《震災から10年》コロナ禍の3.11 被災、そして原発反対へ

証し・メッセージ

《震災から10年》コロナ禍の3.11 被災、そして原発反対へ

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脱原発運動に取り組む牧師 金本友孝さん

金本友孝 かねもと・ともたか:1961年、大阪生まれの在日韓国人3世。拡大宣教学院卒。福島県で開拓伝道を始めるも原発事故により九州へ移住。佐賀県鳥栖市で牧師を務める。

 東日本大震災時に発生した福島第一原子力発電所の事故により、多くの人が他地域への避難を余儀なくされた。事故から10年がたち、状況の変化とともに元いた場所に戻った人もいれば、避難先に根を下ろすことを決断した人もいる。佐賀県鳥栖市で牧師を務める金本友孝さん(クロスロードゴスペルチャーチ)も「戻らない」と決めた一人。事故前は福島県浜通りにあるいわき市の教会で15年間牧師を務めていたが、今は避難先の九州に暮らす。断腸の思いでの決断、そして金本さんにとっての福島第一原発事故について、話を伺った。

「あの日」すべてが一変した

 金本さんが福島で「いわきホームチャペル」の牧師に就任したのは1996年。牧師である義父の要請を受け、開拓伝道を引き継ぐかたちでのスタートだった。自宅兼会堂のアットホームな教会で、アルバイトをしながら自給自足の伝道。若い頃に夢中になったロックンロールなどを用いつつ活動を広げ、洗礼を受ける人も少しずつ増えていった。やがて2005年には新会堂を建築し、「ロック牧師」にメディアの取材がきて話題となるなど、教会として着実に地域に定着していった。

 しかし2011年。50歳の誕生日を翌日に控えた3月11日に、全ては一変する。2時46分、いつもとは異なる揺れの始まりに瞬間的に危険を感じ取り、屋外に飛び出し路上に這いつくばって激震を耐えた。揺れは一度で収まらず、何度も何度も余震が襲った。その晩は教会員の安否確認に追われ、テレビに映る津波の映像に涙があふれた。

 一睡もせず迎えた翌12日。知らせは大阪に住む友人からもたらされた。「原発が爆発したぞ! 今すぐ逃げろ!」「嘘やろ!?」 ありえない。絶対安全じゃなかったのか。逃げる? どこまで、どうやって? 教会員にも促すべきか? さまざまな思いが押し寄せ、混乱と恐怖の中、「これが世の終わりか」と死を覚悟した。子どもたちに「苦しまないで死ねるように祈りなさい」とすら伝えたという。「そこまで追い詰められていた」と、金本さんは後になって振り返っている。

避難と眼前に開いた「茨の道」

 3月17日。教会員の避難やその目処を確認し終え、わずかな荷物を車に積み込み、戻れる確証のないまま家族と共にいわきを離れた。最終的に義両親が住む九州に落ち着いたが、数日後に牧師をしている義父から思いがけない打診を受けた。「鳥栖市の自分の教会を引き継いでくれないか」というのだ。年齢的、体力的に限界を迎えていた義父の、教会閉鎖すら視野に入れた願いだった。

 金本さんは悩みに悩んだ。いわきの教会の信徒たちは福島に戻り始めており、ここで牧師が帰らないなど考えられない。避難先にそのまま定住するとなれば、「逃げ出した」というそしりは免れないだろう。何より15年間、ゼロに近いところから建て上げて関係を築いてきた愛着のある教会で、簡単に手放すなどとうてい受け入れられないことだった。

 しかし、申し出を突っぱねられない理由があった。1996年、義父に「いわき市での開拓伝道を引き継いでほしい」と求められた時のことだ。当時在学していたアメリカの神学校での学びをあきらめなければならなかったその要請を、「できない」と思いながらも開かれた道として受け入れた。その後の15年、いわきの教会の運営が軌道に乗って成長してきたのは、あの時「茨の道」を選んだことへの神の祝福だと信じている。思えば、在日外国人として生まれ育ち、そのため数々の道を閉ざされてきた金本さんにとって、信仰をもったこと、牧師になると決めたことなど目の前に開かれた道は全て、神による促しだった。

 そして今、原発事故からの避難先で聞いた義父の思い。「以前よりもはるかに厳しい茨の道だが、もしこれを断るなら、いわきでの15年間の祝福を否定することになるのではないか」。沈思黙考の末、金本さんは決断する。「受胎告知を受けたマリアも、とうてい受け入れられない状況にもかかわらず、『あなたのおことばどおり、この身になりますように』と神のみこころを受け入れた。今一度、目の前に開かれた道を進もう。これは、きっといわきの教会にも、鳥栖の教会にも祝福となる」

 後日開かれたいわきの教会員との話し合いの場は、嘆きと不安に包まれた。いたたまれない時間だったが、金本さんも慣れ親しんだ信徒たちに懸命に思いを伝えた。ほどなく、信徒に近しい存在で開拓伝道を希望している夫妻に後任を依頼。全てを引き継いだが、金本さんにとっては胸の痛む経験だった。

あんな苦しみはもう二度と

 現在は、九州で牧師をしながら脱原発活動にも関わっている。震災翌年の3月11日、福岡で行われた脱原発集会で被災体験を語ったことでつながりができ、やがて玄海原発の運転停止を求める訴訟の原告団に加わった。佐賀県北西端の海沿いに建つ九州電力・玄海原子力発電所は老朽化が著しく、一説には「日本一危ない」とすら言われている。

 「事故がなければ脱原発活動に無関心だった私が、被害者面をしていきり立つのはどうかと尻込みしていましたが、そんなことを言ってられなくなりました」と金本さん。「福島では、『原発は絶対安全だ』と言う国と東京電力(東電)にみごとなまでにだまされていた。あの時の苦しみが繰り返されるとしたら、あんな恐怖を味わうのはもう絶対に嫌だ、そういう気持ちで関わっています。人というのは、自分がああいう目に遭ってようやく気づくものなんですよね」

 2014年には、原発事故による放射線の影響を逃れて九州に避難せざるを得なかった人々と原告団を結成し、東電と国を相手取って「福島原発事故被害救済九州訴訟」を提訴した。昨年出た一審判決は、東電の責任は認めたものの国の責任は認めず、福島県外からの避難者については訴えを棄却する、というもの。とうてい納得できず、控訴して今も闘いを続けている。
 「津波の危険性は予見できており、対策を講じなかった東電と、原子力政策を推し進めた国にこそ事故の責任がある。にもかかわらず『勝手に避難した』『原発事故は収束している』と主張する無責任さには怒りを感じます。賠償より何より、まずは責任を認めて謝罪してほしいだけ。でなければ、被害を受けた側としては前に進めないんです」

 難しい裁判が続くが、昨年秋、仙台高裁で「生業訴訟」が勝訴したというニュースが励ましになっている。「国の責任を問うことが難しいからといって、声を上げなければ好き放題やられてしまう。その危機感で取り組んでいます。命ある限り、最後まで抵抗し続けるつもりです」

避難者訴訟一審判決の日(2020年6月24日)

全ては神のみこころが成るように

 考えてみれば、複雑な人生を歩んでいると振り返る。在日外国人として生まれ、20代で信仰をもち神学校を出て牧師になった。いわきで教会を開拓し、原発事故によってその場所を追われ、今は九州で脱原発運動に携わる。
 「私の人生は特殊。普通の人ならまず経験しないようなことばかりだと思います。決して自分で望んだわけではなかったけど、『神様のみこころであれば』と、その道を選ぶしかなかった。ですがいつも最後に『これでよかったんだ』と思える経験をしてきたから、進んでこられたのだと思います。『神様なぜですか』と反発したことはありません。疑問や反発を感じるのは、自分の願いを優先するからです。神様のみこころを求め、信頼すればいいのです。原発事故が起きたことも、人間の罪のゆえであって神様を責めるのはお門違いです。もし原発事故がなかったら違う10年だったことは間違いないし、別の道が開かれたのかもしれない。ですが、この10年でたどり着いた今の信仰の境地は、ベターだったと思っています」

 在日外国人として生まれたことも、「神によって宣教師として日本に遣わされた」と受け止めている。「当たり前ですが日本語がペラペラで、日本の文化もメンタリティも熟知している。これほど日本宣教に向いた外国人はいないでしょう」。脱原発活動も単なる社会運動ではなく、福音宣教の一環なのだという。「私がなぜ原発をなくしたいのかというと、一日でも長く平和な時間がほしいからです。救われる人が起こされるには、平和であって、伝道の自由が守られることが必要。全ては福音のためだと思って取り組んでいます」

 金本さんが原告団長を務める「福島原発事故被害救済九州訴訟」では、クラウドファンディングによる支援を募集している。支援はこちら

〈「百万人の福音」2021年3月号〉

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