《じっくり解説》プロテスタント宗教改革とは?

プロテスタント宗教改革とは?

スポンサーリンク

プロテスタント宗教改革…

[ラテン語]Reformatio,[ドイツ語]Reformation,[英語]Protestant Reformation.16世紀を中心にして中世キリスト教社会に起きた,おもに宗教的刷新を目的とした運動であり,ローマ・カトリック教会の改革を唱えて展開されたが,同教会からの分離を契機として,結果的にはプロテスタント諸教会の誕生をもたらしたものである.宗教改革がヨーロッパ中央部のほぼ全域で行われ,その影響が人々の生活の広い領域に見られたことからして,政治的,経済的,思想的要因がこの刷新運動の展開と性格付けに寄与したことは明らかである.例えば,政治的要因として,中世ヨーロッパ社会を支えた俗権を最も普遍的に代表すると見られたドイツの神聖ローマ皇帝に対して個々の領邦君主や自由都市がそれぞれの主権を主張したように,台頭しつつあった国民国家,諸侯,諸都市が宗教改革を推進する力となった.経済的要因として,搾取される農民階層に生じた不満,商業と貨幣経済の振興,都市人口の増加,印刷術などに見られた技術革新等により,ブルジョア(中産)階級が台頭して,新しい宗教の担い手となった.思想的要因として,北方ルネサンスの進展,知識階級に見られた広範囲にわたる現状への不満,過去の遺産に対する高い評価と復興への情熱,国民的意識の高揚などの影響が宗教改革の諸局面において顕著に見られた.しかしながら,その動機と目的において宗教改革は何よりも宗教的運動,また教会改革運動であった.おもにこの観点から,以下に宗教改革を概観する.<復> 1.宗教改革前史.<復> 16世紀の幕開き,宗教改革の前夜における顕著な現象として,ローマ教皇に代表されるカトリック教会の権威の退潮が見られた.これは,教皇自らが招いた問題でもあった.教皇庁がフランス国王の影響下のアビニョンに移った,いわゆる「アビニョンの捕囚」時代(1309—77年)とそれに続く教会大分裂時代(1378—1417年)は教皇の権威を著しく失墜させた.大分裂に終止符を打ったコンスタンツ公会議(1414—18年)から改革者ルターの登場までの100年間,教皇庁はイタリア諸小国家間の紛争に巻き込まれて世俗化の一途をたどり,闘争,虚栄,不道徳が支配する宮廷と化した.教皇の多くは芸術の愛好家としては「ルネサンス教皇」とも呼ばれるが,実質的にはイタリア諸君主の中の一君主にすぎない存在であった.このような退潮現象に思想面で大きく貢献したのは,神学・哲学思想の唯名論(Nominalism),教会制度の改革理論の教会会議至上主義(Conciliarism),人文学の広い分野での新思想であったルネサンス(Renaissance)の三つであり,いずれも教皇を頂点とするカトリック教会に対する批判的精神を培うことになった.唯名論は,普遍についての論争においては,その名の通り,個の先在を主張して普遍はただ名目上の概念的な実在とした.14世紀のスコラ哲学者ウィリアム・オッカムに至り強力な反教皇制思想となり,普遍の実在を主張するトマス主義と対立し,自らを普遍の代表者と主張する教皇を否定した.そして教会を個々の教会の総合と見なし,また,最終的には神学と哲学の分離を主張した.トマス主義の「旧学問」に対する「新学問」(via moderna)としてヨーロッパ中央・北部で指導的となり,後の改革者ルターやカルヴァンもこの流れに学んだ.教会会議至上主義は教皇至上主義に対峙するもので,唯名論者や教会法学者により,教会の堕落や大分裂を解決するための実践的理論として形成された.教会のかしらをキリストとし,キリストの教会を代表する個々の教会の総意を明らかにする教会会議をもって教皇より上にあるものと見なし,一時3人の教皇が乱立した大分裂を解消したコンスタンツ公会議ではその理論の有効性を実証して15世紀の教会改革論の主流となった.宗教改革者は,教会政治に関しては,ほとんどこの立場を継承している.ルネサンスは,古典学の「再生」を意味するフランス語にその呼称が由来するように,ギリシヤ古典やキリスト教古典の尊重,物事を根源に戻って考える姿勢,歴史に関する興味などの特長を持った学問研究の方法とも言えるものであった.その精神は人間性の尊重であり現世肯定的であったため,カトリック教会の教会中心主義,来世思考には批判的であり,また,聖書の原語(ヘブル語,ギリシヤ語)による研究から,原初使徒時代の教会と当時の教皇の教会を対比することとなった.ほとんど例外なく,宗教改革者はルネサンス思想の恩恵を受けたと言える.しかしながら,教会の現状に対する批判精神を培ったこれらの思想であれ,中世末期の教会内に起きた多くの改革運動や教会からは否定されたロラード派,ワルドー派,フス派などの急進的改革運動であれ,直接に宗教改革に発展したのではない.そのためには,ルターとルターを取り巻く情況の到来を待たねばならなかった.<復> 2.ルターとその周辺.<復> 免罪符販売に反対して神学者に討論を呼びかけた95箇条提題をルターがヴィッテンベルク城教会の扉に貼付した1517年10月31日の事件は,改革の気運の熟していたドイツにとって触媒のような役割を果した.修道士ルターにとって,神の恩恵を金銭で買う免罪とは「安っぽい恵み」であり,耐え難いものであった.しかし,提題のコピーが流布し,人々が論じるにつれて修道士としての私的関心は公の論争へと発展した.ルターに対するカトリック教会の対応は予想外に早急で,翌1518年にはルターはすでに異端の疑いをかけられ,ハイデルベルク,アウグスブルク,ライプチヒで教会の審問を受けた.この過程の中で彼は信仰義認の教理をより鮮明にし,教会側は,そこに極端に唯名論的で偏狭なアウグスティーヌスの恩恵絶対主義の誤りがあると指摘した.1519年のライプチヒ討論においてルターが教皇の首位性と公会議の不可謬性の双方を否定し,ただ聖書のみ誤りなしとする立場を唱えるに及び,中世カトリシズムとの断絶は決定的なものとなった.それは,相対立する主張であるとは言え,共にカトリック教会の教導権を主張する教皇至上主義と教会会議至上主義の双方を「ただ聖書のみ」の原則により一気に否定したからであった.これ以降,ルターは翌1520年の三大文書(「ドイツのキリスト者貴族に与える書」「教会のバビロン虜囚について」「キリスト者の自由」)を発行,翌1521年1月教皇より異端として断罪され,同年4月にヴォルムス帝国議会で行った有名な「私はここに立つ」の弁明も効を奏さず帝国からの追放処分を受けることとなった.ルターの公式断罪は,これまでのカトリック教会の「改革・刷新」をスローガンとする運動を一変させ,ローマから分離したプロテスタント教会の形成が前面に出ることになった.ただし,教会の形成・確立は帝国内の政治状況の紆余曲折に左右された.ルターを断罪した帝国議会の宣告は民衆の熱狂的ルター支持と多くの領邦君主の無視という抵抗に遭い,ルター及び宗教改革を終始危険視した皇帝カール5世の度重なる圧迫にもかかわらず,ルター派諸侯は1530年の帝国議会にプロテスタントの信条(アウグスブルク信仰告白)を提出することができ,1532年のニュルンベルク講和において,公会議開催により決着を見るまでの間ではあるがルター派教会に法的根拠が与えられた.その後,ルター派とツヴィングリ派諸侯連合のシュマルカルデン同盟により,最終的にアウグスブルク講和(1555年)を勝ち取り,ここにプロテスタント諸侯の領邦におけるルター派教会の信教の自由は公認されるに至った.君主の宗教をもってその領邦民の宗教とする(Cuius regio, eius religio)原則は,ドイツの宗教事情を長く支配することとなる.ドイツ以外におけるルター派信仰の進出は,フランス,オランダ,イタリアに当初見られたが大きな進展はなく,むしろ北上してスカンジナビア諸国に定着した.スウェーデン王グスターヴ1世・ヴァーサは1527年に国土の3分の2を所有していたカトリック教会を追放しルター主義を導入し,デンマークの二代の王,「デンマークのルター」と呼ばれたフレデリク1世及び「牧師王」と呼ばれたクリスティアン3世は1530年代にルター主義を導入し,フィンランドも次第にルター派となった.<復> 3.リフォームド教会運動.<復> 初期の宗教改革の指導者は疑いもなくルターであったが,その運動が進展するにつれて,異なった改革理念が生じた.ルターのサークルの中からは,ヴィッテンベルク大学の同僚カールシュタットが1522年にルターとの相違を公言し,トーマス・ミュンツァーはルターの改革理念を攻撃し,1525年の農民戦争の精神的指導者となった.しかし,これらの運動は,その改革の急進性もあって,ルター派領邦教会に対抗し得るものとはならなかった.ルターとは別に,独自の宗教改革理念を最初に提示したのは,チューリヒの宗教改革者ツヴィングリであった.修道院を経たルターとは対照的に,ツヴィングリは教区司祭とエラスムス主義の神学者として初期の形成を見た.1518年にチューリヒの大聖堂教会説教者となり,翌年より聖書の連続講解説教を開始し,その聖書主義は1523年の2回の公開討論会によってカトリック教会の主張を論破するに至った.1525年のミサ廃止を契機にチューリヒはプロテスタントに転じた.チューリヒ宗教改革の影響は,ベルン,バーゼル,シャフハウゼン,ザンクト・ガレン,ビエンヌなどのドイツ語圏諸州及び南ドイツにも広がり,「神のことばに基づきより改革された教会」を目指すリフォームド教会運動として展開することとなった.ストラスブールのブツァー,バーゼルのエコランパーディウス,ベルンのハラー,そして第2次カペル戦争(1531年)におけるツヴィングリの死後,チューリヒの後継者となったブリンガーなど多数の宗教改革者により,聖俗両権の密接な関係,教会組織の充実,聖餐論における象徴説,教会訓練の重視などの特長を持つ改革運動が展開された.初期段階のリフォームド教会運動は1530年代に一応の完成を見たが,その第2段階の指導者として登場したのが,フランスのフマニストの背景からジュネーブの宗教改革者となったカルヴァンであった.1536年の初版『キリスト教綱要』の出版をもって宗教改革の舞台に登場した第2世代の改革者カルヴァンは,ルター派宗教改革と初期リフォームド教会改革の成果を踏まえ,また英国宗教改革や急進派宗教改革,さらにはカトリックの対抗宗教改革を視野に入れて,その改革理念を発展させることになった.カルヴァンの神学の出発点は神の主権であり,そこから,摂理,キリストにある選び,キリスト者の召命などの教理が一貫して導き出される.信仰義認の教理においてはルターの立場を厳密に継承するのであるが,ルターが信仰を「ゆだねる行為」としたことに対してカルヴァンは信仰を「神の意志への服従」ととらえ,ルターが律法の第1(断罪的)用法を強調したことに対してカルヴァンは第3(規範的)用法を強調して,信仰義認の教理の実践的な展開に重点を置いた.また,ルターはその「二統治説」により,教権と俗権をいずれも神の統治と位置付けた上で,両権の区別を強調するが,カルヴァンはその「キリスト王国論」により,両権が神のことばの支配のもとに統合されることを強調した.この点との関係で,ジュネーブ宗教改革の成果の一つである独立教会訓練制度によれば,市議会(俗権)と牧師会(教権)双方から選出された長老会(Consistoire)が,両権から独立し,神のことばに対して責任を持って教会訓練を行うとした.さらに,当時,進展しつつあったトリエント公会議(1545—63年)に対抗して,徹底したプロテスタント教会論を展開したことも注目される.そして,その選びの教理に基づき,カルヴァンは「聖徒の革命」とも呼ばれる政治思想を形成した.これは,神の召命を受けたそれぞれのキリスト者は聖徒であり,キリスト王国実現のための政治力となり得るとするもので,積極的な政治参加の姿勢,フランスの宗教戦争(1562—98年)においてカルヴァン主義者ユグノーたちが展開した抵抗権論,次の17世紀英国における清教徒革命の理論などを生み出したものであった.このような特長を持つ運動としてのカルヴァン主義は進歩的思想として,16世紀後半におけるプロテスタント陣営の指導者としての役割を果した.フランス,オランダ,イギリス,スコットランド,ポーランド,ハンガリーなどに進出したカルヴァン主義は,カトリックの巻き返しによりポーランド,ハンガリーでは後退したが,フランスでは一時国を二分してカトリックと争い,オランダではスペインからの独立戦争の精神的支柱となり,スコットランドでは革命による新体制樹立を果し,イギリスでは清教徒運動と結んで近世市民社会の精神を形成した.その進出したところいずこにおいても,教会のみならず社会の改革をももたらしたと言える.<復> 4.急進派宗教改革.<復> 今日「急進派」と呼ばれるものは,かなり雑多な,時代と場所とを大きく異にする運動の総称として用いられている.それらの運動の共通性としては,運動が目標とした改革なり思想なりの急進性,とりわけ,ルター派,リフォームド,英国宗教改革といったプロテスタントの主流がいずれも教会と国家の調和を前提とした中世的なキリスト教社会を肯定した上で,為政者の力を借りた(magisterial)宗教改革であったのに対して,それを非聖書的であると急進的に否定し,教会のみによる宗教改革を提唱するなど,当時の世界ではあまりに急進的(radical)と思われる活動をしたことであった.今日では,再洗礼派(アナバプテスト),聖霊主義者,反三位一体論者に大別するようであるが,後二者は個人主義的,非制度的運動であったのに対し,再洗礼派のみが教会形成運動を展開したので,以下その動きを概観することにする.<復> すでにルターとのかかわりで,カールシュタットとミュンツァーの急進的運動について言及したが,再洗礼を前面に立てて教会形成を行った最初の再洗礼派はチューリヒのツヴィングリの改革の中から出たグループであった.聖書主義を掲げたツヴィングリの改革が予想通りには進まず,また,市当局との妥協によりその性格があいまいになる中で,フープマイアー,グレーベルらは幼児洗礼の是非を論じ,1525年には公開討論開催までに至った.この問題が当時のキリスト教社会の根底にあったユスティニアヌス法典の再洗礼禁止条項に抵触する事態であるだけに,市当局は討論の拡張を禁止した.これを成人洗礼を命ずる神のことばへの俗権による反逆と見なしてグレーベルらは不服従を表明し,ひそかに成人(再)洗礼を執行したが,1527年市当局はリーダーのマンツらを溺死刑をもって処分した.この後,再洗礼派運動はスイス,南ドイツ,モラビアを中心に急速に広がることになった.スイスでは,チューリヒでの迫害後アルプスの山中に浸透した運動は各所に小共同体を形成していった.ドイツでは,ハンス・デンクやハンス・フートの指導的働きにより,アウグスブルクやストラスブールを中心に展開し,また多くの殉教者を数えた.モラビアでは,再洗礼派はリヒテンシュタイン領内に亡命地を見出し,ドイツやその他の地から迫害を逃れた数千も加わり,中にはフートの教えに従い私有財産制を廃止して共産主義的共同体を形成したフッター兄弟団もあった.これらの運動が行った教会形成の原理は,1527年のシュライトハイム信仰告白の7箇条が明らかにするように,信仰告白者への授洗,神と信仰者間の契約関係による共同体の結成,教会の純粋性を保つ安全弁としての教会訓練(破門),受難者・巡礼者としての教会,この世からの分離,そして純粋な,使徒的キリスト教の復興などであった.しかし,1534年から35年にかけて,革命的再洗礼派がミュンスターを中心地として新エルサレムの到来を予言し,武力をもってその到来をはかった,いわゆるミュンスターの騒乱とその武力鎮圧を契機として再洗礼派は混乱期を迎える.その中から,平和主義を唱え,立て直しをはかったオランダのメノー・シーモンスとメノナイト派の運動は再洗礼派の中心勢力となっていった.<復> 5.英国宗教改革.<復> イギリスにおける宗教改革は,プロテスタント宗教改革の中でも特異なものであった.特異性の第1は,国王の離婚問題に始まり,ローマ教皇の支配から教会を独立させて国教会をつくるという政治的動機から展開したことである.それゆえ,英国宗教改革を4人の君主の統治期に分け,第1期ヘンリ8世(1509—47年在位),第2期エドワード6世(1547—53年在位),第3期メアリ1世(1553—58年在位),第4期エリーザベス1世(1558—1603年在位)とすることが一般的である.第2の特異性は,カトリック的背景に加え,大陸よりルター主義,リフォームド主義など多くの影響を受ける中で,ある特定の立場に偏向することなく中庸主義にとどまったことである.ヘンリ8世は首長令発布により英国教会の首長であるとしてローマから分離し,プロテスタント主義への端緒を開いた.しかし,教会に対する基本姿勢は,古代教会史で言う皇帝教皇主義(Caesaropapism),あるいは16世紀では後にエラストゥス主義(Erastianism)と呼ばれるもので,国王が教会のあり方を決定するというものであった.この方針は,後に娘であるエリーザベス1世の宗教政策に受け継がれた.エドワード6世の治世は,カンタベリ大主教クランマーの指導もあり,急速なプロテスタント化が進み,「祈祷書」や「42箇条」の制定を見た.メアリ1世の短い治世は一言で言うと反動的なもので,カトリシズムへの復帰がはかられるが,途上で挫折した.エリーザベス1世の長い統治において,ヘンリ8世の基本政策の踏襲として英国教会は確立された.カンタベリ大主教パーカーを補佐役として,監督政治,祈祷書に基づく礼拝の統一,神学的にはヴィッテンベルク,チューリヒ,ジュネーブの影響の中道を行くと言われる「聖公会大綱」(1563/71年)を教理規準とした.この改革を「半分しか改革されないもの」(halfly reformed)と批判する清教徒の改革運動が長く続き,リフォームドの理念に基づく清教徒革命の渦中,1649年の国王チャールズ1世の処刑に至った.ルターの95箇条の提題に始まり清教徒革命をもって幕を閉じる宗教改革時代は,全キリスト教史の中でも信仰と教会のあり方が厳しく問われた激動の時代であったと言えよう.→対抗宗教改革.<復>〔参考文献〕W・ウォーカー『宗教改革』(キリスト教史3)ヨルダン社,1983;Spitz, L. W., The Renaissance and Reformation Mov▽ements (2nd ed.), 2Vols., 1980 ; Williams, G. H., The Radical Reformation, 1962.(丸山忠孝)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社