《じっくり解説》キリスト教と文化とは?

キリスト教と文化とは?

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キリスト教と文化…

1.文化を巡る現代的状況.<復> 文化とは「人間が,その精神の働きによって地上に作り出した,有形・無形のものすべてで,学習によって伝承してゆくもの」であり,「特に,その物質的所産を『文明』と言うのに対して,その精神的所産を言うことが多い」(『学研国語大辞典』).この精神的所産の総体としての文化概念は,文化人類学における文化概念に対応している.ところで,この文化概念は,民族文化に関し,文化相対主義をもたらし,キリスト教文化の優位に対しても新たに疑問を投げかけた.それとともに,国際交流の拡大は,人類の一員として体得すべき人類文化をすべての人に要請し,「キリスト教文化」がこの要請に応え得るか否かを問い直している.キリスト教はその出現以来20世紀にわたり,世界宗教として人類全体を射程に入れた独自の文化的伝統を継承し,その文化圏を形成してきた.この「キリスト教文化」は,世界の民族文化とどのようにかかわり,人類的統合を実現してきたのであろうか.原始キリスト教は,古代ローマ文化圏においてすでにこの問題の克服の道を示唆していた.すべての文化は,そのコミュニティの生活が愛と正義の理念に従って秩序付けられ,制度化された時,伝統的生命を獲得し,現実の力を獲得してきた.この事態は民族文化の次元にも人類文化の次元にも妥当し,倫理と文化の本質的連関を示唆している.実際,それぞれの地域におけるこのような理念に基づいた生活の統合としての民族文化は,それぞれの文化圏で生活する人々の生きがいと性格を形成して今日に至っている.そして,同じ理念が,今日,世界の諸国民並びに諸民族を人権と隣人愛を基調とする人類コミュニティの成員とし,激動する国際関係にあって新しい人類の文化と秩序の確立を促している.そして,この民族文化と人類文化に通底する理念を提供したものこそ,ローマ帝国における原始キリスト教であった.ここに,キリスト教文化圏形成の基盤が与えられ,現代に通じる民族文化と人類文化との生命的統合の萌芽が生じた.この人類文化の可能性は,現代の哲学的人間学や精神分析学の成果からも示唆され得よう.哲学的人間学の巨峰,A・ゲーレン(1904—76)は,人間を行為するものととらえた.行為とはある目的に合せて自然に変更を加える活動であり,文化とはこの人間の行為を通して変更を加えられた自然のことである.それは,そこで成長し性格を形成する人々にとっては生育環境であり,学習を通して習得される伝統的なものである.この文化の複合体が社会である.その社会では,そこに生活する人々への外的規制としては法律等の制度が,内的規制としては道徳が機能する.そして,そこに生活するすべての人の自由で平和的な交流を可能とし,人格的交わりを保証するのが愛と正義の理念である.この理念は,交わりに開かれた世界を人々に示し,新しい秩序を生み出し,その性格を形成し,新しい伝統と文化を造り上げてきた.私たちは,特定の文化圏に妥当する行動規範を道徳と名付けるとすれば,この開かれた交わりの世界における,人間に普遍的な行為規範を倫理と名付け得よう.また,精神分析学者E・H・エーリクソンは,文化形成の主体としての人間の成熟への洞察を提供した.彼は,精神の漸成的発達を通して,人間がその文化圏における道徳を通して性格を形成し,その文化圏の理念をもとに青年期に自己のイデオロギーを形成し,成人として家庭やコミュニティの形成者となり,倫理的存在へと成熟することを明らかにした.このように,文化的伝統の継承は人間の置かれた民族文化への主体的連帯の経験である徳の発達と深くかかわっている.これらは,倫理的宗教であるキリスト教が,世界の各地でそれぞれの民族文化を確立しつつ,全人類的文化にそれら民族文化を統合し,キリスト教文化圏を形成してきた背景を洞見させる.<復> 2.キリスト教の歴史と文化.<復> キリスト教は,諸民族文化をどのように統合したのであろうか.キリスト教は,ユダヤ教を母として,帝政下の古代ローマ世界に出現した.ローマ帝国における諸民族の文化はキリストを中心とする信仰の交わりを通して統合され,コンスタンティーヌス大帝のもとキリスト教は国教と認められ,一大文化圏の形成が可能となった.ローマ帝国の没落後,さらにゲルマン社会の習俗も統合され,西欧はキリスト教世界として文化的に統合された.宗教改革は,それら精神世界をローマ・カトリック教会への一元的帰属から解放し,人々を信仰による人格的自由へと覚醒させ,自由で民主的な社会の成立を可能とした.この近代的自我の成果である科学と技術は,人類に共通の文明をもたらし,20世紀後半,人類は一つの人類社会へと胎動している.ところで,キリスト教は,見える教会(地域教会)と見えない公同の教会(来るべき神の国)との区別において,初めから民族と人類とを統合の射程に入れていた.今日,キリスト教は民族文化を地域に密着した地方教会の育成を通して支えるとともに,世界教会協議会等の活動を通して全人類的交わりを実現し,人類の相互理解に向けて努力している.この途上で遭遇した事態に,人類文化形成の観点から若干の考察を加えたい.<復> (1) 古代ローマ文化とキリスト教.古代ローマ帝国は,帝国内の民族文化への徹底した寛容と皇帝礼拝を通してローマの平和を実現しようとした.この文化相対主義に対して,キリスト教はむしろ,伝道に際して民族文化を尊重して人類文化形成に携わってきた.古代ローマ文化は,H・リチャード・ニーバーによると「きわめて多種多様な慣習と諸宗教とを含んでいたので,その構成員たる諸国民がもっていた多くの混乱した伝統や儀式に対して敬意と同意とが与えられさえするならば」存在を許すという社会であった.ここに,古代ローマ文化がキリスト教を拒否するとともに,最終的には,キリスト教に文化形成をゆだね,没落せざるを得なかった理由があった.古代ローマは奴隷制社会であり,平和の到来により奴隷の獲得と再生産の道が閉されたため,都市生活は崩壊し,地方への植民を通してゲルマン社会へと移行し,没落した.この間にあって,キリスト教は古代ローマ帝国内の文化を救い,人類に新しい統一世界を準備した.<復> (2) ゲルマン社会とキリスト教.ゲルマン社会は,その所有形態と思惟様式において原始キリスト教と背景を異にしていた.その所有形態の特性は,習俗的に形成された家屋敷を中心とした,階層的な人間関係に担われていた.ゲルマン社会への伝道は,首長を中心とした一族単位の改宗であったため,教会はその社会体制と習俗の影響を受け,ローマ・カトリック教会はそれに準じた制度を確立せざるを得なかった.また,サラセン文化を介して導入された古典ギリシヤの哲学は,スコラ哲学の形成に貢献した.このスコラ哲学において展開された中世後期の普遍論争は,それ以後のヨーロッパの精神史を予示し,宗教改革を準備した.その中心問題は個人の信仰と,諸聖人の功績が蓄積されている教会の救いに対する有効性にあった.<復> (3) 宗教改革とその影響.ルターは,「信仰義認」の立場に立って,個人の信仰のみを救いの条件とした.それは,ルターが聖書の研究を通して得た確信であった.彼は,中世を通して聖職者のみが近付き得た聖書をすべての人々が近付き得るドイツ語に翻訳し,人々にキリストとの主体的出会いの道を開いた.このことは,個人を教会の呪縛から解放し,近代的個我を解放した.この解放された個我は,聖書の研究を通してそれぞれの地方に独自の教会を形成し,社会を主体的に形成し,さらに独自の民族文化の形成に貢献した.また人々は,自由に自然の研究に向かい,科学・技術の研究・開発を通して産業革命を遂行し,近代資本主義社会の到来に貢献した.ところで,ドイツ観念論を経由した思想は,19世紀末には「主体性こそ真理である」との自覚のもと実存としての人格の意義を明確にした.また,20世紀の2度にわたる世界大戦は,人格的交流を通して実現される人類の平和的統合こそすべてに優先する人類的課題であり,価値であることを明らかにした.このことは,近代的個我の限界を明確にし,人格的交わりの中に自己を見出し,人格的自己としてのアイデンティティーの確立を要請している.今日の全地球的運命共同性は,愛と正義に根ざす倫理的秩序の確立,すなわち人格的普遍性に基づく人類文化の形成を訴え,主体的に共同体を担い得る人間の成熟を要請している.<復> (4) 教会と文化.歴史的に宗教改革を通して形成された諸教会の文化に対する態度を総括することは,キリスト教文化への正しい洞察を得るため重要であろう.H・リチャード・ニーバーは,キリストと文化との関係を五つの類型にまとめている.第1の類型はキリストと文化との対立を強調し,「キリスト者に対するキリストの独占的権威を非妥協的に承認し,また文化が自己への忠誠を要求するときこれを断固拒否するような」「反文化的キリスト」の立場である.第2の類型はキリストと文化との間の根本的一致を承認する,「文化のキリスト」の立場である.この立場は「福音の普遍的意味,つまりイエスに選ばれたわずかばかりの聖人の群れではなくて」キリストは「世界の救世者であるとの真理を効果的にする」ものであり,文化を民族文化を超えた人類文化に関係させる.それを人格関係における文化として理解する時,それは来るべき神の国において完成される文化でもある.残りの三つはこの両者の中間に位置している.第3の類型は「キリストは文化のキリストであると共に,文化の上にあるキリスト」であるとする総合主義者の立場で,キリストと文化を総合的にとらえるトマス・アクィナス等に代表される.それは,民族文化との習合における統合を通して自己を形成したすべての教会に共通にその反映を見ることができる.第4の類型は,「キリストと文化の両極性と緊張関係において」生活することを余儀なくされた社会において展開された.「矛盾におけるキリストと文化」の立場であり,典型的には二重真理,二重道徳を説くルターによって代表される.「問題は神の義と自我の義との間に」ある.前者が人格的交わりにおける義であるとすれば,後者は民族文化における義の問題であった.この両者は,人格的秩序の要請が明確になってきた今日,初めて倫理学的に見通し得るものとなった.そして第5の類型は,「キリストは人間を,自己の文化と社会から離れてではなくて,それらの中で改心させる」とする回心主義者の立場であり,典型的にはカルヴァンに代表される立場である.この五つの類型は,少なくとも,倫理的主体としての人格概念が確立されていなかった宗教改革の時代にさかのぼり得る.そして,全人類的文化圏が人権と人格を中心に倫理的世界として展開している現代,キリストにおける交わりは,公同の教会として民族文化を包摂しつつ,全人類的キリスト教文化を導き出し,倫理的主体における統合を実現しつつある.また,地球環境の悪化と人間の罪の現実は,この問題の究極的解答が主の再臨を通して出現する新天新地に待たなければならないことをも明らかにしている.今日,教派は,それぞれの民族文化等の伝統を担いつつ,キリストのからだの多様性と統一性の成熟に貢献するとともに,地の塩・世の光として,この世を腐敗と崩壊から守る役割を担っている.<復> 3.キリストの教会と文化.<復> キリストのからだである教会は,コミュニティの展開とともに,正義と愛を担う主体的力として徳を漸成的に体現し,倫理的にも成熟しつつ,人類文化の形成主体として機能してきた.また,地の塩・世の光として世俗世界にその理念を浸透させつつ,今日の統一世界の到来に貢献した.民族文化とその道徳が,血縁・地縁における正義と愛を実現する主体的力であったとすれば,人類文化は,人権の尊重と人格的交流を可能とする倫理的世界において可能となる.以下において,人間の倫理的成熟を精神分析学の成果をもとに確認するとともに,日本の伝統的文化と考えられてきた「イエ<社縁>社会」が単なる幻想にすぎないことを確認したい.<復> (1) 倫理的世界の成立と人間の発達.教会の文化史的意義は,倫理的世界の形成にあった.すでに言及したように,E・H・エーリクソンの人間精神の漸成的発達とE・フロムの社会倫理的な善悪の考察は,人間の倫理的成熟に対応している.大人は,交わりと社会形成の主体であり,主体性,覚醒性,成熟性,実存性において生活する.すなわち,主体的に物事を受け止め,時と所をわきまえ,成熟した判断を下し,真の自由において物事を全面的に調整する.人間は,子供から大人へと成熟する.それは人間精神の発達に担われ,人間関係の豊かさに支えられる.E・H・エーリクソンは人間精神の漸成的発達段階を,徳のスケジュールとして展開した.幼小児期から学童期に至る徳は,希望・意思・目的・能力感である.これらは漸成的に性格的自我を形成し,その人なりの個性を確立する.これを可能とするものが,その社会の内的規制としての道徳である.道徳的に性格を形成された人間は,人格としての自己のアイデンティティーの確立を求めつつ,青年期の徳である自己の理想への誠実において自己の精神世界を統合し,イデオロギーを形成し,豊かな交友関係を形成する.この幼児期から青年期に至る徳(希望・意思・目的・能力感・誠実)は,成人して社会の積極的形成者となる準備段階の徳である.ここに将来社会を形成する主体としての人格が完成し,倫理的に文化と伝統の形成者となる資格が与えられ,青年は希望に生きるものとなる.青年期の課題を達成し,若い成年期には,人間は異性を愛し結婚して家庭を営み,子供を産み育て,コミュニティ形成に責任を持って参加する.ここに人間は完全な意味で倫理的存在となる.この時期の徳は,子供や家族やコミュニティを組織する力としての,「配慮」である.配慮を通して,社会は豊かに形成され,成長する.さらに社会的実践を離れ,距離をおいて社会を統合的に見られる年齢に達すると,より豊かで平和的な社会のために次の世代に伝えるべき事柄が見えてくる.このような力としての徳が知恵である.この知恵において,人間は民族文化と人類文化の真の統合者となる.これら愛・配慮・知恵という徳は成人の徳であり,愛に総括され得よう.徳のスケジュールにおいて,徳は八段階に分けられているが,成人に主体的に自覚される徳は,信仰・希望・愛である.キリスト者は具体的には,無限の愛である神への信頼と,自己の将来属すべき神の国への希望と,現実に助けを必要とする隣人や社会的弱者に対する愛に生きつつ社会を形成する.そして,キリストの福音を信じ,キリストにあってその内包する人間関係を忠実に歩み行く時,この三つの徳は主体的に体現され,キリスト者の内側にキリストにかたどった新しい品性が賦与される.それは,キリスト者の歩みを支える聖霊の賜物である.ここに新約の民が大人と言われる理由が見出されよう.ところで,人間には人格的成熟に到達する道が二つある.一つは母の胎に入り,そこから始める通常の道であり,これは罪のために本来の成果は期待し得なくなっている.もう一つは聖霊に導かれ,福音を信じて歩むことにより実現される道である(ヨハネ3:1‐15).地の塩・世の光としての教会の使命の成就は,これにかかっている.このことは,社会倫理的観点におけるE・フロムの善悪の研究により補強される.精神分析家E・フロムは,善悪を社会の成長や衰退をもたらす人間の生活の構えと関連付けてとらえ,それら「構え」のもたらす症候群ととらえている.社会の成長,すなわち新しい人間関係の展開は,いのちあるものを愛する構え,外国人・隣人・自然への愛の構え,そして自由と独立を尊重する構えのうち二つ以上が支配的な社会における,それらのシンドロームである.それに対して,いのちのない機械等を愛する構え,自分のことのみを考える悪しき自己愛の構え,近親相姦共生の構えのうち二つ以上のシンドロームは,人間関係を断ち切り,社会を衰退させる.そのような社会にあっては,社会的理想の共有,家庭を構成肢とするコミュニティの形成的展開は不可能となる.この二人の研究は,エデンの園の中央に置かれた″いのちの木″と″善悪の知識の木″とが,人間の成熟に関係していたことを推測させる.それとともに,キリストが,道であり,真理であり,いのちであり(ヨハネ14:6),すべての完成者であることをも確認させる.キリスト者は,他の文化のように太古に理想を求める必要はない.エデンの園の約束は,すべてキリストにあって成就している.実にキリストは文化の完成者なのである.<復> (2) 日本文化とキリスト教.以上の考察は,イエ社会としての日本における人間的成熟や成長のシンドロームの可能性を問いかけている.その答は,今後の教育と福音の宣教にかかっている.人間の発達段階から見る時,甘えの構造,すなわち幼児的依存性に生きる日本人の精神構造の問題性は明らかである.そこには,E・H・エーリクソンの意思・目的以降の徳目の漸成的発達への努力はなく,性格形成と人格形成への展望と機会は奪われている.また,日本は就職を機に企業に終身雇用され,その企業への忠誠と引き換えに一生を託さざるを得ない<社縁>社会である.実に,コミュニティ不在と企業への家庭の従属が日本の経済成長の条件であった.コミュニティは企業と行政を通して分断され,社会は衰退の症候群を呈し,その実態を喪失している.しかし,余暇の増大に伴うコミュニティ組織化の要請は,在留外国人に対する日本社会の反応や,教育における個人の自由と独立への行政的配慮等を決定的要件とし始めている.これらの問題を克服し人類的な広がりを持つコミュニティへと日本とその文化を救うかぎは,キリストの福音の進展にかかっている.今日,世界のすべての教会は,その文化圏にあって克服すべき問題と取り組んでいる.再臨を待望しつつ平和な家庭とコミュニティの組織化に向け世界の諸教会と連帯して歩み出すことが,日本文化を救う道であり,現代を生きる日本の教会の文化的使命である.→福音と文化,コンテキスチュアリゼーション・神学の.<復>〔参考文献〕H・R・ニーバー『キリストと文化』日本基督教団出版局,1967;E・フロム『悪について』紀伊国屋書店,1986;R・I・エヴァンズ『エリクソンは語る』新曜社,1988;A・ゲーレン『人間学の探求』紀伊国屋書店,1975.(宇佐神正明)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社