イラスト ホンダマモル
『増補改訂 「バルメン宣言」を読む』
※「バルメン宣言」とは
正式名称・「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」。ナチスが政権を掌握した1930年代のドイツで、ナチズムとそれに迎合した「ドイツ的キリスト者」に対抗するために、ルター派、改革派、合同派がともに自分たちの信仰の立場を明らかにした神学的・信仰告白的宣言。
序章 いま、この時に「バルメン宣言」を読むということ
「福音派」と呼ばれる教会の伝統のもとで生まれ育った私は、「バルメン宣言」ということばすら聞いたことがありませんでした。しかしやがて伝道者としての召命を受け、神学と教会の歴史を学び始めるなかで、ヒトラー時代のドイツにおいて信仰の闘いを続けた「ドイツ告白教会闘争」の歴史に触れるようになりました。というより、一人の信仰者として、また一人の伝道者、牧師として、いま、この時代にこの国で主の教会を建て上げていこうとしたときに、避けて通ることのできない課題として、このテーマと出会ってしまった、というのが本音のところです。
私は母方で数えると4代目のクリスチャン、4代目の牧師家庭に生まれました。母方の祖父、安藤仲市は戦後、日本同盟基督教団をはじめとして福音派のキリスト教界において一つの働きを担った牧師でした。戦前から戦中にかけて旧きよめ教会に属する牧師であり、1942年(昭和17年)6月26日のホーリネス牧師一斉検挙の際に特高警察によって逮捕・拘留された経験の持ち主でありました。
祖父の体験談を子どものころに聞かされるなかで、私自身はこの国においては真の神を信じる自由、礼拝する自由、宣べ伝える自由が決して自明なものでないことを肌に感じてきたように思います。……
ドイツの戦時中の教会の歴史について学び考えることは、必然的に日本の教会の戦時下の姿を知ることへと繋がっていきました。そのなかで、日本の教会の被害者性とともに、自ら進んで天皇制国家に順応し、国民儀礼の名の下に、神社参拝や天皇崇拝を拝んだ偶像礼拝の罪と、アジアへの侵略戦争に加担していった戦争協力の罪とに次第に目が開かれるようになっていきました。
……東京の教会に赴任した2000年頃から、牧会のなかで「バルメン宣言」を繰り返し読み続けてきたのと同時進行のようにして、日本の社会は急速に右傾化、国家主義化の度合いを深めています。1999年の国旗・国歌法成立以後、2003年の東京都教育委員会の「10・23通達」から始まった国旗・国歌の学校現場での強制、2006年の第1次安倍内閣発足、教育基本法改悪、東日本大震災後の第二次安倍内閣発足と、その後の特定秘密保護法の成立、国家による教育への露骨な介入、国家神道復古を目指す右派政治勢力の台頭、近隣諸国に対する憎悪、在日外国人の方々に対するヘイトクライム、解釈改憲による安保法制の成立と9条改憲への前のめりな姿勢、共謀罪法の成立、行政府による隠蔽、改竄などの情報操作……、このような時代状況のもとで、いま、この時にバルメン宣言を読むということには、過去の外国の教会の歴史の学びにとどまらず、これからの私たちの教会の信仰告白的闘いへの備えとしての意味があると確信しています。
第1章 バルメン宣言とドイツ告白教会闘争
……「バルメン宣言」(正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」)は序言、6項目からなる条文、そして結語という3部から構成されています。6項目の条文はそれぞれ冒頭に聖書の御言葉が掲げられ、続いて告白すべき内容、最後に排斥すべき誤謬が示されています。……
第1項では、ヨハネの福音書14章6節、10章7~9節が掲げられ、続いてこの宣言全体の基盤であり、源泉である神の御言葉の絶対的な位置が明らかにされます。ここでは神の御言葉から離れた啓示の可能性が拒否されている点で、あらゆる自然神学的な営みが斥けられています。
第2項では、コリント人への手紙第一、1章30節が掲げられ、第1項で明らかにされた神の御言葉の慰めが、この神の支配のもとで生きるキリスト者の全生活にわたる生への要求として宣言されます。
第3項では、エペソ人への手紙4章15、16節が掲げられ、教会の本質とその所属、地上において果たすべき使命が宣言されます。ここでは、第1項での神の御言葉への服従に応ずる仕方で、この御言葉によって立つ教会の本質が示されています。
第4項では、マタイの福音書20章25、26節が掲げられ、教会の職務や秩序の自律的なあり方が宣言され、他律的な支配原理の導入が斥けられます。
第5項では、ペテロの手紙第一、2章17節が掲げられ、神からゆだねられている国家の務めと国家に対する教会のあり方が述べられ、さらに国家と教会の相互に対する限界設定がなされています。
第6項では、マタイの福音書28章20節、テモテへの手紙第二、2章9節が掲げられ、教会がキリストから委託された奉仕の業について宣言されます。この奉仕の業は、何よりも説教とサクラメントによるキリストへの奉仕であり、神の自由な恵みの使信をすべての人に伝える世界への奉仕を意味しています。
そして結語の部分では、6項目において明らかにされた「承認」と「排斥」が告白教会共通の神学的基盤であること、この宣言が互いを拘束するものであることが確認され、「神の御言葉は永遠に保つなり」とのことばをもってしめくくられています。
第2章 「バルメン宣言」第1項を読む
いつの時代にも教会の信仰告白文というものは、最初にどのようなことばをもって始めるかがきわめて重要な意味を持ちます。バルメン宣言の第一項も、まず宣言全体の基調音となることばをもって始められています。
「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)。
「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。……わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ……る」(ヨハネ10・7~9)。
聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である。
教会がその宣教の源として、この神の唯一の御言葉のほかに、またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認し得るとか、承認しなければならないなどという誤った教えを、我々は斥ける。
バルメン宣言の各条項は、冒頭に御言葉を掲げ、続いて信ずべき内容が告白され、そして、排斥すべき事柄が言い表されるという共通の構造を持っています。それに照らしてみると、第1項はこの宣言全体を貫く基盤として、大きく二つのことを主張していると言えるでしょう。
一つは、イエス・キリストこそ私たちが「聞き、信頼し、服従すべき」唯一のお方であるというキリスト中心主義を語っていることです。「このイエス・キリスト《のみ》を鮮明にかかげた第1テーゼは、宣言全体がそこから解きあかされねばならない《根拠》であり《前提》である」(宮田光雄)と言われるとおりです。
もう一つは、神の啓示としての御言葉の唯一性・絶対性が告白され、神の言葉を離れた、あるいはこれと並び立つような啓示の可能性を全面的に否定していることです。「ここで主張されている事柄は、イエス・キリストのみが唯一の神の言葉であり、これを別にして、その他の歴史上の出来事、すべての現象を神の啓示としては承認できないし、またすべきではないという主張であり、換言すると、イエス・キリストにおける啓示の一回性、独自性、またその独占的排他性が強調されている」(雨宮栄一)とあるとおりです。
前段部分にかぎってみれば、とりたてて特別なことを語っているわけではなく、むしろキリスト教会であればだれもがそのように信じ、主張する、至極真っ当なことが言われているにすぎないという印象を受けます。けれども、歴史の中で生み出されてきた数多くの信仰告白文書は、その真っ当なことをあらためて言い表さなければならなかった特定の状況を成立の契機として持っているのであり、第1項の前段の主張も、後段の主張がそれに続くとき、途端にある緊張をはらんだことばとなって響いてくるのです。……(本文より一部抜粋)