《じっくり解説》再臨とは?

再臨とは?

再臨…

復活の後,地上を離れて天に上げられ,父なる神のみもとに帰られたイエス・キリストが,もう一度,天から地上に戻って来られること.新約聖書では,「再臨」「来臨」「現われ」などと表現されている.<復> 1.再臨の事実.<復> 「過越の祭りの前に,この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので,世にいる自分のものを愛されたイエスは,その愛を残るところなく示された」(ヨハネ13:1).そしてイエスは,父なる神のみもとに帰られるのは,御自分に従う者たちのために場所を備えに行くのであることを明らかにされた.「わたしが行って,あなたがたに場所を備えたら,また来て,あなたがたをわたしのもとに迎えます.わたしのいる所に,あなたがたをもおらせるためです」という約束のおことばが与えられたのである(参照ヨハネ14:1‐3).また,世の終りについての教えであるオリーブ講話(マタイ24,25章)の中でも,たとえを通し,あるいはもっと直接的な教えの形をもって,イエスは御自分の再臨について多くを語っておられる.<復> イエスの昇天の際に,白い衣を着た二人の御使い(と思われる人物)が,弟子たちに,「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは,天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で,またおいでになります」(使徒1:11)と告げた.キリストの再臨は,五旬節の日に教会が誕生した時からの,初期のケリュグマ(宣教の使信)の一部であった(使徒3:20,21).使徒パウロは,しばしばイエスの再臨について言及しており,中でもテサロニケ人への手紙第1,第2,及び晩年に書かれた牧会書簡は際立っている.<復> 再臨の真理は,漸進的に啓示されてきた.旧約聖書は神の顕現(theophany)について語るが,再臨という考えは暗示の域にとどまり,明白な形では示されていない.旧約聖書は,勝利に輝く力強いメシヤの到来と,メシヤ王国の確立について語る(参照ダニエル2:44,45).他方,メシヤは,苦難のしもべとして描かれている(参照イザヤ53章).神は贖いの目的を果すために,歴史の中に働いておられる.同時に,預言者たちは,神が御自分の御国を打ち立てるために,さばきと救いをもって人々のもとに来られる神の「おとずれの日」を待ち望んでいる.<復> 新約聖書にくると,この神の現れ,メシヤの来臨は,二つの段階で達成される.すなわち,(1)イエスの初臨において.受肉した神の御子は,十字架の苦しみを通して,神の贖いのみわざを歴史の中ですでに達成して下さった(参照ヘブル2:14,15).(2)イエスの栄光の再臨において.御子イエス・キリストは,「2度目は,罪を負うためではなく,彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られる」(ヘブル9:28).その時,主イエスは,神を知らない人々や,福音に従わない人々に報復し,彼らには永遠の滅びと刑罰とがもたらされる(Ⅱテサロニケ1:7‐9).そして,すでにキリストのものである御国が,この世においても確立されるのである(Ⅱテモテ4:1).<復> 再臨の事実は,以上のように聖書に明白に啓示されているが,その時期については明らかにされていない.主イエス御自身が,「ただし,その日,その時がいつであるかは,だれも知りません.天の御使いたちも子も知りません.ただ父だけが知っておられます」(マタイ24:36)と述べておられる.再臨を待ち望む者たちが,目と心とを配っていなければならない前兆や,しるしについては語られているが(参照マタイ24:3‐14,34),はっきりした時については,どこにも知らされていないことに心を留めるべきである.復活の後で,イエスは40日にわたって,弟子たちに御自分を現された.その折にも,「主よ.今こそ,イスラエルのために国を再興してくださるのですか」という弟子たちの問に対して,イエスは,「いつとか,どんなときとかいうことは,あなたがたは知らなくてもよいのです.それは,父がご自分の権威をもってお定めになっています」と答えておられるのである(使徒1:6,7).<復> 2.再臨の性格.<復> イエスの再臨は,神の御子御自身が,目に見える形で,復活のからだをもって再びおいでになるということである.しかし再臨については,これとは異なった様々な説明もなされている.<復> (1) 一部の人々は,五旬節の日に約束の聖霊が下ったことによって,キリストの来臨は実現したと主張する.その根拠としてヨハネ14:23の,「わたしたちはその人のところに来て,その人とともに住みます」というイエスのおことばが挙げられる.つまりこれが,聖霊の媒介によるイエスの現臨を指す,と考えるのである.<復> (2) ある人々は,マタイ16:28の,「人の子が御国とともに来る」というイエスの言明は,復活においてすでに実現したと考える.<復> (3) 再臨への言及を一般化して,「見よ.わたしは,世の終わりまで,いつも,あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)というおことばは,キリストの来臨の約束が成就したことを意味する,ととる立場もある.<復> (4) 黙示録3:20を引用して,これがキリストの来臨だとする者もいる.しかしそれではキリストの来臨は,事実上,個人の回心と変らないものになってしまう.<復> (5) エホバの証人(ものみの塔)に至っては,イエスは人々の目に見える形においてではないが,1914年にすでに天的王国に来られた,と主張している.<復> 聖書の教えを総合的に判断するなら,イエスの再臨は,御自身が,からだをもっておいでになるのであり,従って見ることができるし,見誤ることもないものである.マタイ24:26の警告や,「地上のあらゆる種族は…人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです」(マタイ24:30)といった描写は,そのことを明確に裏付けている.パウロもまたⅠテサロニケ4:16で,「主は…ご自身天から下って来られます」と述べ,さらに,主イエス・キリストが,われわれの救い主として天からおいでになるのを待ち望んでいる(ピリピ3:20).使徒1:11で,白い衣を着た二人の人は,「このイエスは,天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で,またおいでになります」と弟子たちに告げた.イエスの昇天は,御自身が,復活のからだをもって,弟子たちが「見ている間に上げられ」(使徒1:9)たのであれば,「同じ有様で,またおいでになる」ということは,再臨においてもまた,目に見える形で,復活のからだをもって,御子御自身が再びおいでになる,ということにほかならない.<復> 3.再臨の用語.<復> 新約聖書は,キリストの再臨を描くに当って,三つの異なったことばを使っている.<復> (1) [ギリシャ語]パルーシア.これは「そこにいること」(参照ピリピ2:12),及び「到着すること」(参照Ⅱコリント7:7)を意味する.ヘレニズム時代のギリシヤ語では,軍隊によって国が侵略されること,皇帝や行政長官などが,ローマ帝国内のある地域を訪問することにも用いられた.<復> 昇天後のイエス・キリストは,天において父なる「神の右の座に着かれた」(マルコ16:19).このイエスは,世の終りにもう一度,この地上に戻って「来られる(パルーシア)」(マタイ24:3).そして,「キリストの再臨(パルーシア)のときキリストに属している」死者が,まず復活にあずかる(Ⅰコリント15:23).次いで,生存している信者たちが「主のみもとに集められる」(Ⅱテサロニケ2:1,参照マタイ24:31,Ⅰテサロニケ2:19,3:13,4:15‐17,5:23).主イエスの「来臨(パルーシア)」はまた,「不法の人」を滅ぼすためでもある(Ⅱテサロニケ2:8).反対者のことばとしてではあるが,ペテロは「キリストの来臨(パルーシア)の約束」という表現に言及している(Ⅱペテロ3:4).<復> (2) [ギリシャ語]アポカリュプシス.通常のギリシヤ語の用法では,このことばは「おおいを取ること」「明らかにすること」を意味する.そこで新約聖書では,「啓示」(ルカ2:32,Ⅱコリント12:1,ガラテヤ1:12等),あるいは,「黙示」(Ⅰコリント14:6,26)とも訳される.<復> イエスの再臨についてこの用語が使われる時には,今や主イエスのものとなっている栄光と力が,おおいを取り除かれて,この世に「現われ」るという真理を強調する(Ⅱテサロニケ1:7,Ⅰコリント1:7).キリスト者たちはこのようなイエスの「現われ(アポカリュプシス)」を,ひたすら待ち望んでいるのである(Ⅰペテロ1:7,13).イエス・キリストは復活,昇天,高挙を通して,「すべての支配,権威,権力,主権の上に,また…すべての名の上に高く置かれ」た(エペソ1:20‐23,参照ピリピ2:9).しかしイエスの統治と主権は,今この世に完全に明らかになっているわけではない.この世の終りの主の再臨の時に,栄光と支配とはすべてのおおいを除かれ,完全な輝きをもって明らかになる.それは「イエスの御名によって…すべてが,ひざをかがめ,すべての口が,『イエス・キリストは主である.』と告白して,父なる神がほめたたえられるため」なのである(ピリピ2:9‐11).<復> (3) [ギリシャ語]エピファネイア.このギリシヤ語には二つの特殊な使われ方がある.一つは,神々が礼拝者に現れることを指し,もう一つは,ローマの皇帝となる権を得た者の即位式に関して用いられる.Ⅱテサロニケ2:8でパウロは,「その時になると,不法の人が現われますが,主は御口の息をもって彼を殺し,来臨の輝き(パルーシアのエピファネイア)をもって滅ぼしてしまわれます」と語る.キリストの再臨は秘密の,隠された出来事ではなく,神の栄光が見える形において,この歴史の中に現れることなのである.<復> この用語は,主イエスの受肉と,再臨の両方に関して使われている.神はすでに救い主イエス・キリストが,肉体をとって現れたこと(エピファネイア)を通して,死を滅ぼし,いのちと不滅とを歴史の中に明らかに示された(Ⅱテモテ1:10).しかしそのことが贖いの完成なのではなく,われわれはなお,「祝福された望み,すなわち,大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われ(エピファネイア)を待ち望むようにと教えさと」されている(テトス2:13).<復> このように再臨は,王の王であられるお方のこの世への到来,おおいが取り除かれて神の栄光が輝き出ること,そして主イエスがこの世の真の支配者として,至高の王位につかれることを意味している.<復> 4.再臨の目的.<復> (1) 神の国の完成.御子イエスの受肉による初臨において始まったものが,完成されるのが再臨である.イエスの宣教活動の第一声は,「悔い改めなさい.天の御国([ギリシャ語]バシレイア)が近づいたから」(マタイ4:17)という宣言であった.バシレイアは,ルカ19:12では「王位」,コロサイ1:13では「支配」と訳されているように,本来,統治権とか支配する権威を指す.「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら,もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(マタイ12:28)とイエスが述べられた時,神の御支配はキリストの初臨とともに,もうこの罪の世に霊的現実として押し入って来たことを意味する.しかし今は,すべての人がこのキリストの支配を受け入れているわけではない.けれども再臨において,神の国が究極の完成を見る時には,「すべての口が,『イエス・キリストは主である.』と告白して,父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10,11)のである.<復> (2) 救いの完成.イエスの十字架と復活は,救いにとって完全なものであり,今,信者たちは,「信仰の結果である,たましいの救いを得ている」(Ⅰペテロ1:9).だがこの救いは,キリストが現れる時に完成されるものであって(コロサイ3:4),われわれは,「この望みによって救われている」(ローマ8:23,24).キリストの再臨の時に,最後の敵である死が滅ぼされ,キリストにある死者は朽ちないものによみがえり,生きている信者はみな変えられる(Ⅰコリント15:23‐26,51,52).そして,「正しい者たちは,天の父の御国で太陽のように輝」くのである(マタイ13:43).<復> (3) さばきの完成.再臨の主イエスを,「救い主」として迎えることのできなかった者たちは,「さばき主」と告白せざるを得なくなる.「善を行なった者は,よみがえっていのちを受け,悪を行なった者は,よみがえってさばきを受けるのです」(ヨハネ5:29).さばきを意味するギリシヤ語クリシスの基本的な意味は,分離ということである.主イエスは再臨し,栄光の王座に着かれる.その時,すべての国民は,さばきのために御前に集められる(マタイ25:31,32,46).刈り入れの時が来るまで,この世で一緒に成長してきた良い麦と毒麦とが,この世の終りのイエスの再臨の時に分離され,毒麦は火の燃える炉に投げ込まれる(マタイ13:40‐42.参照Ⅱテサロニケ1:7‐9).<復> (4) 教会の完成.新約聖書で「教会」と訳されているギリシヤ語エクレーシアは,70人訳ギリシヤ語旧約聖書では,「全会衆」の意味に使われた.使徒7:38は,この用法を反映している.教会は,神の選びの民すべてを含む(Ⅰペテロ2:9).再臨の時に主イエスは,「四方からその選びの民を集め」られる(マタイ24:30,31).パウロは,神が教会により永遠に栄光を持つようにと祈った(エペソ3:21).しかし教会の働き—福音の宣教,礼典の執行,正しい生活を通してのあかし,純粋性を守るための戒規など—はすべて,キリストの再臨の後には過去のものとなる.教会時代は,「イエスの復活の完了形と,再臨における究極の完成の未来形の中間にある」のである.エペソ5:22‐33で,パウロはキリストと教会の関係を,結婚関係になぞらえた.そして,キリストが「ご自身で…栄光の教会を,ご自分の前に立たせるためです」(5:27)と語っている.地上の教会は,いわばキリストの婚約の花嫁であり,再臨はその結婚の時である.「小羊の婚姻の時が来て」(黙示録19:6‐9),教会はこれまでに達成できなかった真の一致を成し遂げる.<復> 5.再臨の備え.<復> (1) 目を覚していること.「その日,その時がいつであるかは,だれも知りません」(マタイ24:36).「人の子の来るのは,いなずまが東から出て,西にひらめくように,ちょうどそのように来るのです」(同24:27).「主の日は,盗人のようにやって来ます」(Ⅱペテロ3:10).そうであればわれわれは,いつも「目をさまして」「用心して」いなければならない(参照マタイ24:42‐51).ともしびは持っていたが,油を用意しておかなかったあの5人の愚かな娘たちのようであってはならない(マタイ25:1‐13).それは,「祈りのために,心を整え身を慎」んでいることでもある(Ⅰペテロ4:7).<復> (2) 清い生活.祝福された望みである,救い主キリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと勧めた時に,パウロはその待望を「慎み深く,正しく,敬虔に生活」することと結び付けている(テトス2:12,13).主の日がやって来る時,天の万象と地のいろいろなわざは焼き尽されるという描写の後で,ペテロは,「愛する人たち.このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから,しみも傷もない者として,平安をもって御前に出られるように,励みなさい」と結論付けている(Ⅱペテロ3:10‐14).ヨハネもまた,キリストが現れたなら,われわれはキリストのありのままの姿を見るゆえに,キリストに似た者となると語って後,「キリストに対するこの望みをいだく者はみな,キリストが清くあられるように,自分を清くします」と言っている(Ⅰヨハネ3:2,3).キリスト教倫理の最大の特質は,再臨待望の終末の倫理だという点にある.<復> (3) 忠実な奉仕.マタイ25:14‐30のタラントのたとえは,主人が不在の間になすべき仕事が,しもべたちにゆだねられていることを示している.復活の真理について記したあのすばらしいⅠコリント15章の結論は,「ですから,私の愛する兄弟たちよ.堅く立って,動かされることなく,いつも主のわざに励みなさい.あなたがたは自分たちの労苦が,主にあってむだでないことを知っているのですから」(15:58)というものであった.歴史は昔から今に至るまで,その善悪は別として,重大な行為というものはすべて,現在の活動が終末論的希望によって照らされていた人たちによって,完成されたものであることを証明している.キリスト者の奉仕の焦点はいつも,キリストの受肉の目的である罪の赦しの福音を,ことばと行動によって伝えることに合されていなければならない.「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて,すべての国民にあかしされ,それから,終わりの日が来ます」(マタイ24:14)と主イエスは宣言されたからである.<復> (4) 忍耐.再臨の待望が強ければ強いほど,その遅れに対する失望や焦り,期待の希薄化も起りやすい.終りの日に,あざける者どもがやって来て,「キリストの来臨の約束はどこにあるのか」と言ってあざけり,自分たちの欲望に従って生活するようになるだろう,とペテロは預言した(Ⅱペテロ3:3,4).神の時間は,われわれ人間の時間の受け止め方とは異なることを見落してはならない(同3:8).約束の実現の遅れは,むしろ神の忍耐と恵みの深さを示すものなのである(同3:9,15).たとい時間は延びても,神は絶対に御計画を変えたり,放棄したりすることのないお方である.それゆえわれわれは,農夫が貴重な実りを待つように,それまでの時を活用しつつ,「主が来られる時まで耐え忍」ばなければならない(参照ヤコブ5:7‐11).再臨の時がいつかを知らなくても,どなたがおいでになるのかを,われわれは確実に知っている.それゆえ,世々の聖徒たちは,「マラナ・タ(主よ,来てください)」(Ⅰコリント16:22)と祈り続けてきたのである.そして,「これらのことをあかしする方がこう言われる.『しかり.わたしはすぐに来る.』アーメン」(黙示録22:20).→千年期,マラナ・タ,終末論,神の国・天の御国・キリストの王国,主の日・キリストの日.<復>〔参考文献〕R・パーシュ『イエス・キリストの再臨』いのちのことば社,1962;Berkouwer, G.C., The Return of Christ, Eerdmans, 1972 ; Ladd, G. E., The Blessed Hope, Eerdmans, 1956 ; Evangelical Dictionary of Theology, pp.992—5, Baker, 1984 ; Brown, C.(ed.), New International Dictionary of New Testament Theology, Vol.2, pp.898—935, Paternoster ; Bromiley, G. W.(ed.), The International Standard Bible Encyclopedia, Vol.3, pp.664—70, Eerdmans.(島田福安)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社