《じっくり解説》旧約神学とは?

旧約神学とは?

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旧約神学…

1.旧約神学とは何か.<復> 正しくは旧約聖書神学と言い,聖書神学の一部門である.ただしこれは,旧約神学と,もう一つの独立した部門である新約神学とを合せれば聖書神学になることを,必ずしも意味しない.旧新約全体を一つの有機的な統一体として考える立場では,旧約神学はあくまでも聖書全体の理解のための学であり,また聖書全体の光の中でのみ成立する学である.「聖書神学」という表現は宗教改革以来,多様に用いられてきた.「聖書に根拠を持つ神学」,「聖書そのものが含む神学」のいずれをも意味し得た.前者の意味では教義学,組織神学とほとんど同義である.教義学などとのはっきりした区別が見られるようになった18世紀中頃以降も,多様な用いられ方がなくなったわけではない.<復> 旧約神学の歴史は,この学問の基本的な性格を巡っての論争の連続であり,今日でもなおその決着を見ていない.その論争史から,旧約神学は歴史的学問なのか神学的学問なのかということが問題であったことがわかる.歴史的学問であるとした場合,旧約神学の目的は聖書の記者が神について考えたことを伝えることにあると言う.それは言わば古い時代の宗教,またその思想についての研究で,聖書が伝えていることの普遍的な意味を解明することではない.神学的学問であるとした場合,聖書の記者たちはあくまでも神の啓示のために用いられたのである.従って旧約神学は啓示についての学,つまり神学でなければならない,ということになる.神学的学問と規定する立場でも,結果的には古代イスラエルの信仰の神学を論じているにすぎない場合もあり得る.<復> このように学問としての旧約神学は,その定義,内容についてさえ共通の理解を欠いたままである.多くの異なった立場は,それぞれの時代や,特定の聖書記者の聖書観を反映しているものと考えてよいと思われる.旧約神学は,旧約聖書が何を語っているかを聖書そのものから全体として問おうとする学問であると考えられる.聖書が啓示であることを前提にする限り,それは神学である.啓示に用いられた記者たちが歴史的存在であり,その記者たちが生き,語り,記述した場としてのイスラエル世界が歴史上の現実であったと認める限り,歴史的学問である.歴史的であることと神学的であることが分離できないことこそ,本来の旧約神学の特質でなければならない.<復> 旧約神学は旧約聖書のすべての学びの総合であると言われる.旧約聖書のあらゆる学びの後にそれを総合するということであれば,少数の特別な学者にだけ許される学問ということになる.事実,過去に出版された旧約神学の書物に死後出版が多いとされることも,これを裏書きしているのであろう.しかし旧約神学が総合の学であるということは,学ぶ者による総合であるよりは旧約聖書に内在するものを学ぶことによる総合であろう.旧約聖書に内在する有機的統一性の原理と,その原理に貫かれた旧約啓示の構造の理解が,旧約神学の究極的な目的であると思われる.それは旧約の章句の理解のための最も広く,それこそ総合的で,それゆえに不可欠の文脈を提示する.あくまでも聖書学の領域に属する学問である.またそれは同時に教義学,組織神学の前提でもある.<復> 2.旧約神学が必要とされる理由.<復> (1) 啓示のために用いられた「イスラエル」.旧約聖書の啓示はイスラエルの人たちを通して与えられた.このことはまず,聖書記者たちがイスラエルの一員であったことを意味する.みことばが彼らのことばを用いて表現されたのである.彼らのことばの背後には彼らの生活があり,環境がある.考え方,理解の仕方があり,また表現の方法がある.現代語に訳された彼らのことばが,もともとの意味を正確に表現しているとは限らない.一般的な時代や文化の相違は言うまでもない.しかしそれ以上に,信仰共同体としてのイスラエルという特別な環境を軽視することはできない.日本人が日本語の聖書の中で読む「義」とか「愛」とかいうことばが,イスラエルの人たちが理解した元のことばの意味を必ずしも正確に表していないとすれば,その違いを知らないでいてよいはずはない.旧約聖書の章句の意味をより正確に把握するためには,文法的な方法だけでなく,それぞれの背景にある生きた環境(生の座)での理解が必要となる.そのためには特定の章句だけでなく,聖書の記者たちが生きたイスラエルの世界,それぞれの時代の社会環境や,その中での人々の生き方,考え方,表現の仕方などの特徴を極力知る必要があるだろう.つまり,啓示に用いられた人々の表現のより現実的な理解のためには,記者たちの生きたイスラエル世界そのものもまた啓示のために用いられたという事実を認めなければならない.<復> 旧約神学はこの観点に立って,旧約聖書そのものの中から得られる限りの素材の中から,聖書の言うイスラエルの人たちの,特にその考え方や表現の,特徴の理解の努力を,その基本的な作業の一つとするのである.言い換えれば旧約神学は,旧約聖書の当初の読者にとっての意味をできるだけ正確に知るための努力である.それゆえに釈義の学問とされるのである.当初の読者にとっての意味を知る努力そのものは,どのような時代,どのような地域の文献についても言えることである.この当然のことが旧約聖書にも必要とされる.聖書の場合は啓示に用いられたイスラエル世界の現代との時間的文化的隔たりだけでなく,その長い解釈の歴史,伝統のゆえに,特に改めての努力が必要である.<復> (2) 啓示のために用いられたイスラエルの歴史.旧約聖書の啓示はある特定の時代のイスラエルを背景にして与えられたのではない.千年にも及ぶ長い期間のイスラエルの歩みを用いての啓示である.このことは旧約聖書の啓示が,長い時間的な経過によってのみ,十分に表現できる性格のものであったことを示している.それは事実,人間の歩むべき道についての単なる基準の提示ではない.人間のための神のみわざとその進展についての,また進展のための啓示である.それは歴史を支配されるお方の,歴史の中でのみわざが,歴史を用いて啓示されているという事実である.その啓示のために用いられているのが,旧約聖書のイスラエルの歴史なのである.神はイスラエルに告げるべきことばとして,次のように語られた.イスラエルの出エジプト後,律法の啓示に先行してのことである.「あなたがたはすべての国々の民の中にあって,わたしの宝となる.全世界はわたしのものであるから.あなたがたはわたしにとって祭司の王国,聖なる国民となる」(出エジプト19:5,6).ここに全世界の主権を持つお方が,その全世界の民のためにイスラエルに与えられた特別の役割が示されている.「宝であり,祭司の王国,また聖なる国民」ということの中で,特に全世界のための祭司の役割が強調されていると思われる.祭司の務めは一つには,神と人との仲保者のそれである.しかしそれはイスラエル自身の意志と力によるよりは,神が彼らを用いられるということによってのみ成り立つことであった.彼らがその歴史における歩みを通して—彼ら自身について言えば,ほとんど不従順と失敗の繰り返しを通して—神のみわざを知らせることになるのも祭司的役割であったと思われる.神はイスラエルの歴史の中でみわざを進展させ,イスラエルの歴史を通してみわざとその進展を啓示されるのである.それはすべてを貫く,神のあわれみの歴史であり,ついにはイスラエルへのメシヤの来臨の約束に結晶していく歴史でもある.<復> このように聖書におけるイスラエルの歴史は啓示に用いられている特別の歴史なのであり,多くの民族の一つとしてのそれではない.旧約神学はイスラエルの,啓示に用いられた特別の歴史の解釈と理解とを,基本的な学びのもう一つの領域としなければならない.啓示としての旧約聖書全体の構造の理解が旧約神学の究極の目的であるとすれば,その構造の枠組みを形成する二つの大切な要素が「イスラエルの環境」であり,「イスラエルの歴史」なのである.<復> (3) みことばの示す生の状況.旧約聖書のメッセージをくみ取るために旧約聖書の生きた事実を知ることは,そのメッセージをくみ取ることともなるはずである.旧約神学は特に説教者にとって基本的な訓練の一つでなければならない.旧約聖書のことばを断片的にピックアップすることによる学びも可能であろう.しかし個々のことばは,個々のことばを貫いて示されている全体としての状況の中での,正当な位置付けを求める.全体を知るためには,部分を知ることの積み上げが当然必要である.しかしその部分が全体とのかかわりの中で改めて問われる時,その部分のより正確な意味とその奥行きや深さが知られるようになる.それは解釈者がみことばの示す生の状況に自分を置いてメッセージを聞くことであり,みことばを語るための前提条件である.旧約聖書のことばを理解して現代の状況に適用することは,このようなプロセスなしにあり得ない.<復> 要するに旧約神学は,実践的には旧約聖書のみことばの現実をできる限り,なまのままとらえるための努力なのである.旧約聖書が新約聖書と一体であることは再言する必要もない.ただ,旧約聖書が新約の真理の単なるイラストレーションの集成ではないことは確認すべきであろう.旧約聖書の提示するイスラエルの環境の理解のための努力は,教理的視点とは別に,社会学,人類学,心理学的な視点をも決して排除しない.<復> (4) 教義学,組織神学との関係.教義学,組織神学の支えとして,旧約神学はその神学という名称にもかかわらず聖書学の領域にあり,一般的な意味での神学ではない.しかしみことばそのものの理解のための学として,教義学,組織神学の準備をし,それらを支え,また補強する.18世紀の中頃,旧約神学が教義学とは別の,独立した学問であると言われた時,旧約神学が教義学と対立するものとされたことは記憶しておくべきであろう.旧約神学が合理主義の原理に基づくとされたからである.その歴史的批評的と言われる方法が教義学との対立をもたらしたと言える.旧約神学独立の契機をつくったガーブラーは旧約神学を考える前提として,聖書の霊感のことは除外してもよいとした.人の堕落にもかかわらず,聖霊は物事の内側にあることを識別する人間の能力を滅ぼされなかった.人間は神のことを含め,正しい理解のための能力を持っている.これがガーブラーの考えである.人間についてのこの楽観主義が聖書神学を単なる人間の学とし,教義学との対立の方向に向かわせたものと思われる.本来の旧約神学が教義学,組織神学と同様に啓示の学であることを再確認する必要があろう.<復> 3.キリスト教の学としての旧約神学.<復> 旧約神学を歴史的科学と規定することは間違っていない.歴史的な存在としてのイスラエルとその世界が対象とされる限り,その研究が歴史的方法を基本に持たなければならないことは事実である.しかし,18世紀以来の合理主義の方法に従属する旧約神学では,状況が変る.そこでは旧約の記述そのものの歴史性が否定される.旧約神学は合理主義そのものの立場からの,イスラエルの宗教現象の研究にすぎなくなる.それぞれの時代の哲学や聖書批評学の方法に支配される時,啓示に用いられた歴史という事実そのものが排除されてしまう.啓示という信仰の領域の事実を認めることは歴史科学の方法に全くなじまないとしながら,進化論を援用しての特定の史観によって旧約聖書を断片化する.それを人為的に再構成した歴史を,歴史科学の方法によるものとするわけである.この場合の「歴史的方法」が旧約聖書の歴史的性格そのものを否定する.しかし,啓示としての性格を全く無視して旧約聖書の学であることは成り立たない.事実,旧約神学の性格論の不安定さはこの問題をどのように取り扱うかの不安定さによると言ってよいだろう.旧約神学は,初めから歴史的であるとともに神学的であってこそ存在し得る学なのである.<復> 旧約神学は何よりも旧約聖書そのものの学である.その旧約聖書がそれ自体,神学的主張の書(E・ヤコブ)なのである.それはイスラエルについての証言であるとともに,イスラエルによる神のみわざについての証言である.このイスラエルの証言が深い歴史的経験に基づくのであり,それは一般的な歴史的,批評的研究が到達し得ない領域である.その証言を学ぶ者は何よりも,その証言を自ら聞くものでなければならない.旧約聖書の事実が普遍性を主張する時,それはイスラエルが世界のために選ばれているという,あの出エジプト記の証言の実質化である.このように考えてくると,旧約神学の歴史的性格と神学的性格は分離できない一つの性格を形成するものであることが再確認できる.もしこのことが信仰の立場によってのみ正当化できるのであれば,それは旧約神学が何よりも信仰の学であり,キリスト教の学であることを示しているのであろう.<復> 旧約聖書は長い年月にわたって,多くの記者を通して,多様な性格を持つものとして書かれた特定の文書の集成である.それぞれの前史は問題ではない.この集成された文書が旧約聖書という一つの書とされ,他の書物と区別され,神の権威による,神のことばとして扱われてきた.このことが旧約神学とその方法の理解にとって持つ意味は大きい.主イエス・キリストが「律法と預言者と詩篇とに書いてあることは,必ず全部成就する」(ルカ24:44)と言われた時,この旧約のすべてが一つの目的を持ち,それゆえの性格を持っていることを示している.多様な背景と内容を持ちながら一つのものであるという旧約聖書の事実が,それぞれの部分と全体という関係とともに,全体を構成する枠組みの存在を予期させるのである.それは旧約聖書の各書の記者の意図や理解をはるかに越えて包括的であり,一貫性を持つ.旧約聖書の,この有機的統一性は,個々の書の細部にわたる分析の総合から明白になるとは必ずしも言えない.それはキリスト的,キリスト教的視点によってのみ見出される,旧約聖書そのものに内在する性格である.このことから旧約神学はあくまでも旧約聖書の学でありながら,新約聖書の光によって初めて全面的に可能とされる学であると言えよう.旧約神学は決して過去の思想の学ではない.それは現在に直結する歴史における神のみわざの理解の努力である.<復> 4.旧約啓示の構造の学としての旧約神学.<復> 旧約啓示の統一的構造を知るための努力は,多様に試みられてきた.その信仰,思想の基本を組織神学の枠組みに従って体系的に提示する方法があった.イスラエルの信仰と神のみわざそのものを特定の時代別に考え,その相互の関連を歴史的な連続と発展の図式の中でとらえようとする試みもあった.統一性のかぎを特定のテーマ—例えば契約の思想,神の主権,交わりなど—に見て,そのかぎに従っての体系的理解をすることも試みられてきた.しかし旧約啓示の全体的な理解という目的そのものの大きさが,構造理解について基本的な合意を困難にしていると思われる.確かに新約聖書につながる大きな流れが根本にある.その中で約束とその成就,契約の目的とその実現など,いずれも旧約聖書の中心にある思想には違いない.しかし旧約聖書は神のみわざを語ると同時に人が生きることの全体について,驚くほどの細部を語っている.それは特定の重要な出来事や思想を際立たせるためのものではない.すべては中心的な出来事,神のみわざそのものと不可分につながっている.このことを除外したままで旧約の有機的統一性を問うことはできない.それは単純な体系化を拒む,生きた現実そのものである.人間の世界がいつでもそうであるように,必ずしもきちんと整理された世界ではない.しかもそのすべてが新約の事実に向かっての過程である.旧約神学の役割はイスラエルの信仰,イスラエルを通しての神のみわざについてすでにでき上がった体系を示すことでも,その発展的歴史を提示するというだけのことでもない.旧約神学が総合の学であろうとする時,旧約啓示の中にある生のダイナミズムが置き忘れられてはならないのである.<復> 旧約聖書の事実の体系化による総合は困難であるにしても,総合のための方向と順序は求められなければならない.筆者の試みの中では,まず先述した,(1)イスラエルの環境という枠組みと,(2)イスラエルの歴史の枠組みを考えた(→本項目2.).(1)は,啓示に用いられたイスラエルの共同体の現実について,聖書に示されている限りを全体として理解しようとする.方法的にはその信仰,思想,言語の特質理解の努力が優先するであろう.(2)では,イスラエルのための神のみわざの歴史的進展が何を軸にして示されているかが問われる.例えば王権の思想はメシヤの来臨とのつながりにおいて重要な軸であることは明らかである.しかし軸は一つだけではない.一つの軸の周辺に多くの別の軸がある.王権の神学があるなら,神殿の神学も,ことばの神学も成り立つ.神殿についての理解などは,新約のそれと正面から対立するようなことではない.むしろ新約に向かっての着実な進展を跡付けることができるのである.<復> 旧約神学の方向を考える上での第3の領域は,上記の二つの領域を前提にしている.それぞれの領域の中での諸要素の関連,また二つの領域の関連を考える.それは旧約聖書の啓示の構造の神学の核となるべき領域であろう.例えば上述の歴史を貫く軸が何であるか,それらがどのように関連しているかは意外なほど解明されていない.ここでは旧約聖書の各書の構造も改めて問われる.各書の構造はそれぞれの目的によって決まる.それは人間としての聖書記者を越え,啓示を与える神の目的である.このための問は,それぞれの書がなぜ啓示なのかということであると思われる.例えば,詩篇がなぜ啓示なのかを問う理由は十分にある.「主よ,私をあわれんでください」という人間の祈りが啓示であるとするのは,聖書の啓示の意味と方法を考える時,決して平凡なことではない.旧約神学の領域は,細部まで固定された体系としてではなく,旧約聖書の一つ一つの事実がその中で理解されなければならない「場」のようなものとして受け止められるべきだと思われる.旧約神学の内容は固定化を必要としないものであるとはいえ,決して無秩序ではない.歴史的進展はやはり旧約聖書の啓示の中軸であろう.旧約聖書の啓示の構造を分析して,その中心が何であるかを考えることも,一つのかぎですべてを解釈しようとしない限り有効であろう.しかしイスラエルの生の現実を通しての啓示と,歴史的なみわざの進展の両者を合せ考えた上で旧約啓示の中心を考えるとすれば,それは思想ではなく「神の事実」なのではないか.神の特定の性質でも働きでもない.筆者はそれを「共にいます神」であると考える.つまり「臨在の神」こそ中心であり,神の救いの計画のすべてを貫く事実なのではないだろうか.そしてこの生ける神の臨在の一貫性が,そのまま旧約聖書の有機的統一性の理由なのである.→聖書神学,聖書釈義,聖書批評学,啓示論.<復>〔参考文献〕Jacob, E., Theology of the Old Testament, Hodder & Stoughton, 1958 ; Pedersen, J., Israel, Its Life and Culture (reprint), 4 Vols., Oxford, 1954 ; Kaiser, W. C., Jr., Toward an Old Testament Theology, Zondervan, 1978.(舟喜 信)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社