰共同体を構成するものである.→選民,神の民,パレスチナ問題,シオニズム,ユダヤ人排斥主義,ホロコースト(大虐殺).<復>〔参考文献〕『新聖書・キリスト教辞典』いのちのことば社,1985;A・マラマット/H・タドモール『ユダヤ民族史』1,六興出版,1976;Shanks, H.(ed.), Ancient Israel, Biblical Archaeology Society, 1988 ; Harrison, R. K., Introduction to the Old Testament, Eerdmans, 1969.(富井悠夫)
(出典:松本任弘『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社