ウイルス禍についての神学的考察

信仰生活

ウイルス禍についての神学的考察

神戸改革派神学校 校長   吉田 隆

本論考は、筆者が属する日本キリスト改革派教会の諸教会のために記した文書(三月十七日付)を大幅に短縮・修正したものです。
一日も早い災禍の終息と、そのために労しておられるかたがた、災禍に苦しんでいるかたがた、そして皆様のために、主のあわれみと助けとを祈りつつ。

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聖書から

多くの人々の命を奪う災禍として、聖書の昔から言われてきたのが、剣と飢饉と疫病です(エレミヤ14・12他)。人災と天災、そして(古代においては)原因不明の災いの三つです。しかし、すべては神のご支配の下にありますから、いずれの災いも人間の罪に対する神の懲らしめやさばきによってもたらされるものと考えられました(出エジプト9・15他多数)。
したがって、これらの災いを治めてくださるのもまた主のみわざです。人々は、礼拝で祈りをささげて、災いを主が治めてくださるようにと願いました(Ⅱ歴代20・9等)。
それとは別に、原因不明の病やカビなどにかかった罹患者や建物を一定期間隔離したり封鎖したりすることは、旧約時代でも常識でした(レビ一三〜一四章)。そのような人々や物品の状態は宗教的に〝汚れている〟とされましたが、それは必ずしも神のさばきを意味していません。ところが、そのような人々を差別して疎外し遠ざける(詩篇38・11)のは、人間の罪です。
主なる神は、愛する者たちを「破滅をもたらす疫病」からお守りくださる方です(詩篇91篇)。しかし、たといそうでなかったとしても、病に侵された者を深くあわれんで触れてくださるのが、私たちの主イエスです(マルコ1・41)。
聖書の神は、疫病をもたらすことも止めることもできる全能の神ですが、それ以上に、病に倒れようが人々から遠ざけられようが、ただ一人どこまでも関わってくださる愛の神です。病を支配するかたであると同時に、病を共に負って(イザヤ53・4)、愛してくださるおかたなのです。
このような神の愛を信じ、この神の愛によって救われたキリスト者もまた、この世に起こる病を恐怖の的のように見る必要はありません。剣であろうと飢えであろうと、キリストの愛から引き離すことができるものなどないからです(ローマ8・35)。

教会の歴史から

人類は、歴史上、何度となくパンデミック(世界的流行病)を経験してきました。そのような中で、キリスト者たちは何を考え、どのように行動してきたのでしょうか。ここでは、二つの例だけをご紹介します。

  1. 古代教会の例
    紀元三世紀の中頃、アフリカから始まり一日に五千人近い死者を首都ローマにもたらした疫病が、古代ローマ世界を恐怖に陥れました。人々は不衛生な市中から田舎に逃げ去り(その結果さらなる拡大を招き)、罹患者は死人のごとく市外に投げ出され、家族からも見捨てられました。
    北アフリカはカルタゴの司教キプリアヌスが、説教の中で当時の社会状況と病状について詳細に述べたために、この疫病は〝キプリアヌスの疫病〟と名づけられてしまいました。
    キプリアヌスは、その説教『死を免れないことについて』(吉田聖訳がオンラインで読めます)において、デマを退け信徒たちの心を覆っている恐怖心を取り除くために、いくつもの聖書の物語に言及しつつ、地上においては病にかかり苦しみ死ぬことは万人に共通であること、しかしキリスト者はその精神において異なっていることを力説します。
    「愛する兄弟達よ。むしろ私達は…、死の恐怖を退けて、死の後に続く『不死』について考えるようにしましょう」(第24章)
    「神のしもべたちは常にこのように行動しなければなりませんが、特に今―この世が腐敗し猛威を振るう悪の嵐に圧迫されている今こそ、なおさらそうしなければなりません」(第25章)
    さらに、彼の伝記記者によれば、キプリアヌスは信徒たちに、この災禍にあっては信徒同士を助けるのみならず、未信者をも助けて善を為すように強く勧めていたようです。こうして、世は、キリスト者たちがいかに互いに愛し合っているか(ヨハネ13・35)のみならず、敵をも愛する愛をもって仕えていること(マタイ5・43—48)を知ったのです。
    このキリスト者たちの愛のみわざは、キリスト教公認に否定的であった皇帝ユリアヌスさえも認めざるを得ませんでした(拙著『キリスト教の“はじまり”』66頁注15参照)。
  2. 宗教改革期の例
    十四世紀の中頃、アジアからヨーロッパ全土を襲った黒死病(ペスト)は、ヨーロッパの全人口の四分の一から三分の一を死に至らしめたと言われています。その後も散発的に流行を繰り返したこの病は、一五二七年の夏、マルティン・ルターがいたヴィッテンベルクをも襲いました。時のザクセン選帝侯はルターたちに避難を命じますが、ルターはこれを拒否して町の病人や教会員たちをケアするために残ります。
    しかし、他の町をも襲った災禍の中で、キリスト者が災禍を避けて逃れることは是か非かとの議論が起こり、ルターにアドバイスを求めることになりました。これに応えて書いた公開書簡が「死の災禍から逃れるべきか」という文章です(英訳がオンラインで読めます)。手紙の要点は、以下のとおりです。
  1. 神の召しに忠実であれ
    ルターはまず牧師たち聖職者に対して、命の危険にさらされている時こそ、聖職者たちは安易に持ち場を離れるべきではないと戒めます。
    「説教者や牧師など、霊的な奉仕に関わる人々は、死の危険にあっても堅く留まらねばならない。私たちには、キリストからの明白なご命令があるからだ。『良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます』(ヨハネ10・11)と。人々が死んで行く時に最も必要とするのは、みことばと礼典によって強め慰め、信仰によって死に打ち勝たせる霊的奉仕だからである」
    牧師だけではありません。行政官などの公務員や医療関係者、子をもつ親に至るまで、おのおのが主から与えられた(他者に仕えるという)召しを全うせねばならないと、ルターは述べます。
    つまり、このような災禍が神から与えられたのは、私たちの罪を罰するのみならず、神への信仰と隣人愛とが試みられるためである。悪魔は、私たちが恐れと不安にさいなまれキリストを忘れるようにと仕向ける。
    しかし「お前の牙に毒があったとしても、キリストにはさらに大いなる(福音という)薬がある…。悪魔よ去れ! キリストはここにおられ、ここに主に仕えるしもべがいる。キリストこそ、崇められますように!」と、ルターは説教しています(〝神はわがやぐら〟は、この時期に作られたとも言われています)。
  2. 不必要なリスクは避けよ
    他方で、ルターは、死の危険に対してあまりに拙速かつ向こう見ずな危険を冒すことの過ちについても述べています。それは神を信頼することではなく、試みることであると。むしろ理性と医学的知見を用いて、次のように考えなさいと諭します。
    「私はまず神がお守りくださるようにと祈る。そうして後、私は消毒をし、空気を入れ替え、薬を用意し、それを用いる。行く必要のない場所や人を避けて、自ら感染したり他者にうつしたりしないようにする。私の不注意で、彼らの死を招かないためである…。しかし、もし隣人が私を必要とするならば、私はどの場所も人も避けることなく、喜んで赴く」と。
    ただし、実際にどのように判断し行動するかは、各自が考えるべきこととしています。
  3. 牧会的事項
    何版も版を重ねたこの手紙に、ルターは後に、いくつかの牧会的・実際的事柄について書き加えています。
    第一に、生と死についてみことばからよりよく学ぶために、信徒が教会に出席し説教を聞くように励ますこと。第二に、各自が常に死に備えること。第三に、病人が牧師の訪問を願うときには、なるべく早い段階ですること。第四に、病死した人をどこに葬るかは、医者や経験ある人々の意見を大切にすること(ルター個人は町外れがよいと考えたが)。最後に、サタンによる〝霊的な疫病〟との戦いに勝利できるように祈ってほしいということです。……(一部抜粋)

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