《じっくり解説》神論とは?

神論とは?

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神論…

1.神学の一部門で,神御自身を直接の対象としている学である.神学は,神のわざの全体を神の視点からとらえていくもので,その中に聖書論,神論,人間論,キリスト論,救済論,教会論,終末論が含まれている.神論はその神学の一部門であって,そのようなわざをなしておられる神御自身を学の対象として取り上げていくものである.神学の中では,この世界のすべてのものが神とのかかわりでとらえられるが,神論においては,万物を創造し支配しておられる神御自身のあり方とわざだけが取り上げられる.この意味で神論は,キリスト教神学の第1の部門として取り上げられてきた.<復> 2.しかし神御自身を学の対象とする時に,外的な意味と内的な意味との両面から,神論の可能性を確認しておく必要がある.外的な面とは,神の概念が諸宗教の中で一般的に受け入れられているので,キリスト教の神の絶対性とその存在の論証をしておくことが求められてきたのである.神の存在証明の問題は弁証論の問題として取り上げられてきている.内面的な面とは,神を人間の言語と論理でとらえることができるかという神論自体の可能性の問題である.その方法の問題として,歴史的には二つの流れがある.神を積極的に肯定的に表現することはできないと考え,神については人間の概念を否定したところでしかとらえられないとした否定神学と,神御自身を肯定的に積極的にとらえることができるとした肯定神学との二つの方法である.前者はギリシヤ正教会の方法論となっており,後者はローマ・カトリック教会の方法論となっている.プロテスタントの教会は,基本的にはカトリックの流れをとっている.しかし,神をとらえる方法として「聖書のみ」という原則を明確にすることによって,プロテスタントとしての神論,さらに神学の方法論を確立したのである.<復> 3.神を直接の対象として神論をとらえていく時,その神とそのわざを知る場として聖書を媒体としておくことによって,プロテスタント教会においては,聖書論が神論の前提となった.神はそのわざのすべてを聖書を通して明らかにしておられ,私たちは聖書を通してのみ神について論ずることができる.この意味で,聖書を神の啓示の書ととらえることは,神論の理解の重要な枠組みとなってきた.聖書は,神学と神論にとって必要かつ十分な要素なのである.このことによって,神についての思弁的な議論を避けることができる.現され,啓示されていることから,神を知ることができるのであって,隠されたことは神のものなのである(申命29:29).<復> 4.啓示されているところから神を知っていく時に,伝統的には,神をその人格と働きの二つの面からとらえていくことがなされてきた.神論の順序としては,人格の面の議論が先になされているが,私たちの神の知識の順序としては,神のわざを通して神の人格について知ることになる.この場合の神のわざとは,神の創造から終末までを通して,神が今までなされ,今もなされ,これからなそうとしておられることのすべてを意味している.神のわざの全体から神の人格と性質を考えていく時,神御自身のうちにそのわざの必然性を探っていくことは,神論の中での一つの難しい課題である.例えば,なぜ神は世界を造られたのか,あるいは,神には世界を造る必然性があったのか,という問である.また神のわざの中で,神は悪を造られたのか,あるいは,神はどうして悪の存在を許しておられるのか,という問である.これらの問には明確な答を導き出すことができない.しかしこれらの問は,神の奥義を知る上で意味のあるものである.答が与えられない場合には,神の手のうちにあることとして残しておかなければならない.これらは神論の中で,学として私たちの知り得ることと,神の手のうちに隠されていることとの境界の問題である.神についての理解の深さは,この境界を聖書によって注意深く探っていくことである.アウグスティーヌスの神の理解の深さはこのところからきている.<復> 5.神のわざを聖書を通して探っていく中で,神のあり方,性質についてまとめていく時に,伝統的には神の本質と属性という二つの面からとらえられてきている.本質とは一般に,その存在のために他のものを必要としないで存在するもので,その存在そのものと言うことができる.それに対して属性とは,その存在を構成していると認められる性質のことである.神については,神のわざの中から神のあり方の性質を探っていった時,それを神の属性と言っている.さらに神の属性の中から神のあり方そのものを探っていった時に,それを神の本質と言っている.神の本質と属性についての分類は,それぞれの神学者によって異なっている.特に何を神の本質とするかについては議論のあるところである.神の本質について明確に語ることは不可能である.というのは,神はその現されたところでしか知ることができないからである.「神の本質([ギリシャ語]ヒュポスタシス)」という表現は,ヘブル1:3で,「御子は…神の本質の完全な現われ」という意味で使われている.神の本質そのものについては語られていない.<復> 6.しかし,何を神御自身の中心的なあり方と見るかということは,神論の根本的な課題である.「神は霊です」(ヨハネ4:24)と言われていることから,神は私たちのように肉体をもって存在しておられるのではなく,目に見えない霊として存在しておられるということがわかる.この規定を,神の中心的なあり方と見ることができる.同時に,神は生きていて人格を持った方であるという規定を,神は霊であるという規定に加えることができる.神は霊であり生きておられるということから,神は自らのうちにいのちを持っていて,他のものによって生かされる必要のない方であるということがわかる.神以外のものは自らによって生きることはできないが,神は他のものに依存しないで自己存在しておられる方である.トマス・アクィナスはこの神のあり方を「第一原因」と呼び,「わたしは,『わたしはある.』という者である」(出エジプト3:14)から説き明かしている.「霊」は「風」とも「息」とも訳されることばで,霊であるということは,風が目に見えないように見ることのできないものであるということである.しかし,風が吹いていることを知ることができるように,神の霊によって生かされているものを知ることができる.人間は神の霊によって生かされて,神のいのちの息によって「生きもの」(創世2:7)となったと言われているのである.<復> 7.神が人格を持って生きておられる方であるということは,神が人間に語りかけ,人格的な交わりを持っておられることから知ることができる.さらに,神がその創造のわざにおいてことばをもって世界を造られたことからも知ることができる.人格を持っているということは,人間の場合にはその人の肉体による存在と結び付いて理解されることであるが,神の場合には肉体を持つことがなくても霊として存在しておられることの中で理解されることである.目に見えない方であるけれども,なされたわざの全体を通して,神の人格性について知ることができるのである.人格を持っているということは,一般的に,知情意の三つの面からその機能を理解することができる.神の場合にもこれら三つの面をもってこの世界と人間に対しておられるということを,聖書から知ることができる.人間の場合にはこれらの機能は,ある対象との関係でその能力を発揮するが,神の場合にはそれらの対象がなくてもこれらの能力を発揮することができる.すなわち,何もない無の状態において世界を造ることをすでに知っておられ,それをよしとしておられたのである.人間の場合には,知るということは,何か知る対象がなければ成り立たない.肉体による感覚を通してこれらの機能が働くからである.しかし神の場合には,霊として存在しておられるので,感覚による制約を乗り越えておられるのである.<復> 8.霊であるということは,風と同様にどこにでも存在し得ることを意味している.一つの場所に制約されることがないのである.この意味で,神は時間と空間の制約を超えて存在することのできる方である.人間は時間と空間の制約の中に閉じ込められているが,神はそれらの制約から自由であられる.人間は,それらの制約から自由であるという状態について考えることにおいても制約されている.この意味で神の世界を知ることは不可能なことである.時間と空間の制約から自由であれば,前後,左右,あと先ということはなく,すべてを一瞬のうちに見,知ることになる.地球のどこで起っていることも一瞬のうちに知り,人類の歴史のすべてを知り,これから起ることも知っておられるのである.人間は,その場に行かなければその場の現実を知ることができないし,その場に行けば別の場にいることはできない.歴史の過去に戻ることもできないし,未来のこともその時まで待つ以外にはない.神の場合には,その時まで待つ必要はないし,その場に行く必要もない.この意味で神は無限であり,永遠である.<復> 9.霊であるということから,神は永遠性と無限性という性質を持つことになる.しかも人格を持ち,知情意の能力を備えているので,その知識においても全能の方であることがわかる.神は私たちの思いのすべて,行動のすべてを知っておられる.人間が自分について知らないことも神は知っておられる.ダビデは,神のこのような知識を,「主よ.あなたは私を探り,私を知っておられます」(詩篇139:1)と言っている.また神はその意志と感情においても,この世界のことで影響を受けることのない方である.愛するということにおいてその意味で純粋なのである.神がこの世を愛しておられると言う時,この世がどのように変化してもその愛は変ることがない.聖書の中に神は「悔やみ,心を痛められた」(創世6:6)という表現があるが,それは擬人的な表現であって,神のこの世に対する意志は変ることはないのである.<復> 10.神のこのような性質は,父なる神だけでなく,子なる神にも,聖霊なる神にも当てはまる.キリストは子なる神として,受肉以前にも,受肉後にも,これらの性質を持っておられた.聖霊なる神もこれらの性質を持っておられる.神としてのあり方は,三位一体の神のあり方なのである.三位の神がこのような性質を持っておられて,しかも一つの神であられるということは,聖書の基本的な教えである.神は一つの神であるが,父なる神として,子なる神として,聖霊なる神として独立した位格を持ち,それぞれ共通の神としての性質を持っておられる.三つの位格は独立しており,それぞれ人格性を備えているので,父なる神と子なる神と聖霊なる神の間で人格的な交わりを持っておられると考えることができる.この三位一体としての神が,万物の創造以前において,御自身のうちに交わりを持ち,創造に始まる神のわざについて計画を立てておられたと考えることができる.神は,聖定をもって御自身のわざについて計画を立てておられたのである.この聖定の中にキリストによる救いの計画が堕落以前から定められていたかどうかについて,堕落前聖定論と堕落後聖定論の二つの考えがある.御子なるキリストが創造以前から永遠の計画を持っておられたということから,その御子が救い主として受肉されることが初めから定められていたと考えることができる.また,御子による救いの計画だけは堕落後に定められたと考えることもできる.神が計画を持ち,御子もそれにかかわっておられることは,「神が御子においてあらかじめお立てになったご計画」(エペソ1:9)ということから明らかである.<復> 11.神の聖定の目的は,神御自身の栄光のためである.人間の堕落は神の栄光とどのようにかかわるのかは,神の奥義である.神が計画を持っておられることは,神がすべてを決定して動かしておられるということではない.定めておられることの中で許容をもって人間の自由にゆだねておられる部分がある.人間がその許容範囲の中で自由に振舞っても,大きな神の計画の中で動いていることなのである.私たちが神の計画の中にあるということは,現されたキリストを知ることによって知ることができる.パウロはそれゆえに「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」(エペソ1:4)と言っている.神のみこころを知ることも,キリストを知ることと結び付いている.日常の生活の中で神のみこころを知るということも,キリストを知ることの中で理解されることである.<復> 12.神が聖定をもってすべてのことをなしておられることは,神のわざの全体を通して知り得ることである.それゆえ,神の計画の最終的な意味は,すべてのわざがなされてからでないと明らかにされない.神のわざの最初は,天地万物の創造である.神が世界を造られる以前には,三位一体の神以外には存在しているものは何もなかった.しかもその存在は,私たちのように時間と空間を持って存在しているのではなく,霊として存在していたのである.神は世界を造られる前に何をしておられたのかについて,多くの議論がなされている.一つ明らかなことは,神は三位一体の神として自らのうちに交わりを持っておられたということである.それ以上は私たちにはわからないことである.神御自身のうちに天地万物を創造する必然性というものはないのであるが,神御自身の栄光のために自由に創造されたのである.しかし計画をもって創造されたのであって,気ままに創造のわざをなされたのではない.神はことばをもって世界を造られたと言われるが(ヘブル11:3),それは三位の神のうちで語られていたことばと考えることができる.実際に神はことばを先に発し,それに創造のわざが続いている.すなわち,「光よ.あれ」と言われて,光が造られた.すべてが神のことばに基づいて造られたのである.しかも「光」という対象があって「光」と言っているのではなく,「光」というイメージが神のうちにあって,それに従って光が造られたのである.<復> 13.この場合に,創造のための素材というものは何もなかった.このことを「無からの創造」と言う.この用語はⅡマカベア7章28節からきているが,神の創造のわざを示すものとして教会において受け入れられてきている.人間の場合には,何かの素材なしには何も造ることはできない.しかし神の場合には,無からすべてを造ることがおできになった.この無とは,時間も空間もない全くの無のことである.時間と空間とは造られた被造物の世界に属していることである.時間と空間のない無の状態を私たちは想像することができない.また時間と空間が造られた瞬間も想像することができない.創造の過程については,創世記の記述を通してのみ知ることができる.神は7日間の創造のわざによって天地万物を造られたのであって,神によって造られたものでないものは何もない.万物が神の創造によって存在するようになったのである.<復> 14.この「無からの創造」という教理は,神と造られたものとの明確な区別を意味している.神と世界との間には連続的な結び付きというものはない.新プラトン主義やグノーシス主義では,物質の世界は神からの流出によって出てきたと考える.そして物質は神から一番遠く離れているので悪の世界なのである.汎神論的世界観では,神は物質の中に存在するとし,すべてを神と見る.神と世界との区別はない.世界の始まりは創造神話によって語られている.そして自然や人間が神と見なされるのである.神道の世界観はこの意味で汎神論的なものである.このような汎神論的な世界観の中では,キリスト教の神観と創造論とがいつも明確にされる必要がある.<復> 15.この造られた世界は,物質としては単なる物にしかすぎないが,その物に意味があるのは,神の創造の産物として存在しているからである.物としては非人格的であるが,造った神が人格的な神なので,その神から人格的な意味付けを得ているのである.存在しているものは何らかの意味で神との関係の中で意味を持っている.創造論は存在の問についての解答を与えている.すなわち,何のために存在しているのかという問に対して,創造した神のために,という目的を見出すことができるのである.人類の歴史において啓蒙思想以来,神が否定されてきた時に,被造物は「自然」と呼ばれるようになり,人間は神に代ってその自然を支配するようになった.近代科学はその現れである.人格的な意味付けが最も顕著に現れるのが人間のあり方である.しかし神を失った近代科学では,人間の生命は単なる物にしかすぎなくなってしまった.人格神としての神の創造のわざは,被造の世界に対して,何が善であるかについての倫理の規範を与えている.創造論は存在論と倫理学の前提である.<復> 16.神によって造られたものはすべて良いものと言われているので,神論の難しい問題は悪の起源のことである.神の造られたものはすべてその存在において善であるので,悪の存在する場所はない.しかし悪が存在し,支配している時,それは神の創造の不完全さによるのか,神が悪をも造られたのかということが問題になる.神が悪をも造られたとは考えられないし,神の創造が不完全であったとも考えられない.アタナシオスは,悪とは善の欠如,存在の欠如であると見て,「無からの創造」の無を悪の起源と考えた.アウグスティーヌスは,この問題から人間の自由意志の問題を考え,高慢さを悪の起源と見た.すなわち,神のうちには悪の起源はないとしたのである.悪の問題は神の許容の中にあることで,最終的には悪は滅ぼされるのである.悪のない新天新地を神は約束しておられる.悪が存在しても,神はこの世界を守り,保持しておられるのである.<復> 17.神を知るのは,神のなされたわざを通してであるが,人間はすでにこの神のわざの中に組み入れられている.そして神のわざの全体を知ることによって,私たちがどこに置かれているのかということを,全体的な視点から知ることができる.それは,私たちがどこから来てどこに行くのかという人間の究極の問に対しての全体的な視点を与えることになる.すなわち,神を知ることは自分を知ることに結び付いているのである.カルヴァンはその『キリスト教綱要』の冒頭で,神を知る知識と自分を知る知識とが結び付いていることを論じている.ダビデは詩篇139篇で,神が自分のすべてを知っておられることをダビデ自身がよく知っていることを認めている.そして「それはあなたが私の内臓を造り,母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(139:13)と,創造論にその理由を認めている.<復> 18.キリスト教の神論は,聖書を通して啓示されている神を,その現されているところに従って教理としてまとめていくものである.それは現されている限りにおいて知られる神のあり方であって,思弁によって神の世界を築いていくものではない.しかし聖書を通して自己啓示された神は,私たち人間にとって完全な神である.それゆえに聖書を通して私たちが神を知るなら,私たちの基本的なあり方に対して満足のいく答を得ることになる.その意味で,神論を聖書に基づいて正しく把握していくことは,キリスト教世界観,人間観を確立していくために必要なことである.→神存在の証明,神の計画,神の属性,三位一体・三位一体論争,隠された神と現された神.<復>〔参考文献〕J・I・パッカー『神について』いのちのことば社,1978;Sproul, R. C., The Holiness of God, Tyndale, 1985.(上沼昌雄)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社