《じっくり解説》神存在の証明とは?

神存在の証明とは?

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神存在の証明…

1.「神は—そして神だけが—人間の最高善である」(H・バーヴィンク)と言われるように,「神」は人間の生と全世界についての有意味的理解と経験にとって土台であり,基準であり,目標である.時代の古今や洋の東西を問わず,宗教・哲学・文学・倫理学等において人生の起源・意味・目的・帰着点などが追求され,また生々流転してやまないこの人生と世界の中に,あるいは背後に,永遠・無限・不変なる存在が思慕憧憬され,不老不死物語が形を変えては繰り返し著されてきた.また学問や技術が発達していく人間の歴史そのものが,人間生活の向上と改善の努力,さらに(死に至る)苛酷な自然的諸条件からの人間解放の企図を証言している.<復> これらすべては「救い」すなわち「神」の発見と体験の悲願と努力の歴史であると約言できよう.神存在の証明は,多くの人間が(その究極的成功の不可能なることを痛感しつつも)飽くことなく試みてきたが,その限り,人類の歴史は,人間と世界の意味と目的の確立のための,最高善としての(特に人間社会における倫理的生の有意味的定立のための準拠点としての)神の存在証明の企図の歴史であった.<復> 2.福音宣教によるキリスト教信仰の告白と弁証もまた,上述の脈絡においてなされてきた.しかしそれは,人間の願望や要請から上昇的に神と神的真理を追求し認識するこの世の宗教のようにではなく,キリストにおいて真に人となられた生ける真の神の歴史的出来事を宣布するという下降的方向において,神と神的恩恵的救済真理とを証言し伝達するのである.<復> しかし,キリスト教教理の中心の一つであり福音宣教の前提となっているのは,人間の全体的堕落,すなわち人間は神の前に罪人として神の怒りの対象であり,その堕落は人間本性の全体に及び,その神認識も歪曲しており,従って自己救済が全く不可能であるということである.それゆえ,キリスト教真理の伝達も,究極的には聖霊による罪人の再生恩恵を待たねばならず,また神存在の証明も決して罪人の理性あるいは道徳性に直接訴えることはできない.それゆえ神存在の証明は,間接的,蓋然的性質を免れない.しかしそれにもかかわらず,キリスト教会は,この世の誤謬のただ中で神的真理の告白と擁護にその論証を試みてきた.これは決して不可能なことをする無意味な企てではなく,むしろ(聖霊の導きと恩恵を期待し前提視した上での)宣教的責任性と熱心さと解すべきであろう.<復> 3.存在論的証明.<復> これは「神」概念そのものからそこに含まれるべき属性を導き出すア・プリオリな証明方法で,古くはアンセルムス,近代ではデカルト,スピノーザ,ライプニツ,現在ではC・ハートショーンなどがその代表的唱道者である.彼らの教説の共通性に従えば,次のように立論される.すなわち,「神」はそれ以上大なるものを想定することのできない最高完全存在であり,それゆえそのような存在である以上,それはただ観念において存在するだけでなく,現実にも存在するのでなければならない.言い替えれば,神はその定義上存在という属性を必然的に持つのである.あるいは絶対完全存在が存在可能なら(誰もア・プリオリにそれを否定することはできない),それは必然的に存在しなければならない.ところで,絶対完全存在が存在することは概念上矛盾していない.それゆえ絶対完全存在は存在するはずである,と立論される.<復> これに対する反論は(その代表はトマス・アクィナス,カント,ヒューム等),存在論的証明の致命的欠陥は観念における必然性と現実存在における必然性とを混同している点にあるとする.すなわち,上述の論証で確立されているのは,最高完全存在の存在という論理的命題における首尾一貫性であって,そのような存在の現実的存在などではない.「神」概念は万人にとって必ずしも明瞭ではなく,またそのような神が存在するというのは,その命題上の真理であっても,われわれにとって真理であるという保証はない.またいかなるものも,その反対事象が矛盾を引き起すのでない限り,合理的に実証されたとすることは必ずしもできず,またわれわれが存在すると考えるものを反対に存在しないと考えても差し支えない.すなわち,存在しないことが矛盾を引き起すようなものは存在せず,従ってその現実存在が合理的に実証され得るようなものも存在しないことになり,神も例外ではない.<復> われわれは上記存在論的証明の所説そのものを採ることはできないが,しかしそこに一つの真理契機があることも事実である.後述のア・ポステリオリな証明方法も究極的には説得的でないことが明らかになる場合,キリスト教的神存在論証は根本的にはこの「存在論的」方法しかないであろう.すでに述べたように,福音宣教は上から下への宣言であり,神存在についての認識は神御自身の自己啓示に基づく以外にはない.キリストの受肉と贖いや,聖霊の降臨と再生も,キリスト教「神」観の中心的部分であり,たといそれらが歴史的事実であるとわれわれが主張しても,それはすでにキリスト教使信における命題,すなわち神の存在とわざの「教理」からの演繹にほかならない.こうして神存在の証明は,根本的に一定の世界観なりパラダイムの中での論証となるのである(ヴァン・ティル).<復> 4.宇宙論的証明.<復> これはア・ポステリオリな証明方法であるが,この中には,(1)運動による証明,(2)能動因による証明,(3)偶然性による証明が含まれる(トマスの五つの証明の最初の三つ).(1)は,世界の運動の事実から帰納して次のように論じる.すなわち,いかなるものもそれ自身で運動することはできず,必ず他の原因によって運動している.しかしこの被動者から動者への遡及を無限に続けることはできないゆえ(なぜなら最初の動者がなければ,第2の動者もなく,従っていかなる運動もなくなることになり,経験的事実に反する),最初の動者が—それが不動であれ(アリストテレース),自己原因的であれ(プラトーン)—存在しなければならない,とする.(2)は,諸事象の因果関係から帰納して,次のように論じる.すなわち,いかなる事柄も他の事柄を原因としており,その原因もさらに他の何かに起因している.しかしこれもまた因果連鎖の無限後退は不可能であるから,究極的原因がなければならない,とする.(3)は世界の諸事象は存在しないことも可能であり,また存在しなかった時があったかもしれない.従って可能的存在はすべて偶然的存在である.しかし現に存在している以上,それを存在させた必然的存在があるはずである.この必然的存在は,他によって必然的なのか,それ自身によって必然的なのかであるが,前者の場合,これも無限後退は不可能であるから,最初の必然的存在を認めなければならないことになる,というものである.そしてこれらの帰結である最初の動者,第一原因,必然的存在が,神であるとする.<復> これに対する反論としては(ヒューム,カント等),次のようなものが挙げられる.すなわち,有限な結果から推論されるのは有限な原因でしかなく,そこから帰納的に導き出される神も有限な神でしかない.また因果関係における必然的連関は人間精神による諸事象の関係付けの所産であり,事柄それ自体の必然性ではない.さらに因果性は時間における前後関係であるゆえ,時間的前後関係を云々し得ない永遠連鎖においてはその第一原因などあり得ず,従って諸事象の連関の無限後退は論理的には可能である,などが挙げられる.<復> 確かに,このような因果連鎖から導き出される神が有限でしかないことは正しいし(ヴァン・ティル),またこうした宇宙論的証明はひそかに論理的必然性を中心とする存在論的証明を前提にしている(カント).それゆえ,われわれもまたこのような証明方法にくみすることはできない.しかし今日周知のごとく,いわゆる熱力学第2法則は,(他に変化を起さない限り)高温物体からの低温物体への熱の不可逆的移動と拡散及びこれによる宇宙のエントロピーの増大を示し,いわゆる永久運動機関の不可能なることを立証した.これを宇宙に溯源的に適用すれば,宇宙の永遠的自己原因的運動は不可能になり,その終焉(熱平衡状態)とともにその何らかの外的原因による始まりをも要求せざるを得ない.もとよりこれが神による天地創造を証明することにはならないが,しかし,宇宙の非自己原因的始まりを論証しようとした宇宙論的証明の一面の真理契機を支持していると言えよう.<復> 5.目的論的証明.<復> これはトマスの五つ目の神存在証明であるが,宇宙論的証明と同様,ア・ポステリオリな議論である.近代ではペイリ,テイラーなどが代表的主張者である.これによれば,この世界は決して画一的ではなく,多種多様な諸事象が複合しているが,しかしそこには,自然界にも,人間の生にも,両者の間にも,一定の秩序と美的調和や計画ないし意匠がある.そして,これらの多様な事物は一定の終局または目標に向かって運動している.それゆえ世界のこの合目的的性質を可能にし,かつ説明し得る,最高の知性を持つ計画者が存在するはずであり,それは神である,というものである.<復> トマスはこのほかに第4の証明として,完全性の段階による神存在証明を試みている.これは宇宙論的証明と目的論的証明の中間的な性格の論証方法であり,またその価値論のゆえに(後述の)道徳的証明にも関係している.それによれば,この世界にはより多く完全であるものとより少なく完全であるものとが存在しているが,これらの完全性の相違の背後には最高完全存在があるはずである.なぜなら,完全性の度合についてより多くとかより少なくとか判断できるのは,この最高完全者を前提及び尺度とすることによるからである.さらにこの最高完全者は,存在するあらゆる価値の源であり,それらはこれに関与してのみ価値あるものたり得るのである.この最高完全者は神である,と言われる.<復> これに対する反論としては(その代表はヒューム,ラッセル,カント等),世界の諸事象間の手段=目的関連性は偶然の結果かもしれず,あるいは「進化」の結果かもしれない.いずれにせよ,作者としての神を想定しなければならない必然性はない.また目的論的論証は世界における秩序や意匠の経験に基づいているが,しかしわれわれはそれらの相対的現象からは,結局有限で相対的存在と知性しか知り得ない,と言われる.<復> 6.道徳的証明.<復> これは論理的必然性や,自然界からの推論による蓋然性に基づく前記の証明方法とは異なり,人間の道徳的実践的要請に基づく論証であり,近代ではカント,現代ではC・S・ルーイスなどがその代表的唱道者である.カントによれば,神存在や霊魂の不死性などを含む神学的論証はすべて,現象界における理論的認識構成の対象外の事柄で,学的認識の成立しない叡知界における道徳的実践的認識の対象である.人の義務は徳の実現,すなわち自己の意志を,ア・プリオリな能力である実践理性の立てる道徳法則に従わせることであるが,これに人が望む幸福が伴ってこそ,最高善となり,最高善の追求と実現こそは人間の最高の倫理的目標である.しかし徳と幸福との必然的結合をなし得るための根拠は,この現実世界や有限な生においては全くない.しかしカントによれば「為すべきは為しあたう」のであるから,それら両者の結合を実現させるべき神の存在と,それが可能な時としての霊魂の不死とがどうしても要請されなければならないことになる.<復> このような論証は,カントにおいては決して,論理的必然性を持つ「証明」ではなく,人間の道徳的経験の有意味性の確保のための要請であった.しかし後の道徳的証明の提唱者たちは,それに普遍性を持たせるために,論理的必然性,特に道徳法則の客観性の議論を加味した(ラシュドル,ソーレー,特にルーイス等).これによれば,例えばわれわれの社会的倫理的生活においては道徳法則の前提視は不可避的であり,これを否定することはまさに無法である.しかもこの道徳法則は弱肉強食などの動物的本能ではあり得ないし,また単なる社会の発明や約束事でもない.それは個人を超え,集団でさえも超える普遍的性質を帯びている(そうでなければ道徳的基準は社会によって相対的となり,例えばナチス・ドイツの行為が倫理的に非とされるいわれはなくなる).また道徳法則は当為を決するもので,事柄を記述する自然法則とは異なる性質を持っている.そして,勧善懲悪の心理と思想はほとんど普遍的であり,これは人間における道徳的責任性の原因及び道徳的行為の基準となっている.それゆえ道徳法則は自然からでもなく,人間自身からでもなく,それらを超えた絶対的完全精神から与えられると見なければならない.こうして,その起源及び根拠として神が措定されるのである.<復> こうした神存在証明に対しては,悪の現実の問題が持ち出され,神の善性,全能性,存在のいずれかあるいはすべてが否定されることになる,という反論がなされる(ラッセル,プセッティー,マッキー等).<復> 7.以上に歴史的に提唱されてきた神存在証明の主要類型を略述したが,すでに明らかなように,それらはことばの厳密な意味における「証明」ではなく,一定の前提と枠組みにおける神的存在についての説明であった.有限にして罪深い人間が無限者・絶対者なる神的存在を証明することはとうていできない.神は—いやしくもその名に値するのなら—その定義上証明できないのである.<復> それゆえ,全体的,自己救済不可能的堕落を説くキリスト教宗教は,その神的真理を未信者に直接的に論証することはできない.それは秩序や調和も悪や悲惨も含めた世界と人間の生の全事象を,いかに首尾一貫した仕方で統合的,有意味的に関連させ得るか,説明し得るかという,間接的論議を企図する以外にはない.例えば,宇宙論的及び目的論的証明を拒否して,この世界の成立ちと成行きを全くの偶然あるいは運命に帰することは,人間の生と文化的営みにとって積極的な意味を持つのだろうか.また道徳的証明への反証とされる悪の問題の場合,それでは神を—全能でしかも恩恵的な神を—否定すれば,それを人間の倫理的生に有意義なように積極的に説明し得るのであろうか.<復> 上述のすべての証明は,明らかに特定の前提に立脚しており,決して万人に中立的ではなく,その限りにおいて,客観的,普遍的妥当性を欠くと言えよう.しかしそれと全く同じ程度に,それらの証明に対する反論もまた特定の前提に立脚しており,普遍的説得性を欠くと言わなければならない.神が存在するのなら悪はないはずだというのは,神の全能性と人間の自由意志及び責任とを統合的に理解し得ない思惟の性質に支配されているからである.また自然科学的認識を客観的普遍的真理と見,キリスト教信仰と神学を主観的,実存的真理と見なすことも,後者を前者から救い出してその独自性と尊貴性を確立することには至らず,かえって後退させてしまう.今日,例えばパラダイム理論などの提唱により,前科学的次元への洞察が進み,科学主義が挑戦され,再考されつつあるが,しかしそれでも人間と世界に備わっている合理性と超合理性とを真に有意義な仕方で統合することは困難である.<復> キリスト教有神論体系においては,神の存在とわざがその前提・中心・目標であるが,しかしそこには人間の使命と光栄,人間の罪と神の罰としての死や世界の悲惨,被造物としての世界の秩序と生成の仕組,人間の救済と歴史的,文化的営みとその発展の原理など,広範に及ぶ事柄がすべて含まれており,しかもそれらすべての前提・中心・目標である神との不可分離的関係において相互連関的に位置を占めている.同様にこれらの事柄を統一的に把握しようとする他の立場もあることも事実である.それゆえ,世界と人間の統合的理解のための前提と立論と帰結とに関して,キリスト教有神論と他の立場との間で批判的検証が不可欠となるのである.<復> 8.われわれが神存在論証をなす際,その出発点となるのが聖書のことばであることは言うまでもない.ローマ1:19,20によれば,神の存在と働きは天地創造以来明らかであり,人間には神についての無知の弁解の余地がないと言われる.これは言うまでもなく,自然界自体が神的性質を帯びているからではなく,それのみが被造物として神の自己啓示の手段及び場とされているからである(使徒14:17,17:27).しかしこれは,罪人が神の再生恩恵なしに神を倫理的,救済論的意味において知っているということではない.このように解することは,罪人の全体的堕落を否定する自然神学の誤りである.この意味においては,罪人はまさに神をあがめず,感謝もせず,思いの空虚さ,心の無知と暗黒及び硬化(ローマ1:21,エペソ4:18)に陥っているのである.しかしそれにもかかわらず人間が神を認めていると言われるのは,創造に基づく人間としての恒存的存在論的構造のゆえに,創造の秩序を通して自己啓示される神に反応し,あるいは神を感得しているからである.罪人はその意識においてそれが神の啓示であるとも知らず,しかしその現実において,しかも背教的方向において神に応答しているのである(使徒17:23).いかなる罪人にもその社会にも一般的に良心や勧善懲悪思想が見られるのは(ローマ2:15),こうした事実の現れである.<復> それゆえわれわれは,自然啓示のこうした意味における十分性と自然神学とを混同してはならない(これは自然啓示を否定したバルトの誤りでもある).人間は神のかたちに創造されたが,その事実は罪への堕落と神の加罰にもかかわらず不変的であり,それに基づく存在論的構造と機能も恒存的であって,それゆえ人間としての様々な能力を十分鋭く発揮し続けることができるのである.しかも神は堕落後の人間を救うために,滅ぼされてしかるべき人間の諸機能と世界の秩序とを保持された.このことの中に,神存在の証明を含む,未信者に対するキリスト教使信宣教の可能性の根拠を求めることができるのである.→弁証学,神論.<復>〔参考文献〕K・ピオヴェザーナ『自然神学』中央出版社,第3版1968 ; Bavinck, H., The Doctrine of God, Baker, 1977 ; Eicher, P.(hrsg.), Gottesvorstellung und Gesellschaftsentwicklung, Ko¨sel, 1979 ; Geisler, N., Philosophy of Religion, Zondervan, 1974.(市川康則)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社