諸宗教とキリスト教とは?
諸宗教とキリスト教…
1.宗教とは何か.<復> (1) 宗教の語義.<復> a.「宗」は確立された真理を意味し,「教」は,この宗に入らせるための言説を指す.<復> b.宗教と訳された原語[ラテン語]religioはrelegere「再び拾う」または「整理する」を意味し,厳粛な儀礼を指すと言う(キケロ).あるいは,religare「再び結び付ける」に由来し,「神と人とを結び付けるもの」の意とも解されている.<復> (2) 宗教の定義.これまで,神観念,道徳,感情等から宗教の定義がなされてきたが,岸本英夫は「宗教とは,人間生活の究極的意味を明らかにし,人間の究極的解決にかかわると,人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である.宗教には,そのいとなみとの関連において,神観念や神聖性を伴う場合が多い」と定義している.また岸本門下の藤田富雄は「宗教とは,個人,または,集団が,それぞれの信仰体系に基づいて,聖なるものと出会い,それに反応する行動をし,人間生活の諸問題を究極的に解決することである」と定義している.<復> (3) 宗教の本質.<復> a.宗教の場—危機的な出来事すなわち非日常的出来事が自分の身に起った時,人間は恐怖や葛藤に悩まされ,無力感やむなしさ,絶望感に襲われる.その人はその後,それまで生きてきたようには生きていけなくなってしまう.人生に対処していくことのできない不適応状態となるのである.非日常的出来事とは,病気,事故,倒産,失恋等,おもに悲劇的な出来事を指すが,時には,結婚,出産,入学,昇進等,喜ばしい出来事の際に突然起ることもある.<復> b.宗教の主体—宗教体験と宗教的行為—不適応状態に陥っていた者が,突然ある宗教的な語りかけを通して「聖なるもの」と出会い,その「聖なるもの」との語り合いの中で,新しい生き方,新しい使命が与えられて,その不適応状態から脱却できるのである.その際,信仰,崇敬,礼拝,献身等の儀礼的行為がなされる.換言すれば,「聖なるもの」との出会いの内的宗教体験が外的な応答の行為として表出してくるのである.<復> c.宗教の対象—宗教の対象すなわち宗教的客体には,人格神を立てる一神教の神もあれば,無数の神々,無数の仏,氏神,祖先,トーテム,呪術,マナ,太陽,月,星,山,川,泉,石,岩,雷などのように,個別的で人格的なものから非人格的で神秘的なものまで,ありとあらゆるものを含み得る.これらの宗教的客体は,R・オットーが言うヌミノーゼ的実在である.それはまた,絶対他者と表現することもできるし,自立的存在者とも言える.この宗教的客体に出会う時,次のような矛盾する二つの感情が同時に共存する.その一つは魂を魅する神秘性であって,それに向かってあこがれたり,引き付けられたり,拒否したくても抗し切れなくなってひれ伏さざるを得なくなるような感情である.もう一つの感情は畏怖させる神秘,すなわち,もったいない,かたじけない,じっとしておれない等のように,どうしても理性で認識したり評価したりすることのできない超自然的,非合理的性質を持つものである.<復> d.宗教的かまえ—回心とは,非日常的・危機的出来事によって個人が不適応を起してしまったにもかかわらず,聖なるものとの出会いの体験を通し,宗教的に再適応が可能となることにより,新しい順応を得ることである.この宗教的再適応が「かまえ」として定着すると,どんな状況に置かれても順応できるようになるのである.<復> e.宗教の機能—宗教を受け入れることによって,その人がその体験以前には持っていなかった何ものかがその人に補われていき,それまでなかった新しい統一したオリエンテーションをもたらす.それゆえ,その人は,それまでと違った新しい可能性が与えられ,個人の才能においても,事業や家庭の営みにおいても新たな可能性の発見を与えられるのである.<復> f.宗教の論理—その際,そのような新しい人生を与えられた者は常に,自分はふさわしくない者であるのに,あまりにも大きな恵みが与えられたのだとの矛盾した論理が同時に起る体験をする.これを相補性の論理と言う.相補性の論理とは,「…でないのに…である」「AでもあるがBでもある」との認識を与え,その人が本来持っていた可能性を目覚めさせ,創造的な力を発揮させるものなのである.音楽,彫刻,絵画,建築,庭園などの芸術の領域に宗教が果した役割について歴史は無数の資料を提供できる.<復> (4) 宗教の真理性.<復> a.宗教の真理認識—ヌミノーゼ的実在は,比較したり評価したりすることは不可能である.個人個人が自分の信じている宗教の真理性を主張しても,それはあくまでも相対的なものにとどまる以外にない.<復> b.宗教の真理評価—だから宗教の中でどの宗教が絶対性を持っているのか,奇蹟を体験した者がいかにそれが絶対的真理であると主張したとしても,それは他の者にとっては相対的なものとしてしか評価されないものなのである.<復> c.宗教の象徴—ヌミノーゼ的実在は象徴によってしか表現され得ない.しかし象徴は,時がたつにつれてその力を発揮することがなくなってしまう危険性がある.どの宗教においてもヌミノーゼ的実在が,象徴を通して個人や集団に宗教体験を与え続け,創造的なわざの原動力となるよう生き生きとしていなければならない.<復> (5) 宗教のタイプ.<復> a.民族宗教と世界宗教—ユダヤ教,ヒンズー教,神道などのように,おもにある特定の民族にだけ信じられている民族宗教と言われる宗教がある.また,キリスト教,イスラム,仏教,儒教などのように,あらゆる民族の枠を越えて人々に信じられている世界宗教と呼ばれる宗教もある.<復> b.自然宗教と祭儀的宗教—素朴に自然現象(例えば,太陽,月,星,山,川,泉,石,岩,雷等)を拝む自然宗教もある.また,特定の人間(例えば,祭司や霊能者等)を通して祭儀が行われ,聖なるものに近付く方法をとる祭儀的宗教もある.<復> c.預言者的宗教と神秘的宗教—神に代ってこの世の悪と腐敗を糾弾する宗教のタイプもあれば,自己の内的世界に立てこもる神秘的宗教もある.<復> d.宣教的宗教と非宣教的宗教—キリスト教,イスラム,一部の仏教のように積極的に宣教のわざに従事する宗教もあれば,ユダヤ教,神道,ごく限られた地域のみに住む部族の宗教などのように外部に向かって積極的に宣教を行わない宗教もある.<復> (6) このような様々な要素を持った宗教の総称として「諸宗教」という語が用いられている.現存しているもののみでなく,もうすでに消滅し,ただ文献にだけ見出される宗教もあるが,それらは決して「諸宗教」として存在していたのではなく,多様性を持ったものであったにせよ,それぞれが一つの宗教として存在していたし,今も存在しているのである.<復> 2.キリスト教.<復> (1) キリスト教とはどのような宗教か.前5年頃ユダヤに生れ,紀元27年頃から公生涯の宣教活動を始め,30年4月7日(?)に十字架刑に処せられ,3日後に復活したイエスをメシヤ(キリスト—油注がれた者,救い主の意)と信じる宗教である.原始キリスト教会は,イエスが十字架上で流された血は人類の罪のための犠牲の血であり,死後3日目のイエスの死からの復活は全人類の死の問題の究極的解決であると信じて宣教した.換言すれば,イエスをキリストと信じる者は誰でも,過去に犯した罪の問題の究極的解決が与えられるばかりか,イエスの復活は信じる者の未来の死の問題の究極的解決であると宣べ伝えたのであった.このようにイエスをキリストと信じる者は,過去の罪と未来の死の恐れからの究極的解決が与えられるので,現在隣人と出会い新しい人生を歩み出せるのである(ブルンナー).自分の犯した罪ばかりか,現在,神の救いを受け入れていないそのことが罪だとわかり,その罪を悔い改め,自分のために犠牲の死を遂げて下さったイエスをキリストと信じる時,その人は新しくされ,新しい人生が始まるという体験が与えられるのである.<復> (2) キリスト教の基本教理.キリスト教の基本教理は「使徒信条」に要約される.そこには,三位一体の神に対する信仰が告白されている.すなわち,神は唯一のお方であるが,父,子,聖霊という三位格で存在している神である.そして,天地の創造者である全能の父なる神が,御子イエスを処女マリヤを通して真の人間,真の神としてこの世に遣わされ,その生涯と十字架の贖罪の死と復活というみわざを通して父なる神の意志を啓示された.この御子イエスを通してのみ,われわれは神を知ることができるのである.御子イエスは,十字架上で死に,埋葬され,3日目に復活し,40日間地上で顕現して昇天された.その後10日間の弟子たちの祈りの後,紀元30年5月29日(?)のペンテコステの日に聖霊が地上に注がれた.聖霊は御子イエスの人格とみわざをあかしする神の霊である.この聖霊によって人間は,イエスをキリストと信じることができるのである.聖霊の働きによってキリスト信徒となり,聖なる教会の一員に加えられるばかりか,聖霊の賜物を受けて,教えや奉仕のために必要な様々な能力を与えられるのである.<復> (3) 歴史上のイエス.福音書を除いて,歴史上に生きたイエスの生涯を知ることはできない.資料が皆無に近いため,年代記的にイエスの伝記を書くことは不可能である.四つの福音書の記者たちは,イエスの伝記を伝えることに関心があったのではなく,イエスがキリストであることを生涯の断片的な記述を通して告知しているにすぎない.3年半ほどあった公生涯の出来事の順序も正確に知ることは困難である.そのため,1954年頃よりブルトマン学派の中から「史的イエスの探究」という問題がケーゼマン教授によって提起され,実際に地上で生きたイエスの歴史像やイエスの宣教と原始キリスト教会の宣教(ケリュグマ)との違いを究明しようと試みられている.イエスの生涯ではっきりしているのは,前5年頃,ヘロデ大王がユダヤを治めていた時にベツレヘムの馬小屋で生れ,30歳頃,宣教を開始して公生涯に入り,神の国について説教をし,人々の病をいやし,教えを与えたということだけである.そして,3年半後に,当時のユダヤ教の主流であったパリサイ派を誹謗中傷したという理由で,ローマ帝国のユダヤ総督ピラトのもと,扇動された民衆の要求に従って十字架刑に処せられてしまったのである.その後3日目に,かねてから預言されていたように死から復活し,弟子たちに姿を現した.信仰を失っていた弟子たちは,イエスの十字架の意味がわかり,ペンテコステで聖霊を受けてから大胆にイエスこそキリスト(救い主)であると宣教していったのである.<復> (4) イエスの教え.<復> a.父なる神についての教え—主イエスはみわざと説教を通して,父なる神がいかなる方であるかを示された.父なる神は悩み苦しめる罪人を限りなく愛し,またあわれんで下さる救いの神だと教えられたのである.そして,パリサイ人によって代表されるユダヤ教は,伝統と文字の中に救いの神を閉じ込め,救わなければならない罪人を救いの神から引き離していると断罪した.主イエスはパリサイ人に対する断罪と罪人に対する罪の赦しを告知していった.イエスが自らの行為で人々に接させた神は,父として配慮する神であり,呼べば答える神であった.<復> b.神の国(神の支配)についての教え—この父なる神を「私の神」とする時,その人間にどのような大きな変化が起るのか.人々はイエスを通して,この救いの神の前に立たされたのであり,その人は,「神の支配を受ける人」「神の前に立つ者」「ただ神の前にあって,この世から非世界化,非歴史化された者」として立たされたのである.イエスの「神の国の教え」はイエスの終末論を表現したものと言えるが,この神の国すなわち神の支配とは,永遠の神との出会いであるゆえに,現在的にも未来的にも過去的にも表現され得るものである.<復> c.神の意志(倫理訓)についての教え—永遠の神の前に立たされて,歴史からも世界からも全く取り出された者に,神は新しい使命を与え,隣人と神に向かって生きることが父なる神の意志だとイエスは教えた.換言すれば,神の前で,いったん世界と歴史から取り出された者を新たにこの世に遣わし,新しい歴史(歴史化)を,また新しい世界(世界化)を行わしめようとするのが神の意志だと教えたのである.イエスは決して倫理体系を教えたのではなく,人間が悔い改めて新生することによって,神の律法を守れるようになると教えたのである.イエスの倫理の中心は,ユダヤ教の律法への絶対服従であったのだから,ユダヤ教の枠内にあると言える.しかしイエスは,ユダヤ教のパリサイ派の律法の律法主義的とらえ方はかえって律法を行えなくしてしまうと見たのであった.イエスは罪人や取税人が神の律法を守れるようになるために,罪の赦しと救いを与えたのである.<復> (5) 教会の歴史.<復> a.原始キリスト教会—原始キリスト教とは通常,紀元30年5月29日(?)のペンテコステの日にエルサレムに教会が創設されてから使徒ヨハネが紀元100年前後に死ぬまでの約70年間を指し,初代教会と言う場合には,教会成立後使徒信条などが定形化されていく紀元150年または200年頃までを指す.原始キリスト教会がこの初期の教会の歴史を指導したが,その間,外部からの迫害や教会内の様々な問題のゆえに,クリスチャンたちはシリヤのアンテオケや地中海沿岸の都市へと散らされていった.アレキサンドリヤ,エペソ,ローマにも教会が設立されていったが,その間に異邦人にもキリスト教が伝えられ,異邦人クリスチャンが教会に加えられていった.当初,教会を指導したのはイエスの直弟子であったペテロたちや,イエスの死後,クリスチャンになったイエスの弟ヤコブ等,ヘブライストと呼ばれるヘブル語を話す人々であったが,教会は間もなくギリシヤ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)によって指導されるようになった.新しい世界に適応した神学と教会制度を確立させていったのは,ヘレニストであったパウロやバルナバであった.彼らの献身的努力によって,外部からの迫害と内部からの異端に対処していくことができたのである.<復> b.古カトリック教会の成立からカトリック教会の成立へ—使徒たちが天に召されて後,教会を指導したのは教父テルトゥリアーヌス,キュプリアーヌス,オーリゲネースや各地の監督たちである.最大の教会は,当時,世界の中心であったローマであったので,紀元590年に即位したグレゴリウス1世以後,教皇が事実上の法王としてキリスト教世界に君臨し,すべての教会の上にキリストの代理者として指導する立場を与えられていった.<復> c.カトリック教会とギリシヤ正教会との分離—1054年にローマを中心とした西方カトリック教会とビザンチンを中心とする東方正教会とが互いに破門し合って分裂した.東方正教会はギリシヤ正教と呼ばれ,それぞれの地域の総主教によって教会が統治される教会制度を持った.<復> d.カトリック教会とプロテスタント教会との分離—1517年,ルターによって起された宗教改革によって,聖書と伝統を同時に重んじるカトリック教会に対して,「聖書のみ」「信仰のみ」「恩寵のみ」「万人祭司」の旗印を掲げ,聖職者の結婚も認めるようになった.ルターについで,スイスでもカルヴァンが長老制度の教会を形成した.<復> e.今日のキリスト教—キリスト教の教派はその後数百,数千に分離しながら,世界各地に教会を作り,現在では信徒数十数億という世界最大の宗教となって,イエスを救い主だと告知し続けている.<復> 3.諸宗教とキリスト教との関係.<復> (1) キリスト教と他宗教とは同列に位置するとの見解.仏教やイスラムなどの創唱宗教と同様に,キリスト教はイエスという人の教えとみわざ(十字架上の贖罪,復活,昇天,聖霊降臨,再臨等の教理)を信じている一つの宗教にすぎず,他の宗教と何ら変るところがないとの見解がある.非キリスト教徒はもちろんのこと,キリスト教徒の中にもこのように受け止めている者がいる.<復> (2) キリストの福音を宗教と見ることを否定する見解.バルトは,キリスト教以外の宗教ばかりか,宗教としてのキリスト教も人間の側からの神に対する反逆行為であると断罪し,否定している.そしてイエス・キリストの啓示こそ福音であって,そこにキリスト教の絶対性を主張する.諸宗教とキリストの福音とを対立的に見るばかりか,宗教としてのキリスト教も真の福音とは異なるものと見る見方である.クラーメル(クレーマー)も同様の見方をしている.<復> (3) キリスト教と他宗教との間に共通点があることを認めながら,なお,自分の信仰との関係の中で,その絶対性を主張する立場.自分がキリスト教徒であっても,自らの信仰をできる限り客観的に見るために,他の宗教と自分の宗教とをあくまでも相対的に見ていこうと出発する立場である.他宗教を知ることによって自分が信じているキリスト教の外形的長所や短所を正しく把握することができる.しかし,イエスをキリストと信じることは,イエスを神の唯一の啓示者,贖罪者,再臨の主と見ることなので,相対的な見方をするわけにはいかない.イエスをキリストと信じる者にとって,キリスト教の絶対性を放棄することはできない.こう言うと,第3の見方も第2の見方と同じだと言われるかもしれない.しかし,第2の見方と第3の見方には以下の点で違いがある.すなわち,第3の見方は,(諸)宗教とキリスト教とを科学的,価値中立的,相対的に見ると同時に,イエスを唯一の救い主と絶対的に見るということなのである.それは矛盾であると言う者がいるかもしれない.では,例えば,自分の子供と他人の子供との間にどんな違いがあると言うのだろうか.全く同じだ,とも言えるし,全然違う,とも言える.どこが違うのか.自分との関係が違うのである.もし自分の子供だけを絶対視したらどうなるか.自分の子供の長所と他人の子供の短所を比較する結果になりはしないか.他宗教を理解し,他宗教を信じている人々を理解しながら,自分の信仰のあり方を批判,吟味しつつ,なおかつ,キリスト教の絶対性を主張できる成熟したクリスチャンになりたいものである.(→図「日本の諸宗教人口」),→異教・異教徒,比較宗教,宗教(神)学,イスラムとキリスト教,ゾロアスター教,神道とキリスト教,儒教とキリスト教,仏教・ヒンズー教とキリスト教,日本の宗教,シンクレティズム,啓示論.<復>〔参考文献〕岸本英夫『宗教学』大明堂,1961;藤田富雄『宗教啓学』大明堂,1966;比屋根安定『新版・日本宗教史』『福音と異教地盤』日本基督教団出版部(1962,1961);Galling, K.(hrsg.), Die Religion in Geschichte und Gegenwart (3.Aufl.), J. C. B. Mohr, 1957—65.(藤巻 充)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社