もうこれ以上耐えられなくなったら

ひとりの女性として、自分の人生を生きているだろうか。母として、妻として、娘として、女性として「こうあるべきだ」との周囲のプレッシャーに押しつぶされる前に、そして、神から与えられた本来の素晴らしい自分を回復させるために必要な「やめるべきこと」を考える。(『情緒的に健康な女性をめざして―自分の人生を生きるためにやめるべき8つのこと』より一部抜粋)
「不自由な」クリスチャン
キリストに出会ったとき、私はもう夢中になりました。神の大きな愛は、十九歳の大学生だった私を圧倒しました。生きておられるイエスさまを知ろうと、私はすぐに熱心に求め始め、イエスさまに喜んでいただけるなら何でもしようと思いました。
聖書通読、暗唱聖句、祈り、交わり、礼拝、断食、献金、奉仕、沈黙と一人になること、他の人に信仰を分かち合うといった主な霊的訓練を中心に自分の生活を組み立てました。キリストに似たものになるために、リチャード・フォスター、J・I・パッカー、ジョン・ストットらの本から、霊的訓練の重要性について夢中で学びました。これらの本はキリスト教に対する理解を広め、キリストを人生の中心に据えることを学ぶには非常に役に立ちました。しかし、他の人々の必要や欲求に仕えることと、自分の必要や欲求を大切にすることとのバランスをどうするか、といったことを含む、健全な霊的生活の真理を学ぶことを怠っていました。その代わり、自分の魂を犠牲にしてでも人に仕えることに力を注いでいました。
このバランスの悪い状態がもたらす苦痛やいらだちがつのり、三十七歳のときに最初の「やめる」宣言をすることになりました。献身的なクリスチャンになって十七年たち、自己否定をしすぎたことで喜びがなく、罪悪感でいっぱいの自分になっていたことに気づいたのです。イエスさまは、人生を楽しむようにと、ご自分の豪華な祝宴に招いてくださっていたのですが、私は楽しむのではなく厨房の奴隷として人々に給仕しているように感じていました。イエスさまの愛に圧倒されて大きな喜びで満たされた私から、イエスさまの要求に圧倒されて苦々しくいらだっている私に変わってしまっていたのです。
他者を優先することに自分のアイデンティティがすっかり呑み込まれてしまっていました。私はいつも、四人の小さい娘たちの必要に応えることで頭がいっぱいでした。また夫の責任のことも心配していました。成長している教会のために、私ができることは何でもしていました。これらはすべて良いことかもしれません。しかし、私の愛は惜しげなく与えるものではなく、「しなければならない」「すべき」ものになっていました。私は、自分には選択の余地などないと思ってしまっていたのです。
自分の存在の尊厳と人間であるがゆえの限界を知ることによって、私は愛をもって周囲との境界線を引くことができるようになりました。そしてそれが、周囲の人々に対する心からの純粋な愛の贈り物なのだということに、まもなく気がつきました。私たちに対する神の愛のように、私が人を愛する愛も、人を自由にするものでなくてはなりません。人をどれだけ愛せるかは、自分のことをどれだけ大切にし、愛せるかにかかっているのです。
生きるために死ぬ
やめるということは、神に属さないことに対して死ぬということです。間違いなく、これはキリストのために私たちがすることの中で、もっとも難しいことでしょう。しかし幸いなことに、やめることは単なる終わりではなく始まりなのです。聖書にかなうやり方でやめることは、私たちの人生の中に新しいことが生まれるため、つまり復活のための神の道筋です。しかし、復活へと至る道は決して楽なものではありません。
やめることを恐れる声が、心の中で響いています
「人はなんと思うだろう?」
「私は自己中心で、キリストに似ているとは言えない。」
「すべてをめちゃくちゃにしてしまう。」
「人を傷つけてしまう。」
「まわりのことがバラバラになっちゃう。」
「夫婦関係がだめになる。」
死を伴う苦痛に自分の内面のすべてが抵抗しますが、それは復活するためには必ず通らなければならない道です。結果的に、不安を和らげるために、恐れに屈してしまうことがあります。残念なことに、これは往々にして長期的に苦痛をもたらすことになり、いつも内面がざわつき、喜びがなく怒りをつのらせていきます。その結果、行き詰まってしまい、キリストのために良い実をもたらすことができなくなってしまうのです。私の場合は、人を愛するのではなく避けるようにと心が委縮してしまいました。
しかし私たちが真に生きるには、死を通る以外に道はないのです。イエスさまのことばには、「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(マルコ八・三五)とあります。私がやめたときに起こったのは、まさにそのことでした。私は自分のいのちを取り戻したのです。そしてそれに続いて、自分だけでなく夫も夫婦関係も、子どもたち、教会そして無数の人々にも新しいいのちをもたらすことになったのです。……
ジェリ・スキャゼロ 著、鈴木敦子 訳
ひとりの女性として、自分の人生を生きているだろうか。母として、妻として、娘として、女性として「こうあるべきだ」との周囲のプレッシャーに押しつぶされる前に、そして、神から与えられた本来の素晴らしい自分を回復させるために必要な「やめるべきこと」を考える。