《じっくり解説》幕屋と神殿とは?

幕屋と神殿とは?

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幕屋と神殿…

1.概観.<復> 旧約の時代,神の民=イスラエルは通常の場合において,いわゆる「聖所」([ヘブル語]miqda~s▽,[英語]sanctuary)における「いけにえ」を通して神を礼拝した.族長時代のそれは簡単な祭壇([ヘブル語]mizbe~ah∵)から成っていたと考えられる(創世12:7,8,26:25,35:7.参照創世8:20,出エジプト20:24‐26等).後,民族となったヤコブの子孫「イスラエル」をエジプトの奴隷の状態から解放された神は,シナイの荒野で彼らに「天幕聖所」を造ることを命じられた(出エジプト25‐31,35‐40章).これが一般に「幕屋」([ヘブル語]mis▽ka~n)と呼ばれるものである.この聖所は移動式で,「天幕」「契約の箱」「祭壇」その他の祭儀器具から構成されたものであった.イスラエルの民が約束の地カナンに定着し,王制が確立されるに及んで,この幕屋の機能と伝統は,ソロモンがエルサレムに建てた「神殿」に受け継がれていった(Ⅰ列王6章,8:4,Ⅱ歴代3,4章).ソロモンが建てたこの神殿は前587/前586年にバビロニヤによって破壊されたが,しかし,ペルシヤの治世下,預言者ハガイ,ゼカリヤの運動とゼルバベルの指導で,エルサレムに第2神殿が再建された(エズラ3‐6章).この神殿はヘロデ王による大修築を経て,キリストの時代に至った.<復> 2.幕屋([ヘブル語]mis▽ka~n).<復> (1) 用語.このことばは特に出エジプト記—民数記で用いられている(出エジプト25:9,レビ17:4等).これは本来,遊牧民の「天幕住居」を示すものであったが,後,宗教的な祭儀を行う「幕屋」「天幕聖所」を指す用語として用いられるようになったと考えられる.その動詞[ヘブル語]s▽a~k_anの意味は「住む」である.しかし,モーセ五書ではこの天幕聖所の総称を「幕屋」([ヘブル語]mis▽ka~n)と呼ぶよりも「会見の天幕」([ヘブル語]’o~hel mo^`e~d_)と呼んでいる.また「あかしの天幕」([ヘブル語]’o~hel ha~`e~d_ut_),「あかしの幕屋」([ヘブル語]mis▽kan ha~`e~d_ut_)と呼ばれることもある(民数9:15,10:11,17:7,18:2).<復> (2) 構造.この「会見の天幕」「幕屋」はシナイ山において神の指示により造られたものである.それは移動式聖所であり,その設計図(構造及び様式)は,出エジプト25‐30,35‐39章に詳しく記されている.<復> 出エジプト25章(35章)以下によると,この幕屋の本体である構造物(聖所)は,100×50×5キュビト(27:18.1キュビトは約44センチ)の亜麻布製の幕(庭の掛け幕)で囲まれた場所の中に造られた.その大きさは奥行き30,間口10,高さ10キュビトと考えられる.その周りはケルビムの姿が織り込まれた亜麻布の幕,屋根の部分はやぎの毛の幕でおおわれ,その上に赤くなめした雄羊の皮とじゅごんの皮で作ったおおい(26:14)が掛けられていた.内部は垂れ幕([ヘブル語]pa~ro~k_et_)により,至聖所([ヘブル語]qo~d_es▽ haqqo d_a~s▽i^m)と聖所([ヘブル語]qo~d_es▽—これは幕屋の総称としての聖所〔[英語]sanctuary〕とは区別される)に仕切られていた.至聖所(奥行10キュビト)には,神の王座を象徴するケルビムを載せた「ふた」(贖いのふた)を持つ「箱」([ヘブル語]’a~ro^n.出エジプト25:10‐22)が置かれていた.この箱は,通常「契約の箱」([ヘブル語]’aro^n beri^t_.民数10:33,14:44,申命10:8等)と呼ばれているが,さらに「主の箱」(ヨシュア6:6,7)とか「あかしの箱」(出エジプト26:33,40:21,レビ16:13,ヨシュア4:16等)とも呼ばれる場合がある.その箱の中には,神が与えた「さとし」([ヘブル語]ha~`e~d_ut_.出エジプト25:16.参照Ⅰ列王8:9「2枚の板」,一般に十戒〔十のことば〕と考えられる)が入れられていた.<復> その垂れ幕の外側の聖所には,「香の壇」(出エジプト30:1‐10,レビ16:11‐14),「パンのための机」(出エジプト25:23‐30,レビ24:5‐9),「純金の七枝の燭台」(出エジプト25:31‐40,レビ24:3,4)が配置されていた.そして幕屋の本体の構造物の東側には「出入口」が設けられ,そこには刺繍された亜麻布の幕がかけられていた.外の庭(幕屋の庭)には「全焼のいけにえのための祭壇」(出エジプト27:1‐8,31:9)が置かれていた.ただし,この幕屋(天幕聖所)全体の具体的な様式構造,個々の祭儀器具の細部については必ずしも明らかではないところがある.<復> 民数2章によれば,荒野の時代,この幕屋は「宿営の中央」に置かれていた.幕屋が完成した後,その上には神の臨在のしるしである雲がおおい,モーセはその現された主の栄光のゆえに幕屋の中に入ることができなかった(出エジプト40:34,35.参照Ⅰ列王8:10,11).その幕屋の設置,移動,奉仕には祭司とレビ人が当り(民数1:48以下),雲が幕屋を離れるとイスラエルは旅立った(出エジプト40:36,民数9:17‐23等).<復> この幕屋は「神の臨在の場所(住まい)」であり,その中心的な機能は,「贖い」([ヘブル語]kipper.レビ1‐7章)=神との交わりとその回復,すなわち「公式の神礼拝の場」である(参照出エジプト25:8,29:42,43,レビ1‐7,16章).<復> (3) もう一つの「会見の天幕」.出エジプト33:7‐11によれば,25章以下に記される幕屋が造られる以前に,同じく「会見の天幕」と呼ばれたもう一つの比較的簡素な天幕が存在したことが報告されている.この会見の天幕は,「宿営の外の,宿営から離れた所」に建てられており,特にモーセ個人と結び付けられ,モーセがその所に立つ時,ヨシュアを伴っていた(33:11.参照出エジプト24:13,申命31:14).その機能は,おもにモーセが「主に伺いを立て」たり(出エジプト33:7),神がモーセに啓示(神託)を与えられる場所—神はモーセとその幕屋の内部で「顔と顔を合わせて」語られた(33:11.参照民数12:8)—と考えられる.しかし,そこで「祭儀」(例えば,いけにえ奉献)がなされていたかどうかは不明である.<復> この両者を比較すると,主の顕現としての雲の柱(出エジプト33:9,10,40:34,申命31:15)が現れ,全体をおおったこと,さらにその所で神が語られた(出エジプト29:42,43.参照25:22)ことでは共通しているが,しかし,その大きさ,様式,置かれた場所などに相違がある.特に出エジプト25‐31章で語られている会見の天幕(幕屋)は,規模において大きく,豪華な装飾の施された天幕・祭儀器具によって構成され,その奉仕には祭司,レビ人たちが当らなければならなかった.<復> 批評学者は,この幕屋に関する二つの報告を異なる文書資料によるもの(これは文書資料説と呼ばれる)と仮定し,出エジプト33章(E資料と呼ばれる)の幕屋は本来の荒野時代における幕屋聖所を反映しており,他方,出エジプト25章以下の幕屋は捕囚後の祭儀の状況を反映するもの(P資料—祭司典)と説明する.しかし,これは一つの幕屋についての二つの相異なる資料として説明されるべきではない.むしろそれは,本格的な幕屋(天幕聖所)が造られる前に,神がモーセと語られた「一時的」「暫定的」な「幕屋」があったと考えられるべきである.<復> (4) カナンの地取得後の幕屋.カナンの地取得の後,会見の天幕はシロを中心として置かれていた(ヨシュア18:1,19:51,Ⅰサムエル2:22).士師18:31では,シロの聖所が「神の宮」([ヘブル語]be^t_‐ha~elo~hi^m)と呼ばれている(参照出エジプト23:19,[ヘブル語]be^t_ YHWH「主」の家」).ヨシュア記—サムエル記にかけては,幕屋についてよりも「契約の箱」のほうが言及の中心であるが(士師20:27,28,Ⅱサムエル6:2等),それは「契約の箱」が幕屋の中心的構成物であったからだと考えられる.この契約の箱がキルヤテ・エアリムに置かれ,後,ダビデの町シオン(エルサレム)に運び込まれるまで,幕屋それ自体は別な所,恐らくギブオンにあったのではないかと考えられる(Ⅰ列王3:4.参照Ⅰ歴代16:39,40,Ⅱ歴代1:3,13).しかし,その間の推移,それが置かれていた場所の詳細を知ることはできない.その理由は,(1)「契約の箱」の移動と幕屋との関係(士師20:27,Ⅱサムエル7:6)が不明確である,(2)王制以前の時代のミツパ,ベテル,ギルガルにおける「主のところに」とか「主の前に」(士師20:1,26,21:2,Ⅰサムエル11:15等)と語られている具体的な状況がわからない,ということである.この不明確さは,歴史書(ヨシュア記—列王記)の著者なり編集者の関心がその時代時代の祭儀の詳しい状況を伝えることではなかったからではないかと考えられる.<復> ダビデは,聖所の中心的構成物であった「契約の箱」をキルヤテ・エアリム(またはバアラ)からエルサレムに運び(Ⅰサムエル7:1,2,Ⅱサムエル6章),ソロモンが,建設した神殿にそれを安置したとあるが(Ⅰ列王8:1‐9,Ⅱ歴代5:1‐10),それ以後,旧約聖書は契約の箱についてあまり言及していない(参照Ⅱ歴代35:3).<復> 3.神殿.<復> (1) 用語.新改訳聖書で「主の神殿」(Ⅰ列王6:37等),「主の宮」(Ⅰ列王7:40,51,8:11等)と訳されているほとんどのヘブル語は,本来「主の家」を意味する「be^t_ YHWH」である(Ⅰ列王6:1.参照Ⅱサムエル7:13).神の神殿を指す用語として[ヘブル語]he^k_al YHWHということばがあるが,新改訳聖書はこれをほとんどの場合,「主の本堂」(Ⅱ列王18:16,23:4,24:13,エゼキエル8:16等)と訳している.新約聖書では,[ギリシャ語]hieronが「神殿」(マタイ4:5等),「宮」(マタイ12:6,21:12等)と訳されている.<復> (2) ソロモンの神殿.ダビデは神に「神殿」の建設を願ったが,それを実現したのはその子ソロモンであった(Ⅱサムエル7:13,Ⅰ列王6:1‐38).神殿を造るために,ソロモンはツロの王ヒラムにレバノンの杉の供給とフェニキヤ(シドン人)の技術者の雇い入れを願い出た(Ⅰ列王5:6,10,18,7:13,14).このことから,その神殿の建築様式や調度品の工芸などにフェニキヤやカナンの文化の影響があったことは容易に想像される.<復> 15万3千人を越すイスラエルの労務者を用い,7年の歳月を経て完成したソロモンの神殿の構造様式については,Ⅰ列王6,7章,Ⅱ歴代3,4章に記されている.歴代誌の記述のほうが詳しいが,これは両者の神学的関心の相違に由来するものと考えられる.<復> この神殿が建てられた場所は,「エルサレムのモリヤ山上…エブス人オルナンの打ち場」(Ⅱ歴代3:1.参照創世22:2,14)とあり,今日の旧エルサレムの神殿広場(Haram esh‐Sherif)である.神殿の本堂は,至聖所(または内堂〔[ヘブル語]deb_i^r〕,Ⅰ列王6:16‐22)と聖所から構成され,その大きさは奥行60×幅20×高さ30キュビトで,それに20×10キュビトの玄関([ヘブル語]’u^la~m)が付けられていた(Ⅰ列王6:2,3,Ⅱ歴代3:3,4).この本堂の平面の大きさは縦横とも天幕聖所の約2倍と考えられる.本堂の入口側(東側)を除く3側面には,本堂を取り囲むように脇屋([ヘブル語]ya~s∵i^a`)と呼ばれる3階からなる階段式の建物があった(Ⅰ列王6:5,6).歴代誌はさらに,本堂の前の2本の柱(Ⅱ歴代3:15),祭司たちの庭と大庭(Ⅱ歴代4:9)などに言及しているが,詳細は明らかでない点が多い.<復> (3) 捕囚後の神殿.このソロモンによって建てられたエルサレム神殿は,老朽化や外国勢力による損傷,破損により修復や増改築(?)が繰り返されて後(Ⅱ列王12章,18:16,22:3‐6等),前587/前586年にバビロン王ネブカデネザルによって焼き払われ,祭儀用具はバビロンに持ち去られた(Ⅱ列王25:9,13‐17).エゼキエルは,捕囚25年目に彼がバビロンで幻のうちに見た神殿の姿について,かなり詳しい記述をしている(エゼキエル40‐43章).それはソロモンの神殿と比べると,細部に異なる点や付加した所もある(例えば,玄関の奥行など).このエゼキエルの神殿は,歴史上,建設されることはなかったが,恐らく捕囚以前の増改築を経たエルサレム神殿がその姿に反映されていると考えられている.<復> バビロニヤの軍隊により破壊されたエルサレムの神殿は,約70年間廃墟となっていた.しかし,ペルシヤ王クロスの「神殿再建許可」の勅令がダリヨス1世によって再公布され(前520年),神殿は前516/前515年(ダリヨス王の治世の第6年)にゼルバベルの指導によって再建された(エズラ5,6章).この時,活躍した預言者は,ハガイ,ゼカリヤである.この神殿は前169年にアンティオコス4世・エピファネースによって略奪,冒涜されるが(参照:外典Ⅰマカベア1章21—24節,Ⅱマカベア5章15,16節),後,前164年,ユダ・マカベアにより清められ,再献された(Ⅰマカベア4章36—61節).<復> さらに,この神殿は前19年頃にヘロデ王によって修築が始められ,大部分の修築工事は10年で終ったが,最終的には46年の歳月を経て完成した(ヨハネ2:20).このヘロデ王による神殿建築は,宗教的動機からというよりも,ユダヤ人たちとの政治的和解のためのものであったと考えられる.やがてこの神殿も,紀元70年のローマ帝国によるエルサレム攻撃の時に破壊され,ここに「可視的な聖所」の歴史は終りを告げた.<復> 4.幕屋,神殿の神学的意味.<復> 神の聖所([ヘブル語]miqda~s^)である幕屋は,神が御自身の設計図に従って,イスラエルに建設を命じられたものである(出エジプト25:9).その神学的意味は,出エジプト25:8に「彼らがわたしのために聖所を造るなら,わたしは彼らの中に住む」とあるように,神が御自身の民の中に「住まれる」ことである(参照申命12章).さらに神はその聖所を通して民と交わりを持たれたのである(出エジプト29:42‐46).このように聖所の存在と神の臨在は不可分なものである.<復> 神殿の神学的意味も幕屋のそれと本質的に同じである(参照Ⅱサムエル7:13,Ⅰ列王6:12,13).<復> この幕屋や神殿の存在に示される神の「臨在」と神との「交わり」は,旧約聖書における契約の中心的・実質的内容であり,民の霊的・物質的祝福はすべてその延長上にある.さらに幕屋と神殿は,神がかつてシナイ山で臨み,イスラエルと契約を結ばれた同じ状況が,今もイスラエルに継続されていることを知らせるものであった.この神殿の神学的意味を考える時,なぜ,後に生れたユダヤ教が旧約聖書から逸脱し,律法主義化した宗教となったのかを理解する一つの示唆が与えられる.バビロニヤによるエルサレムの神殿の破壊と消滅は,律法の「神学的前提」であるイスラエル民族との「契約」が事実上破棄されたことを意味する.ここから,律法を契約という救済論の中ではなく,創造論の中で理解せざるを得なくなり,律法主義的宗教が生れたと考えられるのである.<復> レビ記や民数記にある大部分の律法は,幕屋と神殿における神の臨在を前提とし,神の民=イスラエルの内に臨在される聖なる神との交わりを維持し,また回復するためのいわば「礼拝規定・指針」であった.神のイスラエルにおける臨在(内在)と交わりにおいて強調されている神の性質は,「聖」([ヘブル語]qo~d_es^)ということである(レビ11:44,45,19:2,20:26等).旧約聖書において,この「聖」は独占的に神に属するものであり(参照ホセア11:9),会見の天幕・祭儀用具さらに祭司が「聖」であるのは(出エジプト30:17‐33,40:9‐15,レビ21:7,8等),そこに神が「臨在する」ことに由来する(参照出エジプト3:5).さらにはイスラエルの民が「聖」と呼ばれるのは(レビ20:26等),神が与えられた礼拝(交わり)のための資格([英語]status)である.このイスラエルの「聖性」は,祭儀や律法の遵守によって得られるものではなく,ただ神の選びに基づくものである(レビ20:22‐26).<復> 5.新約時代.<復> 旧約聖書の可視的幕屋と神殿の果した役割は,イエス・キリストの来臨,十字架,昇天によって終りを遂げた(参照マタイ27:51).なぜなら,このイエス・キリストこそが,新しい契約において「まことの神殿」(ヨハネ2:19,20)となられたからである.キリストを信じる者たちの集まりである「教会」は,キリストの住まれる霊的「からだ」であるゆえに,神の臨在される「神殿」と呼ばれ(Ⅰコリント3:16,6:19,エペソ1:23.参照マタイ18:20等),またキリストを通して,神との交わり=礼拝が可能となったのである(ヨハネ14:6,エペソ3:12,コロサイ1:20‐22,ヘブル9:1‐15等).<復> このように「まことの神殿」であるイエス・キリストは,旧約時代の幕屋・神殿が果した「神とともに生きる」(神の臨在),「神との和解」(交わり)をより完全な姿で実現されたのである.(→図「幕屋平面図」「ソロモン神殿」),→祭司・大祭司,シナゴーグ,礼拝.<復>〔参考文献〕T・C・フリーゼン『旧約聖書神学概説』日本基督教団出版局,1972;R・E・クレメンツ『旧約聖書における神の臨在思想』教文館,1982;Haran, M., Temple and Temple Service in Ancient Israel, Oxford, 1978 ; Woudstra, M. H., The ark of the covenant from conquest to kingship, Presbyterian & Reformed, 1965.(三野孝一)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社