《じっくり解説》予知,予定論とは?

予知,予定論とは?

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予知,予定論…

使徒パウロはローマ8,9‐11章,エペソ1章などにおいて予定の教理を教えている.それで,代々の教会はパウロや他の聖書記者たちが予定によって意味していることが何であるかを理解しようと労苦してきたのである.予定論の教理を教理史上最初に打ち立てたのはアウグスティーヌスであった.彼の時代までは予定論は重要な神学的課題とはならなかった.予定に言及してもそれは予知説に基づく予定論であった.アウグスティーヌスも初め恩恵と自由意志の問題を考える時,予知説に基づく予定論を考えていたと言う.しかし,ペラギウス論争以前に彼の恩恵論の立場は確立していて,396年頃にシンプリキアーヌスの質問に答えて書かれた『パウロの恩恵論』(ローマ9:10‐29)の中において完成したのである.この点について『再考録』(2:1)で「この問題を解決するにあたって,わたしは人間の意志の自由な選択の確保のために苦労したが,神の恩恵が勝った」と言っている.このことは『聖徒の予定』(4:8)及び『堅忍の賜物』(20:52)でも言及している事実である.アウグスティーヌスの予定論は半ペラギウス論争において展開され,いわゆる二重予定論が主張された.アウグスティヌス主義の予定論は9世紀のゴットシャルクの二重予定説,13世紀のトマス・アクィナス,14世紀のブラッドワディーンなどによって中世において主張される.宗教改革者たちはルターも,ツヴィングリも,カルヴァンもアウグスティヌス主義的予定論者であった.ルター派の信条においては予定論は和協信条(第11条)においてだけ取り扱われているが,改革派の諸信条においては,ほとんどすべての信条において予定信仰が告白されている.特に17世紀の諸信条において改革派予定論は定式化されて表現されている.すなわち,オランダの改革派教会内に起ったアルミニウス主義論争の結果ドルト信条が作成され(1619年),英国ではウェストミンスター信仰告白が1647年に作成され,アミロー論争の結果1675年にスイス一致信条が作成された.<復> 予定論という用語は広い意味と狭い意味で用いられ,広い意味で用いられる時は聖定論(神の永遠の御計画)と同じである.狭い,本来の意味の予定論は,人間と天使についての神の永遠の聖定であって,神は永遠より,ある人間たちと御使いたちを永遠の生命に予定され,他の者たちを永遠の死に予定された.いわゆる二重予定論である.しかしこの場合,永遠のいのちに予定されたほうにだけ予定という言葉を用い,永遠の死に前定された,と用語を使い分ける場合がある.この場合には用語的には二重予定論とは言えないわけである.<復> 聖定と予知との関係,従ってまた予定と予知との関係については,神は被造物の行動を予知したから聖定されたのではなく,神の主権的意志によって聖定されたから予知されるのである.また信仰は予定の結果であるから,信仰を予知し,予見して予定したのではない(ローマ9:11,13,16,18,エペソ1:4,9).神は全能であって,最も賢く,最もきよく,最も自由,最も絶対的で,御自身の不変な,最も正しい御旨の計画に従い,御自身の栄光のために,すべての事を営み,神の目には万物も歴然とあらわであり,彼の知識は無限無謬(むびゅう)で,被造物に依存しないので,何一つとして,彼には偶然や不確かなものがない.使徒2:23,ローマ8:29,11:2,Ⅰペテロ1:2,20などは神が予見したというのでは全然意味をなさない.使徒2:23には,「神の定めた計画と神の予知とによって」とあるので意味は明らかである(ことばの順序に注意).ローマ8:29などの「あらかじめ知る」の「知る」は「愛する」というのと同じ意味である.つまり,永遠の選びの愛というのと同じ意味である.神の聖定や予定が言われるのは神の御計画の主権性や恩恵性を強調するためであるから,被造物の行為の予知や予見に基づくのであれば全然意味をなさないことになる.つまり予知説をとる場合,聖定や予定を語る意味がない.<復> 二重予定説についてウェストミンスター信仰告白は(3:3,4)次のように述べている.「神の聖定によって,神の栄光が現われるために,ある人間たちとみ使いたちが永遠の命に予定され,他の者たちは永遠の死にあらかじめ定められている.このように予定されたり,あらかじめ定められているこれらのみ使いや人間は,個別的また不変的に指定されており,またその数もきわめて確実で限定されているので,増し加えられることも,減らされることも出来ない」.カルヴァンは選びの教理は認めるが遺棄の教理は認めない者に対して次のように言う.「多くの人は神から悪口を取り去ろうとするかのように選びは認めるが,誰か見放されたものがいるということは否定する.けれども,これは余りにも無知であり,幼稚である.なぜなら選びということ自体,遺棄と対置されなければ,確立しないからである」(『キリスト教綱要』3:23:1).この二重予定論の意義についてウォーフィールドは『改革派諸信条に現われた予定論』の中で次のように言う.「1552年のジュネーブ一致信条には今日信条学上で権威と認められている最も完備した予定論が出ている.…それには『神がある人々を救いに選び,他の者たちを己が滅ぶままに捨て置くところの予定論について』と明確な表題がついている.ここでは二重予定論が核心であり,カルヴァンがこの点に非常な力を置いていたことは一読すればわかるほどである.なぜそうだったかというと,彼にとっては選びは単に信仰の確かさの保証だぐらいに思うべきではなくて,実に救いの業にあっては唯神のみに有効力があることを確信し,主張するために外ならなかった.彼の天才的な洞察力は,協力説を排斥して神の独占活動を主張するためにはどうしてもその中心に二重予定論を置くべきだとの確信があった.それと共に,このことの中にこそ,我々はカルヴァン信条における『主権的遺棄』の主張がもつ重要性を理解するカギをも見出すのである.この確信は,選び自体が遺棄と対置されなければ確立しないものだということがカルヴァンの予定論では核心だったからである.言い換えると,神の特殊恩恵は,もしも滅びる者の滅びが,救われる者の救いと同様に神の絶対主権に属し,永遠の聖定にもとづくと告白されない限り結局万人救済論に陥らざるをえないからである.カルヴァン主義の諸信条に共通する一つの明白な軌道が存在する事実は明らかにこのジュネーブ一致信条の影響によるものである」.ドルト信条は1:15で,遺棄の教理を次のようなことばで始め,この教理を述べる理由を説明している.「選びの永遠にして功績によらない恩恵をわれわれに特に説明し,奨めようとしているのは,聖書がさらに次のように証言している点においてである.すなわち,すべての者が選ばれたわけではなく,ある者たちは選ばれず,すなわち,永遠の選びにおいて見過ごされたということである」.選びについては本辞典「選び」の項を参照.<復> 堕落前予定論と堕落後予定論.堕落前予定論は堕落前に選びと遺棄を神が聖定したという説である.堕落前予定論は,人間の罪に対する神の聖定の関係という点で,堕落後予定論と異なる.この相違はアウグスティーヌスとペラギウスの論争にまでさかのぼる.しかし,宗教改革前においては,おもな相違は,アダムの堕落が神の永遠の聖定の中に含まれていたかどうかという点にあった.堕落前予定論は含まれていたと主張し,堕落後予定論は罪についての神の予知だけを認めた.ルター,ツヴィングリ,カルヴァンなど宗教改革者たちは,アダムの堕落がある意味で神の聖定の中に含まれていたと信じる点で一致していた.しかし,神はいかなる意味でも罪の作者ではない,とみな主張した.罪についての聖定は一般に許容的聖定と言われる.今日普通に堕落前予定論,堕落後予定論に言及される場合は以上の意味と異なって,神の永遠の聖定における論理的順序の相違である.<復> このような新しい意味で堕落前予定論を発展させた最初の人は,カルヴァンの後継者であったテオドール・ド・ベーズ(ベザ)であった.ドルト会議(1618—19年)までに改革派神学者たちの間で堕落前・堕落後予定論について激しい論争が行われ,ドルト会議においても両派が存在した.アルミニウスのおもな反対者であったホマールは堕落前予定論者であり,英国のパーキンズもそうである.<復> 永遠の聖定の時間的順序ではなく,論理的順序の問題は予定における神の究極目的と予定の対象についての相違として表れる.堕落前予定論者は選びと遺棄における神御自身の栄光を神の究極目的と考え,堕落後予定論者は予定を他の諸目的に従属したものと考える.堕落前予定論によれば予定の対象はまだ創造されず,堕落しない人間であるが,堕落後予定論によれば,予定の対象は創造され,堕落した人間である(もちろんこれは歴史の中でのことではなく,神の聖定の中の論理的順序のことである).堕落前予定論はスウプララプサリアニズム,堕落後予定論はインフララプサリアニズムと呼ばれるが,ラテン語でスウプラは「上」あるいは「前」,インフラは「下」あるいは「後」,ラプススは「堕落」という意味である.<復> 堕落前予定論においては聖定の論理的順序は,(1)神は,ある者たちを選び,他の者たちを遺棄することにより御自身の栄光を現すよう聖定された.(2)この目的に対する手段として,選ばれた者と遺棄された者を創造することを聖定された.(3)人間の堕落を許容する聖定.(4)イエス・キリストにより選民に救いを与える聖定.<復> 堕落後予定論においては聖定の論理的順序は次の通りである.(1)神は人類の創造により御自身の栄光を現されるよう聖定される.(2)堕落を許容される聖定.(3)堕落した人類の中からある者たちを救いに選び,残りの者たちを見過し,彼らの罪のゆえに滅びるように聖定された.(4)イエス・キリストにより選民に救いを与える聖定.<復> ドルト会議において大多数は堕落後予定論者であったし,その信条も堕落後予定論の表現を採用しており改革派諸信条はこれに倣っている.ウェストミンスター信仰告白は両方の立場から読めるように注意深く記されている.今日改革派予定論における堕落前予定論と堕落後予定論はどちらが正しく,どちらが誤りであるかという意味では,信条的にも神学的にも論争的問題となっていない.むしろ両論を相互補完的に見るべきであろう.しかし贖罪後予定論(いわゆるアミロー説)についてはキリストの限定的贖罪(キリストが選民のためにだけ贖罪をされた)を否定することになるので,これはウェストミンスター信仰告白(3:6)でハッキリと否定されている.<復> 予定の教理の正しい用い方とその結果についてウェストミンスター信仰告白(3:8)は次のように教える.「予定というこの高度に神秘な教理は,み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き,それに服従をささげる人々が,彼らの有効召命の確かさから自分の選びを確信するよう特別な配慮と注意をもって扱われなければならない.そうすればこの教理は,神への賛美と崇敬と称賛の,また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を,すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう」.ここに,三つのことが教えられている.第1に,予定の教理が教えられなければならないこと,特に特別な配慮と注意をもって教えられ学ばれなければならないということである.予定論などという「高度に神秘な教理」は教えないほうがよいという考えに対して,むしろ,予定の教理を正しく,積極的に教え,また学ぶように勧める.すなわち,「み言葉に啓示された神のみ旨に注意して聞き,それに服従をささげる人々…すべてまじめに福音に従う者たち」に,この教理が適切な配慮と特別な注意をもって教えられ,学ばれる時に,豊かな祝福が約束されているのである.すべての神の民が神を恐れつつ聖書を読みまた探究するよう命じられているのであるから,聖書の明瞭性を確信し,正しい聖書解釈の原理に従って聖書を解釈し,聖書に密着して予定の教理を学ばなければならない.聖書が明瞭に教えるところでは大胆にどこまでも進んで行き,聖書がとどまるところで,とどまらなければならない(カルヴァン『キリスト教綱要』3:21:3).<復> 第2に,選びの確信について教える.「彼らの有効召命の確かさから自分の選びを確信するように」(「ウェストミンスター信仰告白」3:8,Ⅱペテロ1:10)というのが,自分の選びを確信する正しい順序である.神がわれわれを救われる順序は,父なる神の永遠の選び,キリストによる選民の贖い,聖霊による選民の有効召命という順序である.われわれはそれと反対に,自分が有効召命を受け,信仰によってキリストと一つに結合され,キリストとの交わりを与えられ,そのもろもろの救いの恵みにあずかっているというところから出発して,救いと恵みの究極的源泉であるキリストにある神の永遠の選びを確信するという順序である.カルヴァンは次のように言う.「しかし,一方,私たちは(多くの人にふつう見られるところであるが)己が救いの確かさを確認するために,天の最も深きところまで見きわめようとし,また,神が永遠から,この自分に対してどちらを決定しておられるかをたずね知ろうとつとめることはすまい.(そのような思いは,ただ悲惨な苦しみと,心の乱れとをもって私たちを煩悶させることしかできない.)それよりも私たちは,神がこの身に対し,十二分に豊かに,救いの確かさを固くしておられる証拠をもって満足しよう.というのは,地の基の成る前から生命に予定された者はすべてキリストのうちに選ばれており,このキリストにあって,信仰をもって彼を受け,彼をいだくならば,その時,選ばれていることの担保がこの私たちに差し出されているからである.…それゆえ,もし,信仰においてキリストをもつ者として,彼のうちに命をももつならば,私たちは神の永遠の計画をこれ以上問うには及ばない.なぜなら,キリストは,神の御意志を私たちに示す鏡であるにとどまらず,私たちのうちに命を,いわば封印し,確かにする保証でもありたもうからである」(『信仰の手引き』pp.36‐8).<復> 第2スイス信条もまた次のように教えている.「われわれは,福音の宣教を聞いて信じ疑うことなく,キリストにあって選ばれていることを確信しなければならぬ.なぜならⅡテモテ1:9‐10にある如く,父は永遠の言葉をキリストにおいて,明らかに宣べたもうたのである.…キリストは鏡であり,われわれはキリストによってわれわれの予定を考える.もしわれわれがキリストと共に交わりを持ち,真の信仰によってキリストがわれわれのものとされ,また,われわれがキリストのものとなるならば,われわれは生命の書に記されていることを確信し証しすることが出来るのである」(10:8,9).<復> 第3に予定の教理が正しく説かれ,正しく学ばれ,信ぜられ,自分の永遠の選びが確信される時,「この教理は,神への賛美と崇敬と称賛の,また謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を,すべてまじめに福音に従う者たちに提供してくれるであろう」とウェストミンスター信仰告白は教える.神の予定と恩恵による選びを信ずる時信仰者の心は神に対する賛美と崇敬と称賛と感謝の思いに満たされる(エペソ1:3‐14,ローマ11:33‐36).また,予定の教理は,すべてまじめに福音に従う者たちに謙遜と熱心と豊かな慰めの材料を与える.<復> (1) 謙遜.予定の教理が謙遜を教えると言う時,神に対してと他人に対してと二つの面がある.選びは神の全くの自由な恵みと愛だけから出て,人間の中にある何らの良いものに基づかず,神を選びに促す条件や原因とはならないのであるから,選ばれた者は神の前に全く謙遜にされ,ただただ神の主権的な恵みと選びの愛を賛美し,感謝するようになる.また選ばれた者は選ばれなかった者に比べて何ら優れた点があったから選ばれたわけではないのであるから,他の人々に対して思い上がってはならず,与えられた恵みを感謝し,ただ主を誇らなければならない(ローマ11:5,6,20,申命7:6‐8,Ⅰコリント1:26‐31,ヤコブ2:5).<復> (2) 熱心.ウェストミンスター信仰告白は「熱心」の証拠聖句としてⅡペテロ1:10を挙げているが,これは同1:5‐11全体を代表して1:10を引用しているようである.1:10で「ますます熱心に,あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい」と言って信仰生活の熱心が勧められているが,「ますます熱心に」とは1:5‐8を指している.神は選民を栄光へと定められたので,そこに至るためのすべての手段をもあらかじめ定められた.目的と手段は不可分である.神は選民を,そしてただ選民だけをキリストによって贖い,聖霊によって有効に召命し,義とし,子とし,聖化し,栄化される.神の選民は,信仰と悔い改めという救いの内的手段と,みことばと礼典と祈りという外的通常の手段を熱心に勤勉に正しく用いて救いを全うするのである.この働きは決して無駄になることはないとわれわれは確信している(Ⅰコリント15:58).良きわざへの熱心(エペソ2:10)も,伝道への熱心(使徒13:48,18:9‐11,Ⅰペテロ2:9,ローマ8:30,11:7,Ⅱテモテ1:9,11,テトス1:1‐3)も予定信仰から出てくる.永遠のいのちに予定された者は,福音の宣教という手段を用いて救われる.目的と手段は不可分である.<復> (3) 豊かな慰め.苦難と迫害と誘惑の中での豊かな慰め(ローマ8:28‐39,ルカ10:20)も予定信仰から出てくる.すなわち,神の御計画に従って召された人々には,神はすべてのことを益となるようにして下さるのである.<復> 予定信仰は特定の教派の教理ではなく,聖書的信仰であるから,聖書を神のことばと信ずる者たちは,これを聖書自身から学び,確信し,予定信仰から力と慰めと励ましを得なければならない.予定信仰は代々の教会の信者によって信じられてきたが予定についての神学的検討は絶えず新たに加えられてきた.カルヴァンと17世紀の改革派神学と諸信条に表現された予定論にその後も批判や修正意見が提出された.バルトのキリスト論的予定論やベルカウワーの予定論など伝統説の見直しを迫っている.新しい聖書注解や聖書学の豊かな成果も多くあり,また邦訳で,アウグスティーヌス,トマス,ルター,カルヴァン,バルトなど予定論の主要な古典に接することができる.これらの古典に養われつつ,聖書そのものによって予定信仰をより聖書的にとらえ直す不断の努力を続けるべきである.→選び,神の計画,救い.<復>〔参考文献〕『アウグスティヌス著作集4—神学論文集』『アウグスティヌス著作集10—ペラギウス派駁論集2』教文館(1979,1985);トマス・アクィナス『神学大全』2巻,創文社,1963;「奴隷的意志について」『ルター著作集』第1集第7巻,聖文舎,1966;カルヴァン『キリスト教綱要』Ⅲ/2,新教出版社,1964;L・ボエトナー『カルヴィン主義予定論』小峯書店,1974;F・H・クルースター『カルヴァンの予定論』聖恵授産所出版部,1984;K・バルト『教会教義学 神論Ⅱ/1,2』新教出版社,1982;Berkouwer, G. C., Divine Election, Eerdmans, 1960 ; Jewett, P. K., Election and Predestination, Eerdmans, 1985.(矢内昭二)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社