《じっくり解説》救いの秩序(Ordo Salutis)とは?

救いの秩序(Ordo Salutis)とは?

救いの秩序(Ordo Salutis)…

1.「救いの御計画」と「救いの秩序」.<復> 両者は一般に区別されている.前者は,永遠的次元における「選び」,「贖いの契約」,歴史的次元における「贖いの成就」,個人的次元における「贖いの現実的適用」を含む包括的概念である.しかし後者は,「贖いの現実的適用」に限定される.<復> 2.救いの秩序.<復> 贖いの適用は,ただ一つの行為ではなく,一連の区別することのできる行為と過程とを含む.それには一定の順序または配列が見られる.例えば,ローマ8:30に,「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し,召した人々をさらに義と認め,義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」と記されている.ここには,召命,義認,栄化が順を追って述べられており,贖いの適用には一定の順序があることを明示している.聖書の組織神学的研究によって知り得る贖いの適用の要素とその順序とは,有効召命,再生,信仰と悔い改め,義認,子とすること,聖化,聖徒の堅忍,キリストとの結合,栄化の順で述べることができる.<復> (1) 有効召命.<復> a.召命と再生との関係.罪によって死んでいる人は再生されない限り,召命に応えることはできないので,論理的には,再生が召命に先行すると考えられないこともない.しかし,聖書の陳述からは,有効召命が贖いの適用の最初の段階であると考える十分な理由がある.<復> ① 有効召命は,罪人をキリストとの交わりに入れるための行為である(参照Ⅰコリント1:9).この召命は,人の耳にだけでなく,心に働く神の恵みである.そして,この召命が人の心の中で働く救いの恵みの始まりが,再生である.<復> ② 有効召命は神の主権的行為であるので,神は主権的に,人に召命にふさわしい応答をさせられる.それは,罪人を再生させることによってなされるのであるから,召命・再生・応答の順で続いていると言える.<復> ③ パウロは,ローマ8:30で,贖いの過程の最初に,再生ではなく召命を持ってきている.<復> b.普遍的召命と有効召命.神の召命は,普遍的召命(または外的召命)と有効召命(または内的召命)とに区別される.例えば,イエスが「招待される者は多いが,選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)と言っておられる場合の召命は,普遍的召命のことである.しかし,新約聖書が,特に救いに関して「召命」という用語を用いている場合は,ほとんど一様に,有効召命のことを意味している(参照ローマ8:30,Ⅰコリント1:9,Ⅱペテロ1:10).これは神が主権的に,実際に人を救いに導き入れる召命である.<復> c.有効召命の行為者.それは,父なる神である.父なる神は救いの計画の立案また選び以外の働きはしていないかのように思われやすいが,贖いの現実的適用の場においても,その発端的行為者として関係しておられる.例えば,パウロが「あらかじめ定めた人々をさらに召し」(ローマ8:30)と言っている時,あらかじめ定められた方が,同時に召したもう方であることは明白である.そして,それは父なる神であることも文脈から明らかである.また,パウロが「その方のお召しによって,あなたがたは神の御子,私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました」(Ⅰコリント1:9)と言う時,召された方は御子とは区別されているから,父なる神である(参照ガラテヤ1:15,エペソ1:17,18,Ⅱテモテ1:9).<復> (2) 再生.<復> a.再生の必要性.召命には召された者の側のふさわしい応答が伴わなければならない.しかし,人は罪によって死んでいるので,神の召命にふさわしい応答をするためには再生されなければならない.<復> b.再生の二つの面.イエスはニコデモとの対話において,「人は,新しく生まれなければ,神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3),また「水と御霊によって生まれなければ,神の国にはいることができません」(ヨハネ3:5)と言われた.<復> ① きよめの面.「水」は宗教的意味のきよめを象徴的に示しているもので,「水から生まれる」とは,神の国に入るのは,罪の汚れがきよめられることによってのみ可能であることを意味する.<復> ② 再創造の面.「御霊から生まれる」とは,聖霊による超自然的出生を意味する.自然的出生が全く両親の行為に依存しているように,霊的出生も全く聖霊に依存している.これは,新しい命を造り出す再生の「再創造の面」である.「きよめの面」と「再創造の面」とは,罪人が御子との交わりに入れられるにふさわしい者にされる変化の二つの面である.<復> c.再生と他の恵みとの関係.再生されなければ,信仰と悔い改めという回心は起らないので,論理的には再生は回心に先行する.しかし,再生されてもすぐに回心するとは限らないと,二つを時間的に切り離し得るものとして考えてはならない.聖書は,再生とそれによって生じるもろもろの実とが併存することを教えている.例えば,神から生れることは,義を行うこと(参照Ⅰヨハネ2:29),罪を犯さないこと(参照Ⅰヨハネ3:9),愛(参照Ⅰヨハネ4:7),信仰(参照Ⅰヨハネ5:1),世に勝つこと(参照Ⅰヨハネ5:4),悪い者が手を触れることがないこと(参照Ⅰヨハネ5:18)と併存している.それゆえに,これらの実は,単に遅かれ早かれ再生に続いて生じてくる結果ではなく,再生とは切っても切り離すことのできないものである.再生した人は,罪の中に生活することも,回心せずにいることも,どっちつかずの中立の状態で生きることもできない(参照Ⅱコリント5:17).<復> (3) 信仰と悔い改め.これは,再生から生じる実である回心の二つの要素である.再生は神の独占行為であるが,回心は人間の側の行為である.<復> a.信仰の三つの要素.(1)キリストを知る知識,(2)知るだけでなく,それが真実であり,キリストは自分の救いのために必要かつ十分な救い主であることの確信,(3)そのキリストに自己をゆだねる信頼である.<復> b.信仰と悔い改めの順序.一方が他方に先行すると言い張ることは徒労である.救いに至る信仰は罪を悔いる信仰であり,命に至る悔い改めは信仰による悔い改めである.信仰とは罪から救われるためにキリストを信じることであるのを覚えるならば,信仰と悔い改めとが相互に依存することは,容易に理解することができる.信仰は罪からの救いに向けられているのであるから,罪に対する憎悪と,罪から救われたいという強い熱望がなければならない.このような罪に対する憎悪は,罪から神に立ち返る悔い改めを内蔵している.悔い改めが罪から神に帰ることであるのならば,悔い改める者を受け入れてくださるという,キリストにおいて啓示された神のあわれみを信じる信仰がなければならない.<復> (4) 義認.<復> a.義認の性質.<復> ① 宣言的行為.義認とは,人を善良な者に造り変えることを意味していない.裁判官が,法廷で,被告に無罪であると法律上の身分を宣言または宣告する行為である.<復> ② 構成的行為.義認は,神が裁判官として無罪判決の宣言をする行為であるだけでなく,無罪という法的身分を作り出し,構成される行為である,「ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」(ローマ5:19).<復> b.義認の根拠.神が罪人に義人としての法的身分を作り出されるのは,キリストの義を罪人に転嫁することによってである.それゆえに,義認の根拠はキリストの義であって,人の信仰でも行いでもない.<復> c.義認と信仰との関係.義認の恵みは神の行為であるが,この恵みを受ける者の側に要求されているのは信仰のみである.信仰のみが義認と関係づけられているのは,信仰の有する特徴が,「もらう」また「より頼む」ということにあるからである.具体的に言えば,信仰とは,キリストの義をいただき,それにより頼む行為である.<復> (5) 子とすること.<復> a.その性質.子とすることは,義認と同様に,身分や地位を与える行為であって,人の内面に新しい性質を生じさせる行為ではない.義認は,神の法廷で法的身分を宣言する行為であるが,子とすることは,神の家で家庭的身分を与えることである.それは,あくまでも関係概念である.<復> b.聖霊との関係.子とされている人には,御子の御霊が与えられている.しかし,御子の御霊が子とするのではなく,子とされた結果,御子の御霊が与えられるのである,「あなたがたは子であるゆえに,神は『アバ,父.』と呼ぶ,御子の御霊を,私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラテヤ4:6.参照ローマ8:15,16).<復> c.再生との関係.子とされる者には子にふさわしい性質がなければならない.それゆえに,再生は子とされる必要条件であるが,再生されること即,子とされることではない.<復> d.子とすることの意味.<復> ① 養子.英語のAdoption(養子縁組)という用語からも明らかなように,無縁の家族から神の家族に養子とされる行為である.被造物であるだけでなく罪人である者が,聖なる神の家族に養子とされるということは,全く神の恵みの行為であって,人の側から要求するようなことは決してできない.<復> ② 父なる神の子.子とされるとは,三位一体の第一位格の父なる神の,子とされることである.しかし,神の第二位格が第一位格に対して御子と呼ばれているのと同じ意味で,子とされるのではない.このような意味では,人間も天使も聖霊でさえも神の子とは呼ばれない.しかしまた,神は万物の創造者(父)であるから,その意味で被造物である私たちは神の子とされるということでもない(参照使徒17:28,29,ヘブル12:9,ヤコブ1:18).罪人の贖い主と贖われて養子とされた者という,特殊な限定された関係で,贖い主である父の子とされるということである.イエスはマグダラのマリヤに「わたしの兄弟たちのところに行って,彼らに『わたしは,わたしの父またあなたがたの父,わたしの神またあなたがたの神のもとに上る.』と告げなさい」(ヨハネ20:17)と言われた.ここには,イエスと父との関係は,イエスの弟子たちと父との関係とは区別されて同じものではないことが示されている.それとともに,イエスの父と弟子たちの父とは同一であることも示されており,また「あなたがたの父」と限定することによって,すべての人の父ではないことも示されている.<復> (6) 聖化.聖化は,有効召命,再生,義認,子とすることと密接に関係しているが,特に深い関係を持っているのは召命と再生とである.<復> a.決定的聖化([英語]Definitive Sanctification).有効に召され,再生されて,キリストに結合されている人は,罪に対して死んだのであり,古い人はキリストとともに十字架につけられて,罪のからだは滅んだので,罪はもはや支配することがない(参照ローマ6:2‐6,14).この意味の聖化は,罪に対して一回で達成される決定的勝利である.罪の力と罪への愛着からの根本的な絶縁である.キリストにあってキリストとともに死んでよみがえった者は,根本的には罪から解放されており,罪はもはや彼の上に支配権をふるうことはない.<復> b.漸進的聖化(Progressive Sanctification).決定的聖化は,信者の心と生活から,実際に罪が一切除去されたということを意味するのではない.罪は,決定的な敗北を喫したのでもはや支配権を持ってはいない.しかしなお信者の中に残住しているので,信者の心と生活においては,罪との戦いが続けられる.信者はキリストのかたちに似る者になるまで漸進的に聖化される必要がある.<復> c.聖化の行為者.<復> ① 聖化を行う者は聖霊である.聖書の聖化の働きは神秘的なもので,人は聖霊の内住の状態を知ることはできないが,聖霊の働きは人の知性,感情,意志を含む意識生活の領域に具体的に現れてくる.しかし,人の理解や経験の尺度をもって聖霊の働きをはかることはできない.また,外に現れてきているものだけが聖霊がしている働きであるのでもない.<復> ② それは父またキリストの御霊としての聖霊である.聖化は聖霊の働きであるが,それはキリストの御霊としての,またキリストを死人のうちからよみがえらせた父なる神の御霊としての(参照ローマ8:11)聖霊の働きである.聖化の過程は,その開始に当っても,継続過程においても,キリストの死と復活とに依存している.聖化は,キリストの死と復活に基づいて主から与えられる効力と力とによって進められる.<復> d.聖化の手段.聖化は聖霊の超自然的働きであるが,同時に,信者の努力ともかかわりを持っている.「恐れおののいて自分の救いを達成してください.神は,みこころのままに,あなたがたのうちに働いて志を立てさせ,事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:12,13).ここで言っている救いとは,終末的観点から見た救いである.ここでの,信者の働きと神の働きとの関係は,それぞれがお互いの役割を果すといった協働的関係ではなく,神が働きかけられるゆえに信者が働くという形のものである.信者の側でなされるすべての努力は,あくまでも信者のうちに働く神の働きによって生じる実である.<復> (7) 聖徒の堅忍.これは,信者はどんなに罪また不信仰に落ちようとも,それとは関係なく,永遠の救いが保証されている,という教理ではない.信者は罪を犯すことはあるし,時には,ひどい罪に落ち,長い間そこにとどまることもある.しかし,真の信者であるなら,自己を全く罪に明け渡して全く罪の支配に任せてしまうことはできない.聖徒は,最後まで堅忍する.そして,最後まで堅忍する者のみが聖徒なのである.彼が最後まで堅忍するのは,最後まで堅忍するように神によって定められ,備えられているからである.聖徒の堅忍の教理は,神の無条件的予定の教理から必然的に生じてくるものである(参照ヨハネ6:27,29).<復> (8) キリストとの結合.<復> a.その範囲.キリストとの結合は,本来は非常に広範囲で包括的なものであって,単に贖いの適用の一段階に限定されるものではない.キリストとの結合は,新約聖書では,「キリストにあって」という簡潔なことばで表現されている.父の永遠の選びは「キリストにあって」なされており(参照エペソ1:3‐5),救いが神の民に確実なものとなったのは,キリストが十字架で贖いを成就された時に,彼らが「キリストにあった」からであり(参照ローマ6:2‐11,エペソ1:7,2:4‐6,コロサイ3:3,4),神の民が新しく造り変えられるのも(参照エペソ2:10),キリスト者の生活が導かれていくのも(参照ローマ6:4,Ⅰコリント1:4,5,Ⅱコリント6:15‐17),信者の死も(参照Ⅰテサロニケ4:14,16)「キリストにあって」であり,そして,この結合は死においても中断されず,死んだ信者の体は「キリストにあって」墓の中で休むのであり,最後に,神の民が復活し,栄光にあずかるのも「キリストにあって」である(参照Ⅰコリント15:22,ローマ8:17).このように,キリストとの結合は永遠の広がりを持っている.<復> b.贖いの適用としてのキリストとの結合.キリストとの結合は,贖いの適用の重要な面の一つである.贖いが有効に適用されるまでは,実際にキリストに結合される者にはならない.キリストとの交わりに有効に召されるまでは,キリストとの交わりを味わい知るようにはならない.<復> c.その性質.<復> ① 聖霊による結合.キリストと結合されるのは聖霊によってである.<復> ② 霊的な結合.キリストとの結合は,目に見えない霊的な性質のものである.しかし,神の三位格の間に,または,キリストの一位格二性間に,または,人間の霊魂と肉体との間に見られるのと同じものではない.それは,人の定義能力を超越した結合である.<復> ③ 神秘的結合.神秘的という言葉は,理解できない,知り得ないという意味によく用いられるが,ここでは,聖書の「奥義」([英語]Mystery)と同義的に解すべきである.奥義とは,神の内に隠されていたものであるが,神が啓示してくださったので,知られ,認められるようになった事柄を意味する.キリストとの結合も,隠されたままで全く知り得ないものではなく,人の意識生活の中に現されてきて知られ得るものである.<復> d.その比喩的表現.キリストとの結合は,神の三位格の間の結合と比べられている(参照ヨハネ14:23,17:21‐23).また,建物の礎石と他の石(参照エペソ2:19‐22,Ⅰペテロ2:4,5),アダムとその子孫(参照ローマ5:12‐19,Ⅰコリント15:19‐49),夫と妻(参照エペソ5:22‐33,ヨハネ3:29),人の体の頭と他の部分(参照エペソ4:15,16),ぶどうの木とその枝(参照ヨハネ15:1‐11)の関係になぞらえて教えられている.しかし,類似点はあっても同一視することはできない.キリストと信者との結合は,神の三位格の間の結合のレベルに引き上げてはならないが,また,他の関係に見られる結合のレベルに引き下げてもならない.<復> e.キリストとだけの結合ではない.父は御子におられ,御子は父におられるので(参照ヨハネ17:20,21),キリストに結合されるなら,父とも結合されることになる.これは,聖霊についても同じことが言える(参照ヨハネ14:16).キリストと結合している者は,キリストが結合しておられる父と聖霊とも結合されているのである.<復> (9) 栄化.栄化は贖いの現実的適用の過程の最終段階であり,この過程を完成させるものである.栄化とは,信者がその死に際してあずかる祝福のことを言っているのではない.その魂は完全にきよめられて天にあっても,信者はまだ死そのものから解放されていない.栄化が目指しているのは,この死の破壊であり,死が勝利にのまれてしまうことである(参照Ⅰコリント15:54,55).この栄化が目指している肉体の復活は,神の民全員が同時に,一緒にあずかるものである(参照Ⅰテサロニケ4:16,17).<復> a.栄化とキリストの再臨.栄化は,栄光に満ちたキリストの再臨と関係し,それと密着している.栄化はキリストとともに栄光にあずかることであるので(参照ローマ8:17),キリストの栄光の出現なしには全く意味を持たなくなる.<復> b.栄化と被造世界.栄化は,被造世界全体の更新と関係し,それと密着している.滅びの縄目から解放されなければならないのは,信者だけでなく,被造世界全体である(参照ローマ8:21,Ⅱペテロ3:13).→召命,再生,信仰,新生,義認,義,聖化,栄化.<復>〔参考文献〕J・マーレー『キリスト教救済の論理』小峯書店,1972;Berkhof, L., Systematic Theology, Eerdmans, 1978 ; Murray, J., Collected Writings of John Murray, Vol.2, Banner of Truth, 1978.(松田一男)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社