《連載小説》奴隷商人から神の僕に〔第22話〕

カルチャー

賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯

第22話

栗栖ひろみ・作

プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。

ウィルバーフォースの懇願

 1786年12月。ニュートンはウィルバーフォースとジョン・ソーントンの息子であるヘンリー・ソーントンの訪問を受けた。
 「先日は、あなたにまことに適切な忠告を頂きました。わたしは、政治家にしかできないことがあるのだということに気づかされ、議員職に留まる決心をいたしました」
 まずは、ウィルバーフォースがこう挨拶を述べると、ニュートンの顔はみるみる輝いた。
 「それでわたしは、ジョン・ソーントンさんやヘンリー・ソーントンさんを中心とするクラパム派(※ イギリス国教会内部にある福音主義の小グループで、宣教活動や社会改良事業などを提唱・推進した)の人々と協力し合って、このイギリスを暗くしている社会悪と向き合う覚悟を決めました。そこでニュートンさん、このたびはぜひともあなたにご協力をお願いしたいのですが」
 ウィルバーフォースは重ねてそう言い、頭を下げた。ニュートンは微笑し、2人の手を握った。
 「ジョン・ソーントンさんは私の恩人であり、ご子息共々、クラパム派のメンバーとなって社会改良をなさっていることは知っています。そのお働きを思うたびに、いつも神様のご加護があるようにと祈っております。このわたしに協力できることがあれば、何でもいたしますよ」 

 「実は―」
 と、今度はヘンリー・ソーントンが言った。
 「今われわれは、このイギリス最大の社会悪である奴隷貿易の廃止を求めて運動しております。しかし、最初から大きな障害があるのです。つまり、イギリス国内では、多数の人が奴隷制度を悪と思っていません。廃止案を議会で通過させるには、どんなにこの制度が残酷で悪いものであるかを、多くの人に知ってもらわなければなりません。そのため、実際に奴隷貿易に関わった経験のある人の証言が必要なのです」
 これを聞いた瞬間、ニュートンの顔が青ざめた。
 「ニュートンさん、お願いです」
 ウィルバーフォースは、彼の前に膝をつき、頭を下げた。
 「あなたに断りなく前歴を調べたことはお許しください。でも、あなた無くして、証言できる人はいないのです。どうか、体験されたすべてのことを実例をもって話してください。その資料がない限り、廃止法案を議会で通過させることはできないのです」
 ニュートンは、両手で顔を覆った。その口から、傷を負った獣のようなうめき声がもれた。
 「それを―このわたしにやれとおっしゃるのですか? 思い出すたびに全身が焼かれるような思いがする忌まわしい過去の所業を、明るみにさらけ出せと言われるのですか?」
 「わたしたちクラパム派のメンバーは、みんな深手を負っています」
 ヘンリー・ソーントンが言った。
 「わたしたちは、イギリス国民の間に根強く残されている悪い風俗習慣を変えさせるために闘ってきましたが、若い女性の売春をやめさせようと運動を始めると、風俗店を経営する悪党どもから嫌がらせをされ、メンバーの一人は夜道で襲われて大けがをしました。
 また、『熊いじめ』のような、動物を長時間にわたってなぶり殺しにするゲームをやめさせようと、町角で演説をしていると、業者からあくどい嫌がらせを受け、別のメンバーは家に放火されました。だから、わたしたちは全員、誰一人として無傷のままではこのような改革はできないと覚悟しているのです。改革には代償が付きものですからね」
 「こうしたことに先立ち、アフリカにおける奴隷貿易―これが廃止されない限り、このイギリスという国そのものが、倫理的にも文化的にも崩壊してしまう」
 ウィルバーフォースは、再びニュートンの前に膝をついた。
 「ニュートンさん、今一度お願いします。これ、このとおり」
 ニュートンはしばらく両手で顔を覆っていたが、立ち上がると、机の中から愛用して離すことのない聖書を取り出し、その上に手を置いた。
 「神様がわたしに、ほんのわずかでも過去の罪を償う機会を与えてくださったことが、今わかりました。もし、アフリカの兄弟たちに自由を得させるこの運動への協力を拒んだなら、わたしは永遠に天国に行けないでしょう」
 そして、彼は震える手を差し伸べ、2人の手を固く握った。
 「これから資料を作りましょう。少しだけ時間を下さい」
 その後、幾つかの打ち合わせをしてから、ウィルバーフォースとヘンリー・ソーントンは帰っていった。

ニュートンの苦悩

 ニュートンは自室に駆け込むと、壁に掛けてある十字架の前に伏し倒れた。
 (ああ、神様。あなたは何ということをなさるお方でしょう。今こそ、私の隠された罪―思い出すだけで身震いするような忌まわしい行動の数々―それが白日のもとにさらされるのです。人々は嘲笑して言うでしょう。
 「なんだ、奴隷を売買していた男が聖職者になっているのか。黒人を売って金をもうけ、彼らをさんざん虐待したり、死なせたりしたような男が神のことばを語るなんてとんでもない」「こんな人間のくずが、今度は牧師になって奴隷制度に反対しているんだとさ。天罰が下ればいい」と。
 わたしは、もしかしたら、もう教会にいられなくなるかもしれません)
 しばらく彼は、床に伏したままでいた。それから身を起こすと、天を仰いだ。
 (けれども、神様、あなたに感謝します。あなたが、この最後の償いの場にわたしを導かれたことを感謝します。このイギリスの、いいえ世界最大の恥辱である「奴隷貿易」の廃止という使命に参与させるために、わたしを今まで多くの危険から守り導いてくださったのですね)

 苦痛を和らげる薬を飲みつつ自宅療養をしている妻のメアリーは、相変わらず一進一退の病状を繰り返していたが、この日はいつもより元気でニュートンといろいろな話をしていた。
 「ねえ、メアリー」
 ニュートンは妻の手を取り、その耳もとで言った。
 「わたしはクラパム派のソーントンさんたちに協力して、奴隷貿易廃止案を議会に提出する資料を作ることになったんだよ」
 メアリーは、目を見開いて夫を見つめた。
 「それこそ神様のみこころ。長い間、このためにお祈りしてきました。その願いがかなえられたのですね」
 彼女の目から涙があふれ出してきた。
 「でもね、メアリー。わたしは教会員には前歴を語らなかったが、この資料が一般に公開された時には、わたしたちは教会を去らなくてはならないかもしれないんだよ」
 「いいじゃありませんか。だって神様は、あなたをこの恐ろしい職業から遠ざけてくださっただけではなく、気の毒な黒人たちが自由を得るために、さらにあなたを用いてくださろうとしているんですもの」
 「ありがとう、メアリー」
 彼の目からも、涙があふれてきた。
 「それに…」
 メアリーは、天を仰いだ。神々しいほどの微笑が、その口もとに浮かんだ。
 「わたしへの配慮でしたら…もうわたしはこの地上で生活できる日は数えるほどしかありませんもの。治療費のことで苦労をかけるのもあとわずかです」
 「わたしだって、もう高齢になってきたから、もし聖職者の座から外され、路頭に迷うことがあっても、救貧院の世話になればいいものね」
 2人は微笑し合った。

ついに執筆に取りかかる

 ニュートンは、すべての仕事を早めに片づけて、資料作りに取りかかった。ウィルバーフォースが言うように、ただ倫理的、人道的な面を強調して「奴隷貿易は悪だ!」と叫んでも、国民のどれほどが耳を傾けるだろうか? すべてのイギリス国民に納得してもらうためには、奴隷貿易が黒人のみならず、白人にとっても人命損失という大きな危険性をはらんでいることを、まず述べなくてはならない。
 つまり、アフリカにおける奴隷貿易に伴う危険が、多くの若い船員の命を奪い、人口を減少させている事実から述べてゆかなくてはならないのだ。
 彼は、何日もの間ひたすら祈り続けた。その結果、誰もが納得し、この忌まわしい制度の廃止を叫ばずにはいられないような筋書きを考えることができた。
 (まず冒頭は、この忌まわしい事業に関わってきた自分の罪を、神と人との前に告白してから内容に入るべきだ)
 ニュートンはそう思った。そして、名誉も地位も、恥も外聞もすべてかなぐり捨てて、序文の執筆を始めた。

 《私が奴隷商人であった頃》
  「私がかつて、いま思い出しても身震いする商業に積極的に手を貸していたことは、これからもずっと私の恥ずべき思い出として消えずに残っていてほしいと願っています。…アフリカでは約1年半にわたって…囚われの身であり、奴隷でありました。そして、人間としてこれ以上は考えられない最低の次元にまで零落しました。(略)
  …国の歳入の主要な部分がアフリカの貿易に依存している…ということをかりに信じたとしても、私にそのような機会と影響力があるならば、私自身は、政府に対し、議会に対し、そして国民に対し、
 『これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから』(マタイの福音書 27章6節)と言わざるを得ないと思っています。
  …私たちが貧しいアフリカ人のうめき 声や苦悶や血から得ていると考えられる 利益や利便が、私たちが正当に手に入れ、気持ちよく所有しているすべてのものにひどい呪いをかけるようなことがあってはならないと、神は命じているのです」 (ジョン・ニュートンの論文「アフリカ奴隷貿易についての考察」より)

(※)『増補版「アメージング・グレース」物語 ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝』(ジョン・ニュートン著、中澤幸夫編訳/彩流社)より

 序文に続き、いよいよニュートンは本文の最初の章に手をつけた。奴隷貿易というものが何よりもまず、売買されるアフリカの黒人のみならず、貿易を行うすべての国において貿易に関わる船員の人命の損失という深刻な事実を招くことを記さなくてはならないと考えたのだ。

 《政治的重要性①―英国船員の死》
  「アフリカ貿易での人命の損失はまことに驚愕すべきものです。…船員の多くは最初の航海で…船員として正式の資格を得られないうちに、命を落とします。(略)…船上生活を送る船員たちは…炎症性熱病に襲われやすくなります。この熱病は死を招くことはそれほど多くはないものの、不都合な状況が起こったりすると、命取りになります。(略)
  …船員たちは『必ずや』たっぷりと風雨にさらされます。ウインドワードコーストでは特にそうです。(略)
  …雨が…降り続いて…吹きさらしの小船の中では、ほどよい雨宿りの場所を見 つけることは実際上不可能です。
  …小船が本船に戻るときは、必ず…風雨が原因となって、あるいは原住民が… ふるまってくれる生の果物やヤシ酒などの健康に良くない食べ物が原因となっ て、熱病や赤痢にかかった人たちの何人かが運び込まれます。(略)
  …女性の問題に関して、原住民と喧嘩になることが多くあります。…現場で殺 されることがなくても、毒殺されてしまうことが頻繁にあるのです(略)」(同)

 こうしてニュートンは最初の章を書き上げた。

【「百万人の福音」2018年10号より】

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