《じっくり解説》信仰とは?

信仰とは?

信仰…

1.「信仰」の定義.<復> これは,人間の知性の状態としての「信仰」の定義である.その目的は,宗教的信仰またはキリスト教的信仰に限定することなく,一般的に「信仰」という言葉によって表示されている知性の状態を分析して,それを明らかにすることである.それによって,特殊なキリスト教的信仰を正しく理解するのに役立つ土台を据えることができる.<復> 「信仰」とは,厳密な意味では,十分な理由または証拠に基づいて,出来事や事物や人物を真実であるとか信頼できると,確信していることを意味する.もし,それが「出来事」に関することであれば,その出来事は実際に起ったことであると信用することを意味している.それが「事物」に関することであれば,その事物を私たちの目的に役立つものであると信用して受け入れることを意味する.それが「人物」に関することであれば,彼を信頼できる者として信用することを意味している.しかし,出来事や事物や人物が,そのような知性の状態を生じさせるのではない.なぜなら,知性は,十分な理由または証拠によらなければ,ある出来事の報道を聞いても,必ずしも,それが真実であるとは判断しないし,事物や人物についても,必ずしも,それが役立つとか,信頼できるとは判断しないからである.それゆえに,「信仰」とは,十分な理由または証拠があるという判断によって決定づけられる知性の状態である.<復> しかし,以下のようなことがあり得ることは認められなければならない.<復> (1) 信仰は,論理的思考の結果として生じていないように見える場合がある.ある時には,この思考過程が自覚されないほどに急速になされているので,信仰が自然発生的に,直感的に生じたかのように思える場合がある.また,他の場合には,その思考過程は,いろいろの時にいろいろの方法で提供されてきた証拠に基づいて,長い期間にわたってなされてきたので,過去のことは忘れられてしまって,その過程を分析することはできなくなっていることもある.<復> (2) 知性は誤りを犯す場合がある.正当ではない証拠を正当な証拠であると信じる場合がある.しかし,ここでの「信仰の定義」で主張しているのは,私たちが「信じる」のは,意識的であれ無意識的であれ,急速にであれ,徐々にであれ,正当にであれ不当にであれ,私たちの知性が,十分な理由または証拠があると判断したからであるということである.<復> このような意味で,信仰とは証拠によって引き起された知性の状態であると言えるが,さらに進んで,「信仰」とは強いられる同意であるとも言える.なぜなら,十分な証拠があると知性が判断する時は,欲する欲しないにかかわらず信じざるを得なくされるからである.例えば,容疑者を真犯人と断定したいと思っていても,アリバイがあることがわかると,犯人ではないと信じざるを得なくなる.<復> 以上のことを要約すれば,「信仰とは,十分な理由または証拠があるという知性の判断によって引き出される,または,強いられる同意である」と言うことができる.<復> 上記の信仰の定義が正しいことを弁証するために,他の諸見解と対比してみよう.<復> (1) ロックの見解.ロックによると,信仰は意見よりも強く,認識よりも弱い信念である.いろいろの意見がある中で,相対的にこれが一番正しいと信じているという意味の信仰であって,絶対に正しいと信じる信仰ではない.しかし,信仰には絶対的確信という意味の信仰もあるので,ロックの定義は正しいとは言えない.<復> (2) カントの定義.意見とは,主観的にも客観的にも不十分な根拠に依拠している判断であり,認識とは,主観的にも客観的にも,十分な根拠に依拠している判断である.そして信仰とは,主観的には十分な根拠に依拠しているが,客観的には不十分な根拠に依拠している判断であると,定義している.しかし,客観的に十分な根拠のないところに主観的には十分な根拠があり得るだろうか.B・B・ウォーフィールドは,「客観的不適切性が認められるや否や主観的十分性は失われてしまう.もし客観的十分性という言葉を用いるなら,それは証拠の十分性に関する知性の判断にほかならない.不適切であると認められる根拠に基づいて信じることは,ちょっと考えただけでも,不可能である」(Biblical and Theological Studies, p.381)と言っている.信仰を確信よりも低く,また弱いものとして定義することはできない.<復> (3) 信仰の特徴を願望または意志という要素の中に見出す定義.<復> (a) 信仰は私たちの願望によって決定づけられるという見解.願望が判断に深い影響を及ぼすことは事実である.感情は,判断を激励することも,歪めることもできる.証拠でないものを証拠であると認めさせたり,十分でないものを十分であると見なさせたり,その逆のこともある.また,願望は私たちの理解を歪めたり,はっきりさせたりすることもある.<復> しかし,この定義の仕方に対しては,以下の二つのことが認められなければならない.①願望を含んでいない信仰がある.時には,私たちの願いに全く反することを信じざるを得ない場合がある.②願望が判断を歪めたり,はっきりさせたりしている時でさえ,信仰を引き起すのは願望ではなく,証拠に関する知性である.願望は判断に影響を及ぼすことはあるが,判断を生じさせるのは願望ではない.<復> (b) 信仰は意志によって決定づけられるという見解.これは先の見解よりも一般に流通している見解であって,信仰箇条は意志的決断の結果であるという意味で,信仰は意志的確信であるという主張である.ウォーフィールドはこの見解を説明して,「それは意志的確信,すなわち,知性に示された証拠によってでなく,願望または意志によって,真理であることが決定されている確信—この願望または意志は,ある主観的関心または価値考慮のことである」(「前掲書」pp.383—4)と言っている.認識は理論的根拠に依拠し,確信は実践的根拠に,すなわち,証拠にではなく価値考慮に依拠している.シュトラウスは,「敬虔な人が宗教的真理を受け入れるのは,それが彼の宗教的要求を満足させるからである」と言っている.<復> しかし,以下のことが認められなければならない.<復> ① 意志と判断との間には,密接な相互作用がある.証拠を受け入れることを欲しているか欲していないかは,判断に深い影響を及ぼす.時には,強い願望または意志が,証拠でないものを証拠として評価するように導く場合があり,また,その逆の場合もある.しかし,信仰は,意志によって強いられるのでなく,証拠が適切なものであるかどうかの判断によって強いられるのである.<復> ② しばしば,あることを真理であると仮定することが信仰であると考えられる.しかし,これは信仰という言葉の正しい用い方ではない.これは,前提,仮定,憶測,蓋然性,思惑であって,信仰ではない.<復> ③ 価値考慮は,信仰の有力な根拠となるかもしれないが,ただ,信じることによって得られる価値または利益のゆえに信じるということはあり得ない.私たちは,真理であることを願っていても真理であると確信できないことを,信じることはできない.価値考慮は,価値があると信じられる証拠があると判断されるまでは,信仰の根拠にはならない.<復> 以上のことから,「信仰とは十分な理由または証拠があるという知性の判断によって引き起される確信である」と言うことができる.<復> 2.キリスト教的信仰.<復> これはキリスト教の真理を信じる信仰であって,一般的信仰([ラテン語]Fides Generalis)と特別信仰([ラテン語]Fides Specialis)とに区別することができる.<復> (1) 一般的信仰.これは,聖書において啓示されている真理を信じる信仰である.もっと明白に言えば,「聖書は神のことばである」と信じる信仰である.それは,聖書は神のことばであるゆえに無謬の真理であり,神的権威を帯びている,という確信である.もしこの確信が感情だけによる軽々しいものではなく,真に信仰の範疇に属しているものならば,それは証拠に基づく知性の知的判断によるものでなければならない.すなわち,正当な根拠のある知的確信でなければならない.<復> その証拠は何であるのか.それは,どこにあるのか.この確信をキリスト教啓示以外の証拠に基づく合理的論証によって基礎づけることは,無用であり,無益である.このような合理的論証は,循環論証を避けるために必要であると思われるかもしれないが,聖書を対象としている信仰は,聖書以外の証拠によって生じさせることは不可能である.宗教改革者たちはこのことを知っていたので,聖書は聖書自身によって信じられるべきであるという原理を主張した.これは,聖書は自己認証的なものであり,聖書が神のことばであるという信仰を確証する証拠は聖書自身であることを意味している.すなわち,聖書は聖書自身のうちに聖書の神的起源,神的性質,神的権威についての証拠を持っているということである.この原理がどうして必要であるかは容易に知ることができる.もし聖書が神のことばであるなら,聖書はそのことを証明するしるしをもっているにちがいない.これは,見える被造物から引き出される,見えない創造者(主)なる神に関する論証と同じである.「神の,目に見えない本性,すなわち神の永遠の力と神性は,世界の創造された時からこのかた,被造物によって知られ,はっきりと認められるのであって,彼らに弁解の余地はないのです」(ローマ1:20).ちょうど,神の御手のわざであるもろもろの天が神の栄光を現し,創造者なる神をあかししているように,神の御手のわざである聖書は,神がその真の著者であることをあかししているにちがいない.言い換えれば,神の御手のわざのみが,神の御手のわざであることを認証する証拠であるということである.<復> しかし,もちろん,聖書以外にも証拠となるものがあり得ると考えることはできる.それは,聖書が神のことばであることを証明するために,神が,聖書以外になお続けて補足的特別啓示を与えられることもあるかもしれないということである.しかし,この仮定に関して覚えるべきことは,このような補足的啓示は,聖書にある証拠の必要性を排除しないということと,神はこのような補足的啓示は与えられなかったということである.その理由は明白である.聖書はそのうちに十分な証拠を持っているので,その必要はなかったのである.<復> もう一つの問題は,聖書は神のことばである十分な証拠があるのであれば,どうして,すべての人が聖書は神のことばであると信じないのかということである.すでに述べたように,証拠が信仰を生じさせるのではない.証拠が信仰を引き起す前に,判断によって証拠が評価されなければならない.だから,客観的には十分な証拠があっても,人は,主観的には,必ずしも,そのようには評価しないので,必ずしも,すべての人が信じるには至らないのである.ここで,罪人の「全的無能」の教理を思い起さねばならない.「生まれながらの人間は,神の御霊に属することを受け入れません.それらは彼には愚かなことだからです.また,それを悟ることができません.なぜなら,御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」(Ⅰコリント2:14).それとともに,「聖霊の内的照明」の教理を思い起さねばならない.聖霊の内的照明によらなければ,罪人は聖書にある十分な証拠も正当な証拠であるとは評価しない.それゆえに,聖書は神のことばであるという信仰を持つには至らないのである.<復> (2) 特別信仰.一般的信仰は,聖書は神のことばであるという信仰に関するものであるが,特別信仰は,罪人の救いと切り離し得ない関係を持っている信仰である.罪人を救うのは,聖書を信じる信仰ではなく,キリストを信じる信仰である.救済的信仰は福音の提供によって引き出され,また,それに応答する信仰である.福音は罪人に提供されているのであって,この福音は罪の自覚のない者にはアピールしない.福音は,キリストが罪人を救うことができる,また,救おうとしておられるということの十分な証拠を提供している.その証拠に基づく知的判断によって,キリストを信じる信仰が引き起されるのである.<復> この信仰の構成要素として三つの要素を区別することができる.<復> (a) 知識([ラテン語]Notitia).信仰には対象がなければならない.この場合は,キリストである.人を信用しようとしても,その人について何も知らなければ信用のしようもない.キリストについての知識がなければキリストを信じることはできない(参照ローマ10:14).<復> (b) 同意([ラテン語]Assensus).これには二つの面がある.知的面と感情的面とである.<復> ① 知的面.これは,伝えられた情報を真理であると認めるという意味の同意である(参照ローマ10:9).与格を伴う動詞[ギリシャ語]ピステューオー,または,その後に[ギリシャ語]ホティが続いている[ギリシャ語]ピステューオーは,この意味を持っている.<復> ② 感情的面.これは,伝えられた情報は自分と関係のある,自分のためのものであることを認めるという意味の同意である.<復> それゆえに,同意とは,福音を真理であると認めるとともに,その福音は自分のためのものであると認めることである.<復> (c) 信頼([ラテン語]Fiducia).救済的信仰は,キリストに関する真理への単なる同意ではない.それは信頼にまで高められなければならない.自分自身に対する信頼を全く放棄して,キリストにのみ信頼する,キリストへの全き自己委任の行為である.与格を伴う[ギリシャ語]ピステュエイン・エンは,堅固な信頼を意味している.与格を伴う[ギリシャ語]ピステュエイン・エピまたはエイスは,安んじる,また,より頼むことを意味している.目的格を伴う[ギリシャ語]ピステュエイン・エピまたはエイスは,「あるものに向かって動く」という概念を持っている.<復> ローマ・カトリック教会は,信仰は教会の教えに対する単なる知的同意であるとし,この信仰を,洗礼(バプテスマ)によって義認の恵みにあずかるための七つの準備の最初の一つにあげることにより,救済的信仰として認めている.宗教改革者たちは,これに反対して,救済的信仰はキリストへの信頼であることを強調した.また,ローマ・カトリック教会が,教会は救いの恵みの貯蔵庫また分配者であるという教理によって,信者が直接キリストに関係することを妨げ,救いに関しては教会に信頼するように仕向けたのに対して,宗教改革者たちは,救済的信仰とは直接キリストに信頼する信仰であることを強調した.<復> 救済的信仰の本質は,キリストへの委任である.(それは,私は救われているという確信でも,キリストは私を救われたという確信でも,キリストは私のために死なれたという確信でもない).そしてキリストへの委任の前提になっているのは,私たちは救われていないということである.私たちは救われるためにキリストを信じるのである.キリストが提供されているのは,失われた罪人たちに対してであって,救われるために罪人に要求されているのは,ただキリストにのみより頼み,キリストに自分を委託することである.<復> 以上のように,信仰の三つの要素を区別したが,これは,理解しやすいように論理的区別をしたのであって,時間的に連続している三つの段階のように解釈してはならない.信仰は知的,同意的,信頼的,すなわち,魂の全体的な自己委任の行為である.これらの三つの要素は,一つの救済的信仰の三つの面であって,知的信仰と同意的信仰と信頼的信仰という三つの別個の信仰があるかのように考えてはならない.しかし,ローマ・カトリック教会は,信仰を,知的理解を含んでいる信仰([ラテン語]Fides Explicita)と,知的理解を含んでいない単なる同意する信仰([ラテン語]Fides Implicita)とに区別している.そして,知的要素のない信仰の段階から知的要素を含んでいる信仰の段階へと進むと考える.また,教会の教理への単なる同意にすぎない信仰([ラテン語]Fides Informis)と,形成原理である愛を含んでいる,愛によって働く信仰([ラテン語]Fides Formata)とを段階的に区別している.<復> (3) 救済的信仰と再生との関係.救済的信仰がキリストへの魂の全体的信頼の行為であるなら,自分の罪過と罪との中に死んでいる罪人は(参照エペソ2:1),そのままではキリストを提供されても信じることはできないし,信じようとはしない.主イエスもこのことを,「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり,だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)と言って教えている.それゆえに,再生なしに信仰はあり得ない.<復> しかし,再生が信仰に先行しているのは,論理的にであって,時間的にではない.信仰は持っていないが再生されている人は救われている,と考えるべきではない.例えば,幼い時に死んで天に召された幼児は,信仰はなかったが再生されていたので救われたのだと,考えやすい.しかし,聖書は明らかに,人は信仰によって救われると教えている.「あなたがたは,恵みのゆえに,信仰によって救われたのです」(エペソ2:8),「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ2:16).それゆえに,たとい再生されていたとしても,信仰がなければ義と認められていないのだから,救われてはいないのである.再生と信仰とは同じ一つの救いの異なる面のようなものであって,区別されてはいるが,切り離されるものではない.信仰のあるところには必ず再生があるように,再生のあるところには必ず信仰がある.幼児からは信仰の告白は聞けないが,義と認められて救われている幼児であるなら,ただ再生だけでなく信仰が,たとい自覚的に告白された状態でなくても,種の状態または萠芽的状態で存在しているのである.<復> また,再生は超自然的,主権的,不可抗力的「聖霊の行為」であるが,信仰は再生された「人の行為」なので,人の責任にかかわる行為である.その責任とは,再生させられた者にふさわしい者であらねばならないという責任である.救済的信仰は,再生された新しい人にふさわしく,全身全霊をもってキリストに信頼する行為である.→義認,再生,新生,救いの秩序,救い,信仰生活.<復>〔参考文献〕Murray, J., Collected Writings of John Murray, Vol.2, Banner of Truth, 1978 ; Berkhof, L., Systematic Theology, Eerdmans, 1978 ; Warfield, B. B., Biblical and Theological Studies, Presbyterian and Reformed Publishing, 1952.(松田一男)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社