《黙想》東方教会・修道会の霊性に学ぶ

信仰生活

黙想は神との伝統的な交わりの手段

シオンの群教会牧師・聖契神学校教師 吉川直美

2016年に開催された第6回日本伝道会議で、東方教会、カトリック修道会などが培ってきた霊的側面について学ぶ分科会「現代を潤す霊的財産」が開かれた。東方教会や修道会などは、古来より霊性の部分を非常に大切にしてきた歴史があり、今日、プロテスタントでもそのあり方を見直す必要性が問われている。彼らの信仰やその実践から、私たちは何を学ぶことができるだろうか。分科会を担当した吉川直美氏に、東方教会・修道会と、特に黙想との関わりについて伺った。
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東方教会・修道会の信仰のスタイルって?

 東方教会や修道会などは、今日のプロテスタントにはなじみが薄いかもしれません。しかし、その祈りや礼拝形式などの意味を一つ一つ知るとき、そこに神様との深い関係があることに気づかされます。
 例えば修道会は、人間の本来あるべき姿、つまり神様への礼拝・祈りに専念する生活を送ることを通して、歴史の中で霊性の担い手としての役割を果たしてきました。現在も、そのあり方は「隠されたパン種」として多くの人に少なからず影響を与え続けています。
 今日の効率主義・成長主義の蔓延には、キリスト者自身も飲み込まれてしまっているのが現状です。ですが、効率よりも価値あるものを知る存在として、立ち止まって静まる時間を取り、神様との関係を取り戻す必要があるのでは、と思っています。私たちには、神様と交われる特権が与えられているのですから。神様との交わりは人格的なものであって、相手がどういう方であるかを知らなければ関係は深まりません。そのためには時間と積み重ねが必要で、人によっていろいろなやり方があると思います。黙想は、その一つとして古くから用いられてきました。

黙想ってどういうもの?

 「黙想」と聞けば、ただ黙って目を閉じていたり、〝無〟になろうと努めるイメージが強いかもしれません。そうではなく、ここでいう黙想とは、簡単に言えば自分の内面を深く見つめて自分自身を知ることを差し、カトリックでは〝神を知る〟ことを含めて「観想」(かんそう)と言ったりもします。そして、それにはさまざまな方法があります。
 深い黙想に至ることは簡単ではないでしょう。人は、あふれてくる思考を自分で止めることができない存在です。例えば、黙想の期間が8日間あったとして、おそらく最初の3日ほどは日常の思考から離れることができないでしょう。それほどしっかりと〝時間を取り分け〟なければ、非日常に身を置けないものです。私にとっては、黙想の旅がよい機会になります。日常の中では、祈っていてもいろんなことに気が散ってしまう。でも旅行の期間は、たとえ他のことに気を取られたとしても、基本的には神様と二人で旅をしている感覚になることができるのです。
 時間を取り分けなくとも、何かに集中しているときにふと日常の思考から離れていると気づくこともあります。古くからの例では、東方教会やカトリックの伝統的な祈り「キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」がそうです。東方教会の公祈祷(礼拝)で見られる連祷(司祭と聖歌隊によって、十数回から数十回、「キリエ・エレイソン」が歌い交わされる)は、「絶えず祈りなさい」のみことばが一つのかたちとして受け継がれてきたもので、「キリエ・エレイソン」を繰り返す中で神に意識を向けていくという側面があります。
 また、目の前の椅子にイエス様が座ってくださっているとイメージして祈ることもできます。ふだんのように頭の中で祈るのではなく、対話するように祈るのです。こうした試行錯誤を繰り返す中で、一人一人に合った方法が見えてくることでしょう。
 これらの方法を通して深い黙想に至ることで、自分の心の傷や、本当に願っていたことに気づかされるときがあります。「自分をわかっていたつもりだったけど、本当は私は傷ついていたんだ」という気づきを繰り返していくと、ありのままの自分として神様の前に出られるようになっていくことでしょう。
 神様の前で、一人の〝裸〟の人間として〝在る〟のはとても難しいことです。初期キリスト教の時代に始まり、後の修道士の原型となった「隠者」(いんじゃ)と呼ばれる人々がいます。彼らは、何もない砂漠や森の中、洞窟などで孤独な生活を送り、財産も地位も人間関係も、何もかも捨て、ただ一人の存在として神様と交わりました。そのように、〝自分を守り武装するもの〟をすべて取り払ったとき、本当は一人の小さな〝裸〟の自分として神様と交わりをもつことができる。簡単ではありませんが、私たちは教会の中でこそ、手つかずな〝素〟の自分でいたいものです。

私の黙想との出合い

 私が罪ある自分の姿に気づき、神様に出会ったのも、黙想を通しての体験でした。40代の頃、人生が暗礁に乗り上げていた私は、当時は無神論者だったにもかかわらず、神という存在に祈るようになっていました。もともと、父方の親戚に東方教会とのつながりがあり、幼い頃礼拝に連れていかれたこともあって、キリスト教にはなじみがあったのです。
 祈るのと並行して、特定の宗教とは関係なく瞑想にも取り組んでいました。ただ目を閉じて静かにしているだけだったのですが、そこで不思議なイメージが目の前に浮かんできたのです。白い人に手を引かれて一緒に湖に入るというもので、その時、私にはまったく恐れがなく、大きな平安の中にいたのを覚えています。
 その頃の私は、そういった妄想じみた、スピリチュアルなものを嫌っていました。そのため、あの体験はいったい何だったのか、なぜ自分が体験したのかということに戸惑いましたが、最終的に、「あれはイエス・キリストだったのだ」という結論にたどり着きました。不思議な体験は他にもありましたが、決定的だったのは、十字架のイメージと共に「エリ、エリ、レマ、サバクタ二(イエスの十字架上での神への祈り〔マタイ27章46節〕。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の意)」という叫びを聞いたことです。その時はわからなかった意味を、あとで聖書を通して知り、そういったことを積み重ねるうち、イエス様の十字架が自分のためだったということ、重荷を下ろして神様にゆだねるということ、そして、神様に愛されていることを知っていきました。
 その後、一度は東方教会の門を叩いたのですが、独特の礼拝形式や祈りにやはり戸惑い、やがてプロテスタントの教会に通うようになりました。そこで牧師に自分の救いの体験を話したところ、全面的に否定されてしまったのです。神様に与えられた体験に自分でも困惑していたのですが、牧師の否定を受け、さらに混乱する時期がしばらく続きました。
 ある日、マザー・テレサとブラザー・ロジェ(キリスト教修道会「テゼ共同体」の創始者)の祈りの本を読み、彼らの言う「祈り」と、私の瞑想を通しての体験がとても似ていると感じました。そしてカトリックやテゼ共同体の黙想会に通い、彼らの伝統に触れていくうち、以前訪ねた際はわからなかった東方教会の礼拝の意味も少しずつわかるようになってきました。彼らの礼拝は、心だけでささげるのではなく、体全体を神様に向けるためにあるのだとわかったのです。東方教会やカトリックに関心をもつようになったのは、それからのことです。
 以上は私の体験ですが、黙想には、特別な経験をしない場合ももちろんあります。ですが、「何かを得なければ」と思う必要はありません。黙想はエクササイズのようなもので、何も感じないからといってやめたりせず、継続しておこなったほうがよいでしょう。神様と生きた交わりがしたいと、時間を割いて心を向けることそのものを神様はとても喜んでくださいますし、それ自体が幸せなこと。特別な体験がなくても、その時間は確かに神様の前にいるのです。

黙想をする際の注意点

 ただ、黙想を取り入れるにあたって、幾つか注意しなければならないことがあります。黙想を体験して「良い」と思った人は、すぐに自分の教会のプログラムに取り入れたくなることでしょう。ですが、もう少し長く個人の黙想に取り組んでいただきたいのです。一度深い黙想を体験したとしても、別のときには、何も感じず無味乾燥な時間を過ごすことがあります。むしろ、そうした黙想を生活の一部として自然に行えるような状態になってからでも、遅くはありません。
 また、教会などある程度の人数での黙想は、自分だけでなくお互いを深く知ることにもなっていきます。ですが教会にはさまざまな人がいるので、なかなか自分をさらけ出せない人もいます。まずお互いを少しずつ知ることから始め、ある程度自分を出せるような関係になっておくことが必要です。
 いざ始まっても、早く結果を出そうとするのは避けてください。長い目で見て、種を蒔いて芽が出てくるのを待つように、黙想の習慣を大切に育てていただきたいのです。
 また、「深い黙想にある状態のときは、悪霊に惑わされやすいのではないか」という疑問をもつかもしれません。確かに、黙想は霊的な営みなので、そういったリスクはあるでしょう。また、「自分は特別なことに取り組んでいる」という優越感や傲慢さを抱いてしまうこともあります。ですが、リスクがあるからやらない、というのは早計と言えます。自分の弱さや心の〝癖〟に気づくことで、さらに神様の必要を感じていくでしょうし、それでも自分を顧みてくださる、イエス様という存在に出会うよい機会だと思います。どちらにしても、そうした危険に陥ったときに適切にアドバイスをしてくれる経験者、霊的同伴者をもつといいでしょう。
 そして最終的に、黙想を通してみなさんが、罪ある自分、傷ついた自分に気づき、隠すことも飾ることもないそのままの一人の人間として、日常にあって神様の前に在ることができるようになればと願っています。生活と、神様との交わりがしっかり結びついた修道会のように。そうした恵みを、神様が与えてくださることを祈っています。
【「百万人の福音」2017年4月号より】

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