《じっくり解説》愛とは?

愛とは?

スポンサーリンク

愛…

人類の一大テーマであり,キリスト教の中心的テーマでもある愛について,次のように扱う.<復> 1.旧約聖書における愛.<復> (1) 愛を表す言葉.愛には美しいもの,醜いもの,感覚的なもの,精神的なもの,家族の愛,友情,男女の愛,神への愛,神から人への愛など様々あり,それらを表すヘブル語も多様である.例えば,母の胎を表すレヘムという言葉と関係のある動詞リハムや名詞ラハミームは,同じ母から生れた兄弟としての愛,あるいは母と子の感情を表し,苦しむ者,弱い者に対する同情を意味する.ハーフェーツやラーツァーは,喜びと熱心をもって心を傾け,保護し維持するという意味である.ダビデという名と関係のあるドードゥは,「揺する」「愛撫する」からきた言葉で,「愛する者」の意味である.またハーナン,ヘーンは具体的な愛の行為を強調する.これらに加えて,特に注目されるのが,愛を表す一般的な言葉である動詞アーハブ,名詞のアハバー及び契約と関係の深いヘセドゥという言葉である.アハバーとヘセドゥは選びの愛と契約の愛という関係にあるというN・H・スネイスの見解を基礎に,アハバーとヘセドゥの意味を探ってみよう.<復> (2) アハバーの意味.この語は神の愛,人の愛も含めて愛一般を表すのに用いられており,動詞では200回近く,名詞では50回以上用いられている.語源は明らかでないが,一説として,アラビア語の「皮膚・皮」を意味するイハーヴと関係があるのではないかと言われる.そうすると愛は本来,身体的な領域における情愛の気持を基礎にした感情経験であると言えよう.従ってこの感情は「憎しみ・嫌悪」と対比される.<復> さて,アハバーの用例は広範囲にわたっており,若い男女の愛(創世29:18,20,30)や,夫婦の愛(創世24:67,ホセア3:1),親子の愛(創世22:2,25:28,箴言13:24),姑と嫁の愛(ルツ4:15),友情(Ⅰサムエル16:21,18:1,3,Ⅱサムエル1:26),師弟の愛(箴言9:8),主人としもべの間の愛(出エジプト21:5,申命15:16),その他共同体の仲間に対する親切・友情・援助など(レビ19:18,34)があるが,特に見落されてならない点は,神とイスラエルの間の愛の関係である(申命4:37,10:15と6:5,10:12,11:13,30:6).イスラエルに対する神の愛は,選びと深くかかわり,契約関係へと続く.そしてイスラエルは神に選ばれた民として神への愛と忠誠を求められ,神も御自分の約束を守られる(エレミヤ31:3,ホセア11:4,イザヤ63:9).<復> アハバーに関する特別な事柄として,この語が神の呼び名としても人の名前としても用いられていない,という点がある.他の愛情を表す言葉が人名に用いられているものとしてはダビデ,ドダワ,ラハム,ルハマ,レフム,エロハム,ハサデヤなどがある.このことは語源とは別に,旧約聖書独自の意味がアハバーに込められていたのではないかという見解を生み出す.70人訳ギリシヤ語聖書がアーハブ/アハバーをアガパオー/アガペーに訳しているのも興味深い.アガパオー/アガペーの意味が,この翻訳の時点で,単に「何かに満足する」というそれまでの意味から,明確な愛の意味に用いられ,それがさらに新約聖書へと続いていくのである(Theologisches Wo¨rterbuch zum AltenTestament, Werlag W. Kohlhammer).もう一つの特別な事柄は,アーハブ/アハバーが選びの愛であるという点である.このことは前記の引用箇所にも出てくるが,特に申命7:7,8に明記されている.前述のスネイスは,人間に対する神の愛について「旧約聖書において,神の愛は二様に示される.第1は,神によるイスラエルの選びにおいて,第2は,イスラエルに対する神の継続的な愛において.第1のものはアハバー,すなわち神が地上のすべてのやからのうちからイスラエルを選んだ,あの選びの愛である.第2のものはヘセドゥ,すなわち神がその契約の民であるイスラエルに,彼らのあらゆる反逆と不従順にもかかわらず,大いなるあわれみを示した,あの執拗で,断固とした確実な契約の愛である」「アハバーは無条件的な愛である.それはいかなる契約の条件によっても制限されることなく,ただひとり愛する者の意志ないし本質に制限される.アハバーは契約の原因であり,ヘセドゥはそれを存続させる手段である」(『旧約宗教の特質』)と述べている.選びと契約とは切り離せない関係にあり,従って神とイスラエルの間の愛の関係も,常に選びの恵みと契約の義務を内容としている.<復> (3) ヘセドゥの意味.この語は「あわれみ」「いつくしみ」「恵み」「誠実」「契約の愛」「不動の愛」などと訳される.語源にはいろいろな説があるが,「熱心」「鋭さ」「ねたみ」という意味であるのか,「力」(参照詩篇114:2)という意味が基本であるのか,確かではない.しかし,用例を調べると,神については功績なしの愛顧としての恵みが強調され,人間について用いられる時には敬虔と誠実の面が強調される.そして,ヘセドゥの意味する親切や愛や恵みや誠実さは契約の枠の中で真に理解され得る.ヨナ2:8に出てくるヘセドゥは,「忠節」(口語訳・新共同訳)と「自分への恵み」(新改訳)と二通りに訳されているが,ヘセドゥの持つ二重の意味と契約概念とを示す例と言えよう.神のヘセドゥは恵みであるが,それは神の不変の契約に基づく確固たる「永遠に変わらぬ愛」(イザヤ54:8)を意味している.神の契約の愛についての言及は,創世24:27,32:10にも見られるが,出エジプト記のシナイ契約や申命記のモアブ契約において明確にされている(出エジプト20:6,34:6,申命7:7‐9,13).この契約関係がイスラエルの民に,神への忠誠と服従を要求する(申命6:5,11:1,13,22,13:4,30:6,20).<復> イスラエルは神の子供であり(申命32:6,イザヤ63:16),神の花嫁であり(エレミヤ2:2),神の妻である(ホセア2章,イザヤ49:14,54:6,62:4).この契約関係がイスラエル共同体における社会的な責任・義務の基礎となり,親族・友人・主従・その他の間における愛と誠実と親切の源となった.従って,神からのヘセドゥは神へのヘセドゥとなり,それとともに「人道主義的な徳から見た正しい行為」へと続く倫理的な義務でもある(イザヤ1:16,エレミヤ7:4‐11).この神へのヘセドゥと人へのヘセドゥを守り行う者はハーシードゥである(Ⅱサムエル22:26,ミカ7:2).この語は詩篇中に多く見られ(4:3,12:1,32:6,86:2他),「聖徒」「神を恐れる者」と訳されている.<復> 旧約聖書におけるアハバーとヘセドゥの関係は,以上のように選びと契約の関係であるが,この関係は新約聖書においても基本的に継続しており,神の先行的な選びの愛と,それに応える信仰者のあるべき姿は,クリスチャン生活においても正しく把握されなければならない.<復> 2.新約聖書における愛.<復> (1) 愛を表す言葉.愛を意味するギリシヤ語には四つある.それらは,アガペー,フィリア,エロース,ストルゲーである.このうちエロースとストルゲーは新約聖書中では用いられていないが,ストルゲーは「肉親愛や骨肉の情」を表し,エロースは,一般に「男女間の自然の愛や恋愛」を意味する言葉としてよく知られている.火山に身を投げて死んだ詩人哲学者エンペドクレスはエロースを合一,結合の原理と考え,プラトーンはエロースを神から与えられた魂の狂気と考えて,愛は美への憧憬であるとした.しかし,二つの間の合一や結合だけを原理とする愛すなわち性愛としてのエロースは,人間に特有のものではない.それは決して悪ではないし,価値のないものではないが,さらに人間生活に必要とされたのが,フィリアすなわち「人情,友愛」の愛である.アリストテレースによれば,フィリアとは,「友人にとって善となることを自分も喜び,互いの精神が共通の価値を目指して励まし合う,良き人々同士の関係」である.このフィレオー/フィリアは人間関係一般において用いられる温かさのこもった親愛の表現であるが,その基本に「価値への賛同による結合」という意味がある(マタイ10:37,ヨハネ11:3,36,15:19,21:15‐17,Ⅰコリント16:22,ヤコブ4:4).これらの「自己愛」や「人道的・感情的な愛」とは別に,新約聖書中で特別な意味を与えられ,用いられている言葉がアガパオー/アガペーである.<復> (2) アガペーの意味.旧約聖書中のアーハブ/アハバーのほとんどが,70人訳ではアガパオー/アガペーに訳されていることは先に述べたが,この言葉の語源については確かでなく,また意味も明確ではなかった.それは「何かに満足する」とか「迎える」「あいさつする」という意味で用いられ,同等の者同士の友情や同情を表す言葉であったらしい.ところが,聖書中では新しく明確な意味が与えられた言葉であると言えよう.一般に「神的愛」と呼ばれ,人間に対する神の自由な選びの愛,慎重な愛を意味するが,用例は,人が人に対する愛(マタイ5:43,44,ヨハネ13:34,35),人の神に対する愛(マタイ22:37,Ⅰヨハネ2:5,4:20),人のキリストに対する愛(ヨハネ8:42),神の人に対する愛(ヨハネ3:16,ローマ5:8,8:37),神のキリストに対する愛(ヨハネ3:35,17:26),キリストの人に対する愛(マルコ10:21,ヨハネ13:1,ローマ8:35),キリストの神に対する愛(ヨハネ14:31)など多様であり,動詞形では120回以上,アガペーという名詞形では100回以上用いられている.<復> ところで,アガペーの愛は,「愛される者のうちにその理由が見出され得ない愛」とか,「愛される価値のない者を愛する愛」とか言われるが,愛する側の態度は,「汝は愛する価値あり」と断定する主体的な価値判断の動作を意味する.この主体的な価値判断という愛は,神の人間に対する自由で慎重な選びの愛において始まったと言える.私たちが人々の目に価値のない者として映っても,神は私たち一人一人を尊重し,「価値ある者」と認めて下さった,ということである.このような神の愛は,神への反逆と罪の汚れの中にある人類に対し,イエス・キリストを通して具体的に現されたのである(参照Ⅰヨハネ4:9,10).神の愛はキリストによる贖罪と,キリストを信じる信仰者の救いの確かさという点において明らかにされており,このことは神のアハバーとヘセドゥにさかのぼることができると言えよう.神は人類の救いのために慎重に考慮し,計画して御子イエス・キリストを立てて下さった.また御子を信じる者たちをあらかじめ定めて下さった(エペソ1章).そして私たちにイエス・キリストを信じる具体的な信仰を与えて下さり,その信仰に基づいて神は御自分の約束を誠実に果し,私たちの罪を赦し,神の子としての祝福にあずからせて下さるのである.<復> 自足自存の神が世界を創造し,その中を被造物で満たされたということの中に,神の始源的・創造的な愛があり,創造の冠である人類の堕落に対して救いと回復のわざを担われたキリストの中に,神の再創造の愛,不変の愛を見ることができる(参照ローマ5:6‐8).<復> (3) キリストの愛.神の御子キリストは,私たちの救いのために,自ら進んでいのちをお捨てになった.これは報酬を求めないどころか,自分を犠牲にする愛であり(マタイ20:28),また十字架の上で発せられた祈りは,敵を赦し愛する言葉であった(ルカ23:34).さらにキリストは,律法を神への愛と人への愛に要約し(マタイ22:37‐40),自らが律法の成就者であることを示された(マタイ5:17)が,パウロが「愛は律法を全うする」(ローマ13:10)と述べたことは,キリスト御自身のうちに完全な形で見られたことであった.従って,キリストが私たちに与えられた「互いに愛し合うように」(ヨハネ13:34)との新しい戒めは,「人間に対する人間の愛ではなく」「キリストにある人間の愛」「私たちに対するキリストの愛のような愛」をもって互いに愛し合うことを命じている.<復> ところで,黄金律として知られるキリストの言葉,「何事でも,自分にしてもらいたいことは,ほかの人にもそのようにしなさい.これが律法であり預言者です」(マタイ7:12)に対して,ユダヤ教のタルムードには,ヒレルの言葉として,「何事でも,自分にしてもらいたくないことは,他の人にもしてはならない」というのがある.タルムードによれば,ある時ヒレルのところへ一人の外国人がやってきて,「私が片足を上げている間にトーラーの教えを全部私に教えることができたら,ユダヤ教に改宗しよう」と挑戦した時にヒレルが答えた言葉がそれであったと言う.「否定的な黄金律」と言われているが,キリストの言葉は「積極的な黄金律」であり,神と人への積極的な愛を促すものである.キリストの積極的な愛は,キリストと教会の関係を通して結婚関係の奥義を教え(エペソ5:22‐33),愛の賛歌を生み出す(Ⅰコリント13章).<復> (4) 信仰と愛の関係.このように,キリストにある者は,神に対しても人に対してもキリストの愛を示す新しい生活に入れられるのであるが,特にパウロが愛を尊び(Ⅰコリント13:2),愛を最高のものとし(13:13),愛を追い求めるように(14:1)と勧めていることに注目する時,一つの大切な点に気付く.それは,信仰と愛との密接性・連続性である.パウロがアガペーを人に対するクリスチャンの愛の意味で用い,神に対する愛の意味ではほとんど用いていないということに,アウグスティーヌスは驚きをもって気付いていたと言われる.なぜアガペーが神に対する愛の表現としてパウロによって用いられなかったのか,という問題の答として,スネイスは,「人間の神に対する愛は,神からの愛と同じでは有り得ず,神の愛に対する応答に過ぎないからアガペーを用いなかった」というニグレンの言葉を引用し,さらにアガペーに代る言葉としてパウロがピステューオー/ピスティス(信じる・信仰)を用いていると説明する.<復> キリストによる神からの愛は信仰者に神への信頼と確信を生み出させ,この神への信仰・確信・完全な信頼が,人に対する具体的な愛となって現れると言えよう.パウロが「信仰・希望・愛」と言う場合,それは断絶したものではなく,愛へと続く信仰であり,信仰に基づく愛である.「この命令は,きよい心と正しい良心と偽りのない信仰とから出て来る愛を,目標としています」(Ⅰテモテ1:5)という言葉や,特に「キリスト・イエスにあっては,割礼を受ける受けないは大事なことではなく,愛によって働く信仰だけが大事なのです」(ガラテヤ5:6)という表現は,愛が信仰に基づくものであること,神への信仰こそが正しい愛を生み出すものであることを示している.「愛によって働く信仰」とは「愛を生み出し,愛という具体的な形を現す信仰」ということであって,「愛が生み出す信仰」ではない.この順序は大切である.人の愛はエロースでありストルゲーであり,フィリアであり,そして邪悪な愛は邪悪な信仰を生み出すことが常だからである.この信仰と愛の関係は,信仰と行いの関係が「信仰の行い」(ヤコブ2:14以下)であることを理解すれば当然のことと言えよう.<復> 3.教会の歴史における愛.<復> 三位一体論を愛の原理によって説明しようとした最初の人物はアウグスティーヌス(354—430年,「三位一体論」)であり,彼に続く人物はヴィクトル派のリカルドゥス(?—1173年)である.<復> アウグスティーヌスによれば,父なる神は御子を愛し,御子は父を愛し,その両方の愛が一つに結ばれて生み出したのが聖霊であるとした.しかし,聖霊は神の単なる産物ではなく,神存在の一要素でもあるから,この説明では十分ではなく,また三位一体の人格性を明確にすることもできない.それにもかかわらず,アウグスティーヌスが聖霊を愛の原型と考え,人は心に注がれる聖霊によらなければ神と人とに対する愛を持てないと強調し,聖霊はキリストを信じることによってのみ与えられると述べて,ローマ5:5を頻繁に引用している点を見逃すことはできない.彼は聖書全体の終極目的が神の愛を現し,神への愛を燃え立たせることであると強調するあまり,聖書解釈が詳細な点で聖書の原意からはずれていても,それは「道を踏みはずしながら,その道が達するのと同じ所に,畑を通って行くような誤りにすぎない」としてあまり意に介さないのであるが,このように愛を聖書の中心的な主題とする考え方から,信仰者は自分の信仰を愛という目的にかなうよう形成しなければならない,という理論が出てくる.愛が完全な真理に先行する,という彼の考えは,トマス・アクィナス(1225—74年)の「愛によって形成せられる信仰」へと受け継がれていくのである.トマスは恩恵の注入を強調し,この恩恵の注入は瞬時になされ,罪人には意識されないので,救いの確信は「良きわざ」によってのみ確認される,従って信仰生活の中心を占めるのは信仰ではなく愛と善行である,と言う.完全な信仰は愛と一体を成しており,その愛の真偽は神の律法にかなう善行であるかどうかで判断される.そしてこの神の律法にかなう善行という考えから「功績」思想が生み出された.このスコラ学の考えに対し,「信仰によって形成せられる愛」を強調したのはルター(1483—1546年)である.自身の信仰生活の純粋性に対する苦悩と戦いから,ついに「信仰によってのみ義とされる」との聖書理解と自己の救いの確信を与えられたルターにとって,純粋な愛とは罪人に対するキリストの愛であり,そのキリストへの信仰こそが真の愛を生み出し,支えるのであると理解された.すなわち愛よりも信仰が基本であり,愛が信仰を支えるのではなく,信仰が愛を支え,完成させるという主張である.同様の理解はジャン・カルヴァン(1509—64年)によっても繰り返し強調されていることであるが,例えば『キリスト教綱要』2:16:1—4では,キリストにある救いが神の驚くべき先行的な愛に基づいていることが述べられ,パウロの言葉(エペソ1:4)とアウグスティーヌスの説明が引用されている.<復> このように教会の歴史の中では,アウグスティーヌスに始まった愛の神学的な理解は,ローマ教会を経て宗教改革者によって明確にされたのであるが,人間愛への要求と神への愛の要求や性愛と倫理的愛の対立の問題は,その後もキリスト教的風土の中で,あるいは宗教から離れた世界の中で様々に扱われてきており,パスカルやキェルケゴール,ニーチェ,フロイト,フロム,マルクーゼ,ブーバーなどの名を挙げることができる.<復>〔参考文献〕N・H・スネイス『旧約宗教の特質』日本基督教団出版局,1964;『ブリタニカ国際大百科事典』TBSブリタニカ,1988;アウグスチヌス『教えの手ほどき』創文社,1964;カルヴァン『キリスト教綱要』新教出版社,1962—65;Theological Dictionary of the Old Testament, Vol.1, Eerdmans, 1976.(富井悠夫)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社