《じっくり解説》悪とは?

悪とは?

悪…

1.用語.<復> 旧約聖書では,駄目にする,粉々に砕けて無価値となる,という語源を持つ[ヘブル語]ラー,新約聖書では,その本質が悪いことを意味する[ギリシャ語]カコスと,悪が及ぼす害また影響を意味する[ギリシャ語]ポネーロスが多く使われている.「悪」ということばには,表現的な要素と,描写的な要素の二つがある.前者は,行動や状況や人などを非としたり,好まないという感情的反応を述べる(伝道者2:21,9:3,10:5).後者は,不幸または災い(創世44:34),自分の生命,評判へ及ぼす害や脅威(エゼキエル14:21,ヤコブ3:8),正常の基準から外れていること(マタイ7:17,18),さらには背教や偶像崇拝(民数14:33‐35)などを語り,外的な行動だけではなく,心の中の状態をも示す(マルコ7:21).「悪」という用語は,旧新両約において数多く記されているが,これは聖書記者たちが悪の存在を十分認識し,また真剣に考えていることを意味している.<復> 2.定義.<復> 悪とは善の反対,不道徳なこと,法律に違反すること,などと通常は定義するが,それだけでは十分とは言えない.なぜなら,悪は善と対応する価値の概念であり,ある実体というよりは,関係的に見る必要があるからである.悪は常識的な見解以上の内容を持っているため,一言で定義すること自体が難しい.悪は単に哲学的,倫理的な意識で取り上げられるものではなく,必然的に神そして信仰と関係する問題となってくるからである.聖書には悪のリストとして,病気,不安,困難,腐敗,敵意,不正,圧制,悲しみ,恐れ,苦悩,労苦などが挙げられている(詩篇25:17,18,Ⅱコリント11:23‐27).<復> 3.悪の問題.<復> 「この世界の中の悪の存在は,神と被造世界との関係を考える時に,人間の直面するあらゆる問題のうちで常に最大のものに違いない.いつ悪は存在するようになったのか.なぜ悪はあるのか.神が善であるなら,なぜ神は悪が存在することを許容されたのだろうか.全能であるなら,なぜわれわれを重荷から解放されないのだろうか」(Pike, N., God and Evil, pp.62—3).この問に示されているように,悪の問題はいろいろな角度から論じられてきた.この世の様々な悲劇は,確かに悪しき者たちによって引き起されてきたとはいえ,もし神が存在するとしたら,なぜ多くの人たちを見殺しにされたのであろうか,と言う者や,神の沈黙,不在,さらには死さえも語る者も出るに至ったのである.悪の存在は,特に神を信じることを困難にさせる有力な原因であるとの考え方もあり,さらに一歩踏み込んで,神の存在を悪の問題から公然と否定する無神論が,幾つかの観点から,有神論へ挑戦してきている.<復> (1) 無神論.<復> a.悪の問題を解決できないような有神論や宗教は,その教義を主張するのに値しないのであり,すべての神学的・宗教的体系は欠陥を持つ,と言うもの.<復> b.ある特定の神学的体系がその内部に自己矛盾を持っているとし,その体系を否定するために問題とするもの.すなわち,愛に富む全能の神がもし存在するなら,悪の存在をとうてい正当化することはできないはずであり,従って特定の信仰における神は存在しない,と主張する.<復> c.悪の存在が現実であることから,いかなる形においても神の存在を否定する立場.<復> このように,無神論者たちが悪の問題から神の存在を批判する時には,神御自身に対してというよりは,神についての神学的な認識への攻撃であることが多い.もしも神認識が正しくないということを無神論側が証明できないとしたら,悪の問題をもって神の存在を否定する論議は,誤りと言わなければならない.世界の中の悪の状態を合理主義的に考える前に,神の存在を受け入れているなら,悪の問題は危機的と言うほどの重要性を持たないものとなる.<復> (2) 有神論.無神論と並んで有神論の立場からも,罪との関係で神の愛や全能に対する幾つかの疑問が出されている.<復> a.神の全能を拒否する有限説.これは神の全能の概念を放棄する考え方で,マニ教などに見られ,神と相対立する悪が存在し,神はそれを克服しようとするができない,と言うのである.一見,問題を解決したように思えるが,神の全能と善とを疑うという高価な犠牲を払うことになる.<復> b.神の善の修正説.神は万物の究極的な起源であり,神のみが永遠,全能かつ主権者である.この立場は,神は罪の創始者ではないが罪の究極的な起源であり,しかし罪の直接的な原因ではない,と言うのである.神は罪を犯さないが,人間が犯すのであり,神はそれを聖定として意図される,というもの(例:イスカリオテのユダ).この見解は,神の善を定義し直している.<復> c.悪の現実性を否定する説.神の全能と悪とは共存しないとして,悪の現実性を否定する考え方で,汎神論の中に(例:スピノーザ),またクリスチャン・サイエンスの教義にも見出すことができる.現実の生活に存在する多くの悪を見る時,この見解は誤りであると言わざるを得ない.神学的には,これらの考え方は,もし悪が現実であるなら神は善ではないし,もし神が善であるなら悪は現実ではない,という考え方を前提としている.聖書はこの両者の立場のどちらをもとらず,仮説的な前提を認めない.唯一の神は存在され,悪もまた現実であることを,聖書は確証しているのである.<復> 4.起源.<復> 悪の源はどこにあるのだろうか.この問に対して,他宗教では,大小の不幸や苦難を悪魔の世界や神々の怒りから来るものとし,その移り気に悪の原因を帰するかもしれない.言い替えるなら,宇宙の究極的な構成要素として善と悪があり,後者を悪の源とすることにより問題の解決を図ろうとする,二元論的立場である.しかし聖書の徹底した唯一神論の根本にあったのは,二元論の拒否ということであり,神に反抗する悪を究極的な存在としてではなく,やがて宇宙より排除されるべきものと見なしている.<復> この悪の問題に対してその生涯を通じて文字通り苦闘したのがアウグスティーヌスであった.様々な形態の悪と善の混在する現実の世界で,悪とは何か,どのようにして悪から解放されるのか,と苦悩した末,物質は悪の根源であり,精神は善の根源である,というマニ教の二元論に引かれていったが,善悪二元の闘争はこの世の中においてはやむことはない,という事実を知らされて後,この教えから離れた.やがて新プラトン主義の哲学者プローティーノスの思想である「悪は,現実の世界に実在するのではなく,人間の心の中にあり,無知にある」という見方に影響を受け,ここから,善なる神によって創造された被造物の世界においては,悪なるものは絶対に造られることはなく,従って悪はない,といういわゆる「悪の非存在」の命題を主張した.もし悪があるとすれば,それは神の御心に背くという選択をしたよこしまな人間の意志のうちにあるとした.悪の起源は,神への不真実と,その命令への不従順を選択した自由意志の乱用にある,としたのである.悪から自分を救う力は絶対に人間にも他の被造物にもなく,キリストの贖いのみにあり,そのためには自らの意志を神に向け直すこと,すなわち回心が必要であることを,彼は認識したのである.アウグスティーヌスの悪の問題に関する思想に対しては,楽観的すぎるという批判が後世においてなされた.しかし悪の問題をただ指摘して神の存在を否定しようとすることに追われて,悪からの解放を示さなかった考え方よりは,彼の思想のほうがずっと深みを持っているのである.<復> 5.分類.<復> 悪は社会悪や政治悪や国家悪や必要悪とも呼ばれるが,通常は自然の悪と倫理的な悪の二つに大別される.<復> (1) 自然の悪とは,自然の秩序の活動する過程の中で起る悪を指す.すなわち人間の生命や財産に大きな損失をもたらす嵐,洪水,地震,竜巻,火山の噴火や(参照ヨブ9:17,イザヤ29:6),人間に耐えがたい苦痛と損失とを与える癌を初めとする多くの難病や先天性の肉体的障害や精神的欠陥,さらには数多くの寄生虫や害虫などである.預言者たちによると,痛みや苦難や災害などに現される悪の究極的な源は神にある,と受け取れるような表現もある(イザヤ45:7,アモス3:6).<復> (2) 倫理的な悪とは,道徳心を持った者の活動によって起る悪であり,神には関係がなくまた何らの責任もない.これは人間の自由の誤った選択と行動にその源をたどることができる.それらは利己心,ねたみ,貪欲,欺き,冷淡,残酷性などであり,さらに規模の大きさという点では,戦争,犯罪,階級闘争,人種差別,奴隷制度や種々の社会的な不正である.<復> 自然の悪と倫理的な悪とは,一応区別はされているが,密接な関係をしばしば持つ.自然の悪の多くは倫理的な悪の結果である(ローマ8:18‐22).しかし,日本を襲う台風が誰かの罪の結果であるとは言えないように,自然の悪のすべてが悪い行為への刑罰であるとは言えない.いずれにせよ,神のわざのすべては,これらの悪の処理のためになされているのである.神は,その主権のうちにこれらのことが世界に起ることを許容され,統治され,御自身の目的のために用いられるのである(創世50:20,ローマ8:28).<復> 6.問題の本質.<復> 無神論者は,有神論者がかかえる「神は善である」「神は全能である」「その神によって創造された世界に悪が存在する」という三つの前提を,内的な矛盾としてとらえて批判する.確かに当っている一面はあるが,それとともに重要な誤りがある.悪の本質の問題は単一的なものではない,ということである.それはまず第1に信仰的な問題である.すなわち,実際に具体的な悪を経験している人がいる時には,本人と神との関係に緊張が生じており,「神はなぜこのことが私に起ることを許されたのだろうか」「自分の前に問題が立ちはだかっているのに,それを取り除いてくれない神をなおも続けて礼拝できるか」という問いかけとなる.第2は神学的,哲学的な問題であって,すでに述べた倫理的な悪と自然の悪に関係している.この立場は第1の立場とは反対に抽象的であり,特定の悪についてでもなく,特定の個人の神との関係でもない.愛にして全能なる神によって創造された世界に,なぜ悪があるのか,という一般的な疑問である.第3には悪の強さ,程度,継続の問題がある.「神はなぜこれほどの悪をこの世界に必要とされるのだろうか.程度の低い悪で,神はその目的なり計画を果すことはできないのだろうか」「癌になるとなぜあのように苦痛が伴い,またそれが長く続くのだろうか」という叫びとして出てくる.第4には,意味も目的も持っていないように思われる悪の問題がある.一つの問題に対する解答は,他の問題に対しては当を得ない場合がある.例えば,癌患者が「なぜ自分はこうなったのか」と苦しんでいる時に,それは自由意志の乱用から来たのだ,と述べたとしたら,答にはならない.自由意志は,倫理的な悪に対しては適用されるが,この患者の場合には当てはまらないのである.つまり哲学的,神学的な悪の問題は,ただ一つではなく,幾つもあるのであり,それゆえにそれぞれにふさわしい解答が求められてくるのである.<復> 7.意味.<復> 悪は一体どんな意味を持つのだろうか.これは神の民にとっての実存的な問である.彼らを救い,祝福するという基本的な意図を,神が決して捨てることはない,という確信に立つ時,神の民は絶望に陥ることなく守られていた.その一方で「主よ.なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか」(出エジプト5:22)とのモーセの問のように,矛盾もまた感じていないわけではなかった.神が気まぐれに害を与える方でもなく,また矛盾が究極的なものでもない,と言い切るためには,次のような説明が必要であった.<復> (1) 報復.神の怒りと,その結果として人間が受ける害と苦難とは,正義による報復なのである(Ⅰ列王2:44).悪は究極的には,破壊する力や,無意味な運命の結果ではない.<復> (2) 懲罰.前者より積極的で,神の救いの意図の中に入っているのが,悪に悪をもって応える神による懲罰で,それは神の民への警告と悔い改めへの招きなのである(エレミヤ36:3).悪に直面する神の民に対して,慰めも与えられるのである(エゼキエル14:22).痛みや悲しみという形での神の″報復″は,神のうちに悪の感情があることを意味はしない.痛みは悪しき人の中に自分のありのままの姿を呼び覚す「恐ろしい道具としての神のメガホンであり」「悪が痛みという形で含まれていることを見出すまでは,人は,幻想のうちに閉じ込められている」のである(C・S・ルイス『痛みの問題』pp.120—1).キリスト者の受ける苦難は,問題であれ迫害であれ,霊的な祝福という目的のために神が許容されたことであり(ヤコブ1:2‐4,Ⅰペテロ1:7),訓練であって刑罰ではなく,神の愛から私たちを引き離すものでもなく(ローマ8:38,39),栄光への備えとなるものである(Ⅱコリント4:16‐18).苦難と悲しみは,お互いの中に思いやりの心を呼び起し,悪に打ち勝つという神の目的の中に共に導かれていくのである.<復> (3) 不義なる者へのあわれみ.ヨナの宣教でニネベの人々が悔い改めた時,「神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し,そうされなかった」(ヨナ3:10).契約の神は,悪に対しては悪をもって正当に報復されるが,その意図されることは常に救いにあり,それゆえ人類に対して,ただ報復的に臨まれるのではなく,あわれみをもって接せられるのである.これは悪に対して神の刑罰が及ばないことを意味しない.人間がとるべき態度は,悪を憎み,それから離れることである.<復> (4) 身に覚えのない者の苦難.悪に対する報復は,ただちに正しき者が遭う苦難という問題に直面する.これには神の義に対する疑いを抱かせる面がある.ヨブ記や詩篇73篇は,この点を詳しく取り上げてはいるが,正しき者がなぜ苦しみに遭うのか,という問は,Ⅰペテロやヤコブ1章やローマ5章などでも取り扱われている.ヨブのように神を恐れ,悪から離れていた者にとってはつまずきともなった.しかし神は人類に対して,創造主の前にへりくだるようにと招かれるのである.<復> 8.問題の全面的解決.<復> もし神が全能の方であるなら,悪の起るのを防ぐことができるはずである.もし神が善なる方であるなら,悪の起ることを望まれないはずである.しかし,悪は現実に世界に存在する.次に幾つかの解決策を挙げてみる.とはいえ,このことは人間の能力を超えたものであることを忘れてはならない.<復> (1) 人間の創造に必然的に伴うものとしての悪.自由意志を持つ存在として人間が創造されたことは,欲望と行動力を持つものであることを意味する.人間が神への不服従の道を選択した時,神との関係はゆがめられ,悪は現実のものとなり,大きな悪い感化が及ぶに至った.神が悪に陥る可能性を持たない世界を,なぜ創造できなかったのか,という質問がよくなされるが,神でない人間には答えられない.またなぜ神が悪をただちに根絶されないのか,と問われる.しかし,もし神がそうされたなら,万物は一瞬のうちに破壊されたに違いない.神は水,火,酸素などを造られたが,これらは人間の生命を保つとともに,誤用や乱用によっては死をもたらすものともなる.<復> (2) 特殊な罪の結果としての特殊な悪.ある種の特殊な悪は,特殊な罪もしくは慎重さを欠いた結果である.殺人,児童虐待,盗み,強姦などは,罪深い人間の罪深い選択の行使と結び付いた悪である.不幸を自動的にただちに個人のせいにすることは賢明ではない.生れつきの盲人を見た弟子たちの問に対して,主イエスは,「神のわざがこの人に現われるためです」(ヨハネ9:3)と答えておられる.また神が正しい人にも正しくない人にも日を照らし雨を降らせるように,不幸もまた同様に臨むということも覚えなければならない.<復> (3) 罪なき神の御子に対する最高の悪.悪に対する反応の深遠な変化が,罪なき者の代償的な苦難(イザヤ42,49,52,53章)の概念の発展につれて起きてきた.この苦難のしもべの歌は,来るべき救世主の時代について預言し,彼に臨む苦難をどのように見ているかを告げている.神の御子イエスは,神の使命に参加すべく召され,受肉して地上に来られた.主は飢え,疲れ,裏切り,あざけり,拒絶,苦難という,多くの悪を経験された.ただひとり罪のない方であるキリストを,不法な者の手によって十字架につけて殺した,という世界最大の悪こそが,実は悪の問題からの救済に対する神の最終的な解答であった.神は最高の愛を十字架の上で人類に対して現されたのである(ローマ5:8).神が御自分の上に罪とその悪しき影響を受けられた,というのが,悪の問題の解決に対するキリスト教教理のユニークな貢献なのである.神が悪の犠牲者となられることによって,われわれが悪に最終的に勝利することを可能にされた神の愛は,何と大きくすばらしいものであろうか.この福音によって変えられた人々の中で起きた道徳的な変革こそが,すべての悪の力に対するキリストの勝利の確証なのである(コロサイ2:15).新約の独自な点は,キリスト者に対して,十字架を負うキリストに倣う者として「だれに対してでも,悪に悪を報いることをせず」(ローマ12:17),また隣人に復讐することをやめるように勧めているところにある.その上で「悪はどんな悪でも避けなさい」(Ⅰテサロニケ5:22)と,妥協することなく,忍耐をもって悪と戦うように,と命じているのである.<復> (4) 死のかなたのいのち.この世にある限り,不義と無実の苦しみは絶えることがない.悪の問題は解決不可能のようにさえ思えるし,神秘として残る.この問題を合理的に最終的に説明し尽そうとするどんな試みも,過度の単純化か歪曲になることを免れない.しかし聖書は,死後の世界で大いなる審判の時があると告げている.すべての悪はやがて明らかにされる.神のさばきは全く公平であり,刑罰が下される.それとともに,神を愛する者すべてに永遠のいのちが与えられる.それゆえ,詩篇の記者(例73篇)が抱いたような,悪が栄え,正しき者たちが苦しむという不満は,死のかなたのいのちの光のもとに解決を見るのである.神の究極的な勝利によって,自然の悪も倫理的な悪も共に宇宙より永遠に除去され(黙示録21:1‐8),贖われた人間とともに,被造物は栄光の祝福を分ち合うのである(ローマ8:18‐23).その時の到来まで,われわれは「私たちを試みに会わせないで,悪からお救いください」(マタイ6:13)と祈り続けるのである.→善,世界・世,罪・罪論,悪魔論.<復>〔参考文献〕J・ヒック『宗教の哲学』培風館,1968;Erickson, M. J., Christian Theology, Baker, 1983 ; Pike, N., God and Evil, Prentice‐Hall, 1964.(伊藤淑美)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社