《連載小説》奴隷商人から神の僕に〔第4話〕

カルチャー

賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯

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第4話

栗栖ひろみ・作

プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。

運命の曲がり角

 ケント州メイドストーンに着き、父から言いつかった用事を済ませると、ニュートンはすぐにチャタムのキャットリット家を訪れた。母が亡くなった当初、しばらくこの家に預けられていたのだが、世話をしてくれたエリザベス・キャットリットの顔をぼんやりと覚えているだけで、他の記憶はほとんどなかった。それに、父が航海から帰った日、彼の再婚を巡ってエリザベスと口論になり、それっきり両家は交際していなかったのである。
 遠慮がちに戸をたたくと、金髪の少女が出迎えた。
 「ニュートンさんですね? 寒い中、よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ」
 ニュートンは、この美しい少女に引きつけられ、しばらく目を離すことができずにいた。一瞬、母親が昔読んでくれた絵本の中に描かれた天使が舞い降りたのではないかと思った。編み下げにした金髪は、午後の陽ざしを受けてキラキラと輝き、目は海のような青さをたたえていた。そして、こざっぱりとした服にエプロンをつけていたが、その飾らないようすが何とも言えない気品をにじませていた。
 あまり長いこと彼が自分を見つめているので、少女はいぶかしげに、また声をかけた。
 「どうぞ。母もお会いしたがっていましたわ」
そして、握手のために手を差し出し、自分はキャットリット家の長女でメアリーという名であると言った。
 (何てかわいらしくてきれいな子なんだろう。こんな子、ロンドンじゃめったに見かけないな)
 そう思いつつ、彼も手を出して握手した。
 客間に通されてしばらく待っていると、やがてエリザベス・キャットリットが、メアリーの妹らしいもう1人の少女と一緒に外出から帰ってきた。
 「まあ、ジョン! 立派になったこと。わたしがあなたを最後に見たのは9年前ですものね」
 彼女は両手を広げて彼を抱きしめた。
 「エリザベスおばさん、お元気でしたか?」
 「ええ。わたしは健康を守られて何とかきたけど、主人は長いこと病気がちでね。病院と家を往復しているうちに、半年前に亡くなったのよ」
 そういえば昔、この家に引き取られた頃、町役場の書記をしているというキャットリット家当主がいたことがぼんやりと思い出された。顔はまったく覚えていないが、穏やかで優しい声をした人であることが記憶に残っていた。
 それから、メアリーの妹がお茶の用意をしてくれたので、しばらくは楽しい語らいの時が流れた。町の悪い仲間たちと浮かれ騒いでいる時には、あれほど毒舌を吐いたり、悪態をついていた彼が、メアリーを前にするや、まるで舌が上顎に引っついたように、口がカラカラになって何もしゃべれず、ただこの世のものとも思われないような美しい女の子の側にいる幸せをかみしめているきりであった。

「あんたがおれの嫁さんになればいいんだ」

 そのうち、エリザベスは家事をするために奥に引っ込み、メアリーの妹も繕いものをするために自分の部屋に行ってしまうと、客間には2人だけが残された。
 「あんた、なんてきれいな女の子だろう」
 やがてニュートンは口を開いた。
 「ロンドンにもきれいな女の子たくさんいるけど、あんたみたいな品の良い子、めったにいないぜ」
 乱暴でぎこちないことばでようやくこう言うと、メアリーは微笑するだけだった。
 「ジョン、外へ出てみない?」
 それっきり会話が途絶えたので、メアリーは思いついたようにこう言い、コートに手を通した。ニュートンもコートを羽織り、その後について部屋を出た。
 「庭の後ろに菜園があるのよ。母と一緒に野菜の苗を植えたの。じゃが芋は来年になったら掘ることができるそうよ」
 菜園はかなり広かった。
 「じゃが芋は好き?」
 ニュートンは首を横に振った。
 「小さい頃のことだけど、亡くなった母親が赤かぶを植えていたな。よくそれでおいしいスープを作ってくれたよ」
 それから、急に自慢がしたくなったので言った。
 「でも、こう言っては悪いけど、イギリスの料理なんてあまりうまくないな。おれ、時々親父と一緒に船に乗って旅に出るんだけど、スペインに行くとね、びっくりするほどおいしい料理が食べられるんだ。魚や貝を使ってね」
 「そうなの? すてきね」
 「お米の中に野菜と一緒にエビや貝類を入れて炊き込むパエリヤって料理があるけど、食べさせてあげたいな。うまいぞ」
 メアリーは、面白そうに首をかしげて聞いていた。
 「いつか一緒に船に乗ろうよ。親父は自分を跡取りにして船長にさせたいんだ。そうしたら職にあぶれることはないし、地中海の島で珍しい物を買うこともできるんだ。おいしい料理も食べられる。それには—だな」
 彼は、口の中がまたカラカラに乾くのを覚えた。うまくことばが出てこない。それでも何とかして心の中の思いを伝えようと、声を振り絞った。
 「それには—あんたがおれのお嫁さんになればいいんだ。そうしたら—」
 突然、メアリーは笑いだした。ばかにした笑いではなく、楽しそうな、晴れやかな笑いであった。
 「まあ、ジョン。あたし、まだ14歳にもなっていないのよ」
 それから、また笑った。
 それは、雲間から太陽が顔を出したような瞬間だった。ニュートンもつられて笑った。暗い廊下を歩き続けて、思いがけず扉の向こうに明るい空間を発見したような、彼の人生で初めて味わう幸せであった。ほんの一瞬だが、彼はすべての物事をすなおに受け取れそうな気がした。
 その時、夕食の準備ができたという知らせがあり、2人は客間に戻った。
 こうして、キャットリット家の滞在は夢のように過ぎてゆき、気がつくと、初めはほんの数時間の予定だったのに、3週間にもなってしまっていた。激怒する父と、困惑するマネスティの顔が目の前に浮かんだ。もうこれ以上ここに長居することは許されないだろう。ニュートンは自分でも信じられなかった。初めて会ったのに、どうしてこんなにこの少女に引かれるのか? ロンドンで遊びまわっていた時に、同じような年頃の女の子をたくさん見かけたが、彼はまるで関心がなかった。それなのに、このメアリーという少女がドアを開けたその瞬間に、彼は熱したやっとこでギュッと心臓をつかまれたような思いがしたのだ。

神は愛である—聖書

 「そろそろ帰ります」
 ようやくニュートンはこう告げた。エリザベスは引き止めなかった。その時、メアリーはあることを思いついたようにニュートンを手招きし、奥の小部屋に案内した。そこは書庫になっていて、キャットリット家当主が読んでいたと思われる本がずらりと並んでいた。
 「ここにね、キャットリット家が代々大切にしている家宝があるのよ」
 メアリーはそう言って、机の上に置かれた分厚い本を見せてくれた。
 「それって、何の本なの?」
 ニュートンは指で表紙に触れた瞬間、まるで火傷でもしたように指を引っ込めた。
 「聖書よ。母がお祈りの時にいつも読んでいるわ」
 メアリーは大切そうにその本を手に取り、ページをめくって、たどたどしくはあったがきれいな声で朗読した。
 「愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生まれた者であって、神を知っている。愛さない者は、神を知らない。神は愛である」(口語訳/Ⅰヨハネ4・7、8)
 神は愛である—このことばが、まるで稲妻のように、彼に昔のことを思い起こさせた。彼は化石のようになって、一生懸命に文字をたどって朗読する少女を見つめた。一瞬、そこに母が座っているような気がしたのである。そういえば、このメアリーという少女は不思議に母に似ていた。
 「ジョン」
 メアリーは聖書を閉じると、それを大切に机の上に置き、にっこりとして言った。
「あなたはもう大きいから、すらすらと聖書が読めるでしょう?」
 「読めるけど、もう何年も見たこともなければ読んだこともないさ」
 ニュートンは肩をそびやかして言った。
 「小さい頃、母が信心深かったから、いつも聖書を読むのを聞いていたけど、それ以来さっぱりだな。教会にも行かないし」
 「まあ、ジョン」
 メアリーはびっくりしたように目を見開いたが、すぐに微笑して言った。
 「わたし、あなたの分までお祈りしてあげるわ」
 重い腰を上げて、やっとニュートンが支度を終えると、エリザベスは辻馬車を呼びに行った。馬車が来るまでの間、彼は何とかしていちばん大切なことをメアリーに伝えたいと思ったのだが、肝心なことばが出てこなかった。
 「さようなら、また、いつか」
 メアリーはそう言って、握手をしたきりだった。
 「こっちに来ることがあったら、また寄ってちょうだいね」
 エリザベスは、にっこり笑って彼の手を握った。
 馬車が動きだし、ニュートンは手を振る彼らの姿が見えなくなるまで、窓から身を乗り出していた。

変わらぬ性質

 「おまえというやつは、なんてやつなんだ!」
 彼が戻ると、父親はその横面を張り倒して叫んだ。
 「せっかくマネスティさんがお前の将来のために、ジャマイカに連れていってくださるというのに、その好意を踏みにじるとは。この恥知らず」
 ニュートンは、エリザベス・キャットリットとその家族に引き止められたとを言い、あれこれと言いわけをした。
 「もう、おまえのためには何もしてやらんぞ」
 父親は叫んだ。
 しかしながら、それから数日たつと、またしても彼は息子のことをあれこれと考え、知り合いの船長に頼みこんで彼をアドリア海への航海に行かせることにした。
 「そこまでしてやることはないですよ」
 義母が腹立たしげに言うのが壁越しに聞こえた。それを聞きながら、彼は肩をそびやかした。
 (お父さんは、しつこくおれを航海に出すつもりなんだな。やっぱり義母さんの手前、おれを自分のところに置きたくないんだ)
 再びニュートンは航海に出たが、今度は父親が一緒ではないので自由奔放に振る舞ったすぐに船員たちと意気投合して、荒々しいことばでだじゃれを飛ばしたり、ジンやラム酒をあおり、町で流行しているようないかがわしい話を面白おかしく語り、相変わらず、神を冒瀆することばを吐き散らした。
 「やれやれ。ニュートンの親父さんも、とんだ息子をもったな」
 「あれじゃ、町のごろつきと変わりないさ」
 船員たちは、物陰でひそひそ話をしていた。
そのうち、ニュートンは賭博に興じ、仲間にけんかを吹っかけたり、暴力沙汰を引き起こしたりしたので、船長は頭を抱え、早めに帰国して彼を船から追い払うことにした。彼がこの航海を終えて父親のもとに帰ったのは、翌年、1743年2月のことだった。
【「百万人の福音」2017年4月号より】

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