賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯
第8話
栗栖ひろみ・作
プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。
キッタムの奴隷工場
アフマドは鷹揚で気前のいい男だった。彼は若いニュートンが来たのをたいそう喜んで、すぐに新しい服を何着か買い与え、工場の後ろに新築したばかりの住み心地の良い宿舎に住まわせた。そして、家財の数千ポンドの金をその手にゆだね、以前から雇っていた白人の使用人と一緒に奴隷工場の管理一切をさせることにしたのだった。
「奴隷貿易は一度やるとやめられないぜ。何というか、魔力みたいなものがあるんだ」
ニュートンと同じくイギリスからやってきたラルフ・サンダースという使用人は、こう言って相手の肩をたたいた。彼は以前事故で片目を失い、放浪の末この商売にありついたのだという。知人は皆、「片目のラルフ」と呼んでいるのだと自嘲気味に言った。
「とにかく、タバコや香料、食料品の取り引きとは比べものにならないほど金が入ってくるんだぜ。うちのだんなは特に気前がよくて、給料をたっぷりくれるほかに、奴隷を見つけてくるだけでチップをはずんでくれるんだ。半年もこの仕事を続けりゃ、家が一軒買えるし、女に不自由することもなくなるさ」
ニュートンは、金がもうかると聞いて胸がワクワクするのを抑えられなかった。
しかしながら、ラルフの後について工場に行き、正面の重い扉を開けた瞬間、凄まじい臭気に息が詰まり、頭がクラクラするのを覚えた。そして、目にした光景はことばにならないほど衝撃的なものであった。むっとするような生ぬるい空気と、窓のない不衛生な部屋の中には、手枷・足枷をされた黒人奴隷がすし詰めにされていた。
よく見ると、彼らは二人一組でつながれていたが、一人の右手・右足を、相手の左手・左足に横断して、同じ側で一緒に枷がはめられていたのである(このつなぎ方に関しては、ニュートンの論文「アフリカ奴隷貿易についての考察」を参照した)。
これでは、相手と動きが完全に一致しなければ、手足を動かせず、寝返りも打てず、上半身を起こすこともできまいと思われた。彼らのうちのある者は、諦めきったようにうつろな目を天井に向け、またある者は、下敷きになっているために、足が痛いと呻き声をもらしていた。
「おまえたち、逃げようなんて考えを起こすんじゃないぞ!」
ラルフは、右手に巻きつけた皮ムチで、ヒューッと空を切りながら、脅すように言った。
「おまえたちの幼稚な手口など、すぐ知れてしまうんだからな。逃亡を企てた奴隷がどんなに恐ろしい制裁を受けるか、わかっているだろう?」
ことばはわからなくても、彼らは管理人の顔の表情や動作でその意味を察知し、恐怖に目を見開いた。
ラルフとニュートンは奴隷の数をかぞえ、逃亡者がいないことを確認すると、再び工場の正面扉を閉め、重い錠を下ろした。中から呻き声やつぶやきが伝わってきた。
真夜中に、心地良い宿舎の一室でぐっすりと眠っていたニュートンは、甲高い子どもの泣き声で安眠を破られた。まるで引きつけを起こしたようなその声は、いつまでたってもやまない。彼はラルフを起こし、二人で工場の扉を開いて中に入った。
「母ちゃん…母ちゃん…」
三歳くらいの黒人の男の子が、火がついたように泣いている。
「静かにしろ! 引っぱたいて黙らせてやるぞ!」
ラルフは、ヒュッとムチをしごいた。すると、おびえた子どもはますます大声で泣きわめく。
(子どもはたいした値がつかないから、殺しちまおうか?)
ラルフはニュートンの耳にささやいた。
「いや、子どもを殺せば母親が泣きわめいて、手がつけられなくなるぞ」
ニュートンはそう言ってラルフを制すると、自分でその男の子の鎖をボルトから外し、母親らしき女の所に連れていって、彼女の枷に通して結びつけた。
すると、その女奴隷は感謝に目を潤ませてニュートンを見上げ、枷をはめた両手で子どもを力いっぱい抱きしめた。そうすると枷が足にくい込んで痛むはずなのだが、彼女は気にかけずに子どもをあやした。すると、子どもはぴたりと泣きやんだ。
「奴隷は商品にすぎないんだから、同情は禁物だぜ」
ラルフは釘を刺すように言った。
奴隷を仕入れる
その翌日、ラルフの案内で、少し離れた小島に奴隷を買いに行くことになった。その島の首長とその家族はことのほか歓迎してくれ、「ヤシ酒」を二人にふるまった。それを飲み干すと、すっかりいい気分になり、彼らは浮かれ気分で現地の若い娘をからかったり、冗談を飛ばしたりした。その後、象牙とタバコ(葉巻)を首長にやって、五人の黒人男女をもらい受けたのだった。
「こいつらは取り引きの値もわからないし、商品の値打ちもわからない。だから少し珍しい物をくれてやるだけで、奴隷をただ同然で分けてくれるのさ」
ラルフは小声で言った。それから、慣れた手つきで五人の奴隷に首枷をはめ、一列に数珠つなぎにして歩かせた。しかし、前から三番めの男は足が悪いらしく、右足を引きずるようにして歩いた。
その時だった。十二、三歳くらいの少女が泣きながらその男の所に駆け寄り、すがりついた。どうやら親子らしい。
「さあさあ、じゃまだよ」
ラルフは少女を引き離そうとしたが、彼女は離れない。
「くそっ!」
彼は舌打ちして少女を蹴った。その時、首長が手招きすると何かささやいた。
「この子を、ただでくれるとさ。年がいかなくても雑用には使えるし、なぐさみものにできるからな」
ラルフは、タバコをもう四、五本首長に渡すと、少女の両手に枷をはめ、その父親の腰に鎖でつないだ。彼らは互いにかばい合うかのようにぴったりと寄り添った。
(どうせ港に着いたら離ればなれになるのになあ)
ふとニュートンの胸に憐憫の情が湧いた。
行列は丘を越えて、ゆっくりと港に向かった。彼らの歩みが遅くなると、ラルフは情け容赦なくムチでビシビシたたいた。しかし、彼らは一人として声を上げない。
「見ろ。こいつらの皮膚は白人みたいに鋭感じゃないんだ。火箸で挟まれても音を上げないやつもいるからな」
ラルフは言った。しかし、ニュートンはそれには疑問を感じた。これらの黒人だってやはり痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいだろう―と思うのだった。
やがて港に着くと、ちょうどシアーブロー島から奴隷を買いに渡ってきた商人がいたので、五人の奴隷をかなり良い値で売った。少女だけ残されたが、そこに来合わせた興行師が見世物に使いたいということで、成人の八割の値で買っていった。
さて、ラルフとニュートンは大金を持ってキッタムの工場に戻ったが、ようすを見に中に入ったラルフはうろたえて飛びだしてきた。
「おい、大変だ! 奴隷が死んじまったぜ」
急いで悪臭漂う現場に行ってみると、工場の中はまるで蒸し風呂のような暑さで、すし詰めにされた奴隷のうち、三人の男女が、上にのしかかった仲間に押し潰されるようにして息絶えていた。いずれも脱水症状を起こしていた。
二人は奴隷たちをまとめて外の水場に連れてゆき、水を飲ませた。それからバケツで何度か水を運び、二人一組でつながれている彼らの上にぶっかけてから、再び前のように正面扉を閉めて錠を下ろした。
「五人買い込んで、良い値で売れたのはよかったが、三人に死なれちゃなあ。アフマドのだんなはおかんむりだぜ」
ラルフは言った。
しかし翌日、金を渡してすべてを報告すると、アフマドは、死んだ奴隷については何も言わず、二人には十分な報酬を与えたうえ、奴隷を見つけたことへのチップまでくれた。ニュートンは、思いがけない大金を手にして舞い上がった。
「黒真珠」貿易の中毒性
その夜、二人は宿舎のニュートンの部屋で、高級な酒やふだん口にできないような高価な食材を買い込んできて酒盛りをした。頭がクラクラするような強いラム酒やジンをたて続けにあおり、彼らは夜通し浮かれ騒いだ。
「もつべきものは、金持ちで寛大な主人だなあ」
すでに酔いが回ったラルフは、だみ声で言った。
「それに、何と言っても良い獲物だ」
「あんたが、この貿易は一度やったらやめられないと言っていたわけがわかったよ」
ニュートンが大声で言うと、ラルフはにやりと笑って、酒臭い息を吐きかけるようにしてささやいた。
「黒い真珠のおかげだぜ」
ニュートンは、はっとした。初めて父親の船で航海したとき、船員たちが互いにささやき合っていた隠語が、今はっきりわかったのである。彼は大声で笑いだした。それから、汚らわしいことばを続けざまに吐き散らして悦にいった。
「おまえ、なかなかやるな。そんなことば、どこで覚えたんだい?」
「ロンドンの盛り場さ。おれ、酒の味を初めて覚えた頃、友達とあちこちの酒場に入り浸ってさ、女をからかったり、下品な話もずいぶんしたものさ」
そう言って肩をそびやかした瞬間、どういうわけか、あのメアリーの純粋な面影と天使のような微笑が心に映し出された。
(彼女とも二度と会うことはあるまい。おれはもう、この商売にどっぷり浸かっちまったから、イギリスに帰ることもないだろう)
「おいっ! もっと面白い芸当をやって見せようか?」
突然、ニュートンは大声を出した。
「ほう、何だろう?」
ラルフは面白そうに首をかしげた。
「おれはな、みんながありがたがっている神様を冒瀆して、笑い飛ばしてやるのさ」
そして、ニュートンはだみ声で、調子をつけて歌いだした。
おおい、神様やあい!
おまえはうそつき、ペテン師だ。
人をだまして地獄に落とし、
あの手この手で苦しめる。
おまえは汚い、ごみやろう。
だれがおまえを信じるか!
「おいおい、もういい加減でやめとけよ」
ラルフはあきれたように言った。
「おれ、あんまり信仰深いほうじゃないけどよ、昔死んだ親父がよく言っていたのを今でも覚えてるぜ。『神様は侮られるような方じゃない』ってな。人を悪しざまに言うのはいいけどよ、神を冒瀆するやつは、ろくな人生を送れないような気がするぜ」
ニュートンは肩をすくめ、またオランダ・ジンを浴びるように飲んだかと思うと、そのまま床に引っくり返って寝てしまった。
彼は夢を見た。黒人の女に首枷をはめている。彼女は目を上げ、恨めしそうにじっと自分を見つめていた。―と、それはいつのまにか、あのクロウの妻ぺピタに変わっていた。
「あたしはね、生きている限りおまえたち白人を呪ってやるよ」
彼女は凄まじい形相になって言った。
「あんたにあんなひどいことをしたのも、あんたが白人だからさ。白人は、あたしたちが平和に暮らしていた島にやってきて、部族同士戦争をさせ、奴隷になったあたしを高い値で別の部族に売りつけた。でもクロウだけは、あたしの美しさを認めて対等に扱ってくれた。だから、彼の商売を繁盛させてやったのさ。いいかい。あんたがた白人は、奴隷貿易の呪いをお墓の中までもって行くんだよ」
次の瞬間、ニュートンは大声で叫び、自分の声で目を覚ました。
【「百万人の福音」2017年8月号より】