《じっくり解説》心理学とキリスト教とは?

心理学とキリスト教とは?

心理学とキリスト教…

心理学は有機体(生物)の行動に関する科学的研究である.生きた有機体が環境に,また互いにどのように反応し,そしてその環境にどう対処するかを研究する学問が心理学である.従って,心理学者は何が人々にそのような行動をさせるのか,また彼らの心がいかに働くかを追求する.<復> 1.歴史.<復> 現代の科学としての心理学の歴史はルター派の牧師を父に持つヴント(1832—1920年)が,ドイツのライプチヒに世界で最初の心理学実験室を創立した1879年にまでさかのぼることができる.これは心理学を哲学と自然科学の従属から初めて独立させ,心理学独自の発達に対する堅固な基礎を作り上げたことを意味する.彼の心理学は内観心理学といって,観察をもとにして意識内容を分析し,感覚,イメージ及び感情等の心的要素を発見することと,心的要素が結合して複合体を形成する法則を説くことを中心にするものである.ヴントはこのために被験者に幾つかの違った音を聞かせ,どの声が最も高いか,あるいは最も大きいかを言ってもらい,それを数回繰り返し,被験者の観察の一貫性をチェックした.このような実験を数百回行い,心的過程の法則を説明しようとしたのである.<復> この内観心理学はヨーロッパで誕生したが,その最大の発達はアメリカで起った.特に実験心理学者のテチナーがヴントの心理学を熱心に広めた.しかしながら,ヴントとテチナーのほとんどの忠実な後継者たちは,ドイツの内観主義はあまりにも狭く,主観的及び非生産的であることに気付き始めた.科学としてすでに確立していた物理学や生理学と比較する時,知識の蓄積が早くなく,また実験の結果もしばしば違ったものとなった.内部の意識に焦点を合せた内観心理学を外部の行動に研究を向かわせる助けとなったのが機能主義心理学であった.これは『心理学原理』を著したアメリカの心理学者ジェイムズがその源となった.機能主義は構成主義と異なり,人間が環境に適応する意識の機能を研究する学問である.<復> この伝統と科学としての心理学とが基礎となってウォトスンの行動主義が生れた.彼は1918年に新学説を公表し,環境からの物的刺激Sと,それに対する反応Rとしての筋及び腺の活動との関係を観察してS—R法則を見出すことを目的とした.この具体的事実である行動を直接の対象とすべきとする客観主義は,今日の心理学の基盤となっている.さらに行動が重視されていることは同じであるが,結局行動は自我という小体制と環境という小体制との二者の関係からなる全体制中の有機体の活動と見なし,精神を全体的,統一的組織を持った形態(ゲシュタルト)としてみるゲシュタルト心理学が生れた.この全体観的立場は現代心理学の支配的な立場である.そしてこのゲシュタルト心理学の影響もあったが,ウォトスン流の行動を分子的にとらえる極端な行動主義に対して全魂的に,また,生活体の機能として考えるようになって,新行動主義が生れた.<復> 以上のような客観心理学や行動心理学のような意識なき心理学が勢力を増してきたが,他方ではさらに有力な反意識心理学が出現し,現在でも強大な勢力を持っている.それは意識している心よりも意識していない心,すなわち無意識の働きの重要性を強調した深層心理学である.フロイトによって始められた精神分析がすなわちそれで,人間の行動を支配する真の動機は,この無意識の深層に求むべきであることを臨床的に解明した.精神分析も学派としてはフロイト後の正統派以外にユングの分析心理学やアドラーの個体心理学などの異派や,また,サリヴァン,フロム等の新フロイト派等に分れた.<復> 1960年代に入ると,精神分析と行動主義に続いて第3勢力としてロジャーズやマズロウ等によって人間性の心理学が主張されるようになった.人間性の心理学の究極的な関心は,人間の尊厳,価値並びにすべての人間にある可能性の開発であり,人間の短所や弱点にではなく限りない可能性のある存在としてとらえるのである.しかし人間の主観的経験の研究に重点を置くために,明確に組織された方法論がない.そのために,個人的な理論が多く,今なおこれが人間性の心理学であるというものを決めるのが困難である.<復> 2.心理学と宗教.<復> 心理学はキリスト教も含めて宗教にはあまり関心を示してはいない.自然科学(心理学のモデル)は伝統的な神あるいは神の創造等という概念を否定し,また,超自然的な働きはこの物理的世界の解明にはもはや何の役にも立たなくなったと主張した.哲学者バートランド・ラッセルは科学が発達すれば宗教は重要ではなくなると予言したが,現実はそうではない.また,科学は宗教を捨てようと試みたが,人間の信仰心まで切り捨てることができないでいる.神への信仰は人間の潜在能力に対する信仰に取って代り,また,聖書の権威への信頼は科学の実験的データに対する信頼へと移行しただけである.心理学者たちには神への信仰はないが,ほとんど無批判的に,学問における前提を,あたかも神を信じているように信じている.ほとんどの心理学者たちは,宗教は人間の行動の研究には重要ではなく,ある場合には害にさえなると考えている.<復> 今日の心理学の基礎を築いたウォトスンは,宗教を無視した一人であり,魂,霊あるいは心という概念は行動主義の心理学からは締め出された.神のような概念は行動主義者のテクニックでは観察することができないので,霊的な存在を否定した.今日の多くの行動主義者は神の存在には同意するかもしれないが,科学的に観察したり,テストしたりできないのであまり興味を示さないのである.<復> このような状況で宗教を取り上げたのがアメリカの哲学者であり心理学者であったジェイムズで,自叙伝,書簡,告白などを材料として『宗教的経験の諸相』(1902年)を発表し,その後の宗教心理学研究に大きな影響を与えた.また,臨床心理学の領域では宗教はどうしても扱わなければならない課題である.特に神経症や精神病患者に見られる宗教性が臨床心理学者に,宗教は人間を真の問題に直面させるのを妨げる原因となると言わせるほどである.アルバート・エリスは宗教を精神衛生を防げるものと見なし,カウンセリングの中では宗教を躊躇なく攻撃するのである.<復> しかしながら心理学の立場から宗教への最初の決定的な攻撃はフロイトによってなされた.無神論者のフロイトはどんな超自然的な存在も信じなかったし,彼は宗教は未熟で神経症的であると信じ込んでいた.『トーテムとタブー』(1913)の中でフロイトは,宗教の起源はエディプス・コンプレックスと結論付けた.そして「本質的には神は高められた父以外の何物でもない…宗教のルーツは父への切望である」と言った.そして社会が成熟するともはや神格化された父親像は必要なくなり,宗教は見捨てられると確信していた.もちろん,フロイトの宗教の起源についての見方は広く受け入れられてはいないが,宗教の幻想性という結論は心理学者たちの間では人気がある.<復> このフロイトと違ってユングの心理学は,宗教に対して肯定的で統合的な概念を持っている.ユング派のジャコビーは「ユング派の精神療法は‘Heilsweg’というドイツ語の二重の意味,治癒と救いの方法であり,この療法には救済の力がある」と言っている.この救済は「個人化」を意味し,そして個人化の最終段階は「自己実現」である.これは本質的にはグノーシス派的な「自己を知る」ことで,キリスト教の「救い」とは本質的に異なるものである.<復> 第3勢力と呼ばれている自我あるいは人間性の心理学はどうであろうか.ロジャーズやマズロウに代表されるこの心理学では,セルフをパーソナリティーの中心に置き,自己実現を人生のあるいはカウンセリングの最大の目標とする.特徴としてはセルフを統合された体系と見なし,真のセルフの善性と無限の可能性に強調を置き,比較的正常な人々の短期カウンセリングに用いられる.この人間性の心理学では,セルフが神に取って代る傾向を持っている.この心理学はアードラー(1924年),ゴールドフィン(1939年)あるいはユングの自己実現等にその起源を持つ.日本でも盛んになっている交流分析(バーン,1964年,ハリス,1967年)はこの領域に入る.フロムは著書The Dogma of Christ (1963), You Shall Be as Gods(1966)の中で,旧新約聖書の解釈と再解釈をしたが,もし原罪が本当に正しいなら心理学は使いものにならないと言っている.そして悪は人間の本質には本来的なものではないと信じていた.フロムのこのような考え方はキリスト教にとって全く新しいものではなく,ストア哲学,快楽主義,グノーシス主義等との論争にまでさかのぼることができる.このように人間性の心理学は自己を神の位置に置く自己礼拝で,キリスト教にとっては偶像崇拝となる.<復> 3.心理学とキリスト教の統合の試み.<復> 心理学とキリスト教の出会いは片方からだけではなく両サイドからである.心理学者が最初にキリスト教に興味を示したのはジェイムズ(1901年)であり,スターバック(1901年)である.しかし当時は心理学を科学として独立させるのに忙しく,宗教に対する興味は消えていった.しかしながら,1959年のアメリカ心理学会のシンポジウムで「精神療法における罪の概念の役割」というテーマで討議され,再びキリスト教に対する興味がわき起った.そしてキリスト教心理学会が1952年に発足し,ここには心理学と他の分野との関係を研究する心理学者が多く加入している.<復> キリスト教側からの心理学に対する反応は,一言で言うなら「複雑なフィーリング」と言える.一方では,心理学の客観的データや理論は神の創造のみわざの理解を助けるということを信じているし,また,心理学の持つ洞察力はクリスチャンの全人的な成長に大きなプラスになるということも確信している.しかし,もう一方においては心理学の急激な台頭は教会の働きに対する侵害となると見ている.それは心理学があたかも人間の持つ問題の唯一の解決のように思われ,人々を教会から遠ざける結果となることもあるからである.つまり心理学が社会に対して心理学的な「救い」を提供しているのである.特に現代は緊張と不安の時代であり,心理学は人間の生活がより豊かになるために大きな援助をしている.そしてクリスチャンたちはキリスト教界の中ではあまり扱われていない問題に対して,心理学にその解答を求めている.しかし同時に,純粋に霊的な問題の解決のためには,その人の信仰を強くし,聖書をさらに深く学び,そして祈ることが必要なのにもかかわらず,心理学にその解決を求めようとするのである.このような態度は心理学に対しても,キリスト教に対しても正しい理解がないことのしるしと言える.どちらにとっても大きなマイナスである.<復> このような状況の中で科学としての心理学と正しい聖書観を土台としたキリスト教信仰を統合しようとする試みがなされている.この前提となることは,すべての真理はそれが聖書に啓示されたものであれ,科学的方法で得られたものであれ,すべてが神からのものであるということである.もしすべての真理が神からであるなら,心理学とキリスト教信仰にも基本的な一致があるはずである.すべての科学(心理学も含めて)の目的は,神が自然界を通して啓示されているものを研究し,宇宙とその働きをよりよく理解することである(Collins,1977年).キリスト教の立場から見るなら無神論者も含めてすべての人々は,神に起源する真理を求めていると言える.しかし自然界を通してだけでは神を見出すことはできない.人間は罪を犯したために,神を正しく知るためには神からの特別啓示が必要であった(ヨハネ14:6).もしすべての真理が神からであるなら,自然啓示からの真理と特別啓示からの真理には矛盾がないはずである.もしそうでなければ科学かあるいは聖書の→解釈/・・←のどちらかに間違いがあるのである.<復> 心理学とキリスト教のかかわり方には四つの型がある(カーター,ナラモア,1979年).<復> (1) 対立型.この型は心理学とキリスト教とは本質的な違いがあるという仮定に立つ.そして両者には根本的な違いがあり統合などは不可能だと主張する.特に三つの領域で対立するという.第1は真理を把握する方法で,心理学は「経験」であり,キリスト教は「啓示」である.真理へ至る方法論が異なるならそこから導かれる結論も当然異なると考える.第2は人間の不幸の原因についてであり,心理学は「環境」を挙げ,キリスト教では「罪」が不幸の根本的な原因であるとする.従って第3の領域は問題の解決法である.前者はあくまで精神療法をもって治療し,後者では罪からの救いが根本的な解決法である.この対立型の代表的な心理学者はアメリカのアルバート・エルズとフロイトを挙げることができる.それに対して対立型の宗教版では唯一の信頼できる真理に至る方法は「啓示」だけである.チャールズ・ソロモンがこの代表的人物だが,こう主張する.「精神療法は人間を強くするのが目的であるが,神は私たちが弱くなり神が私たちの力となるように望んでいる.従って精神療法は神の目的に反し聖霊の働きにとってかわっている」と.もう一人の代表者アダムズも心理学に対しては非常に否定的である.<復> (2) Of型.この型では心理学とキリスト教との間に多くの共通の基盤があることを認める.しかし超自然的な要素は否定し,聖書の人間の堕落の出来事等はその歴史性や超自然性は剥奪され,真の人間になるための人類の普遍的なもがきの表現と解釈する.従って彼らにとって聖書は単なる「心理学の良き参考書」なのである.この代表はエーリヒ・フロムで,彼は宗教を,人間を自由,愛並びに自立へと導く限りにおいては認めるが,聖書の超自然的な要素は認めない.また,カール・メニンガー(メニンジャー)(1975年)は罪について,個人の良心あるいは倫理基準に対する違反であって,決して神への違反ではないと主張する.<復> この型の宗教版は神学的には自由主義で超自然性は認めない.また,聖書の罪や救いについて再解釈し,愛や自由,責任等に強調を置き,そして聖書をある特別な心理学の理論体系に翻訳するのである.この代表的な心理学者は交流分析と宗教体験を扱ったジェイムズとサヴァリー(1974年)で神の力を人間のうちに宿る力に置き換える.その他聖公会司教でユング派分析家のジョン・サンフォード(1968年),ヒルトナーもこの型の宗教版である.<復> (3) 並行型.この型は心理学とキリスト教の関係を並行として扱い,おのおのが違った分野,目的,内容を持ち,人間の異なる領域を扱うのである.これは一種の二元論で霊的領域は神学が,身体的,社会的領域は心理学が担当する.従って心理学的洞察はキリスト教信仰に並行するが,決して信仰そのものと直接的にはかかわらない.つまり両者を全く異なった体系と見るのである.この型の代表的な心理学者はクライド・ナラモアであるが,多くのクリスチャン心理学者がこれに属する.<復> (4) 統合型.この型は心理学とキリスト教を究極的には一つと見る.両者の統合を試みるおもな前提条件としては,第1は「真理の統一性」である.ヒュームはこの型の代表的な人物だが,彼は聖書と科学の両方のユニーク性を強調するが,二つから導かれた真理には統一性があると主張する(Counseling and Theology).並行型の場合は科学の真理を聖書の権威の上に置く危険があるが,統合型にはこのようなことはない.第2は「人間の性質」についてである.この型は人間の性質について,人間は神のかたちに造られたが罪を犯したと見る.このような人間観は心理学と神学の関係に大きな影響を及ぼす.このような立場に立つ時,自然主義的な方法による人間理解には致命的な限界があることがわかるであろう.第3は,「精神病理学の起源」についてである.これは人間の持つ精神的な病気は,→究極的/・・・←には罪に根差しているということである.しかし,すべての問題が意識的な,故意の,あるいは個人的な罪が原因となっているということではなく,すべての問題は原罪の支配下にある人間性の分裂に帰せられるという意味である.従って心理的な不適応は単に幼児期における親との関係だけに原因があるのではなく,神からの疎外に根差したパーソナリティーの分裂に起源を求めることができる.第4は「聖書のバランスのとれた使用」である.統合型は聖書のある部分だけを使用するのではなく,聖書の啓示の全体を受け入れる.最後は「他の学問のユニーク性」を受け入れることである.統合型以外ではしばしば無理に聖書の真理を心理学の中に,逆に,心理学の真理を聖書の中に見出そうとして,それぞれのユニーク性を認めようとしない.しかし統合型では他の学問のユニーク性を認め,真理の理解をより深くするのに役立たせる.例えば,罪についての理解では,神学は罪の本質の概念について明らかにするが,心理学ではおもに罪の体験に焦点を合せる.このような相違は心理学と神学のユニーク性であり,それを認めることによって罪についての理解が深まり,広範囲における心理学と神学の統合が可能となるのである.<復> このような心理学とキリスト教信仰の統合の試みは,神の創造のみわざの理解と人間の持つ問題の解決,さらにはクリスチャンとしての全人的成長に多大な貢献ができると見られている.<復>〔参考文献〕Benner, D. G.(ed.), Baker Encyclopedia of Psychology, Baker, 1985 ; Carter, J. D./Narramore, B., The Integration of Psychology and Theology, Zondervan, 1979 ; Collins, G. R., TheRebuilding of Psychology, Tyndale, 1977 ; Murray, D. J., A History of Western Psychology, Prentice Hall, 1988.(丸屋真也)
(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社, 1991)

新キリスト教辞典
1259頁 定価14000円+税
いのちのことば社