賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯
第2話
栗栖ひろみ・作
プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。
不信の入り口
それから間もなく、ジョンはエセックス州ストラトフォードにある寄宿学校に入ることになった。
「おまえは賢いから、きちんとした教育を受けたほうがいいと思ってな」
父が言うと、
「休暇には帰れるからね。ごちそうを作って待っているよ」
義母も笑って肩をたたいた。
しかし、ジョンは顔を背けたまま返事もしなかった。
(やつらはこの自分を厄介払いしたいんだ。お父さんは新しい家族と幸せになりたいんだろうし、新しいお母さんと子どもたちは、ぼくを嫌っているからな)
本当は、父と義母はよく話し合い、ジョンのために良かれと思ってこの学校を見つけてきたのだが、この頃の彼は、すべての物事をまっすぐに受け取れないひねくれ者になっていた。
さて、彼が送り込まれた学校は、男子を厳しく鍛えることを目的とした有名校で、初めて足を踏み入れた彼は、わけもなく体が震え、足がすくむのを覚えた。最初の日から、ヒギンスという校長は、おどおどして人の顔色をうかがう陰気なこの少年に目をつけ、少し鍛えてやらねばと考えた。
「ジョン・ニュートン! おまえは名前を呼ばれても返事ができないのか?」
校長は、つかつかと彼の所に来ると、耳をつまんで嫌というほどひねり上げ、そのままぶら下げるようにして立たせた。
「返事をしなさい、返事を!」
ジョンは痛さのあまり顔をしかめながら、蚊の鳴くような声で「はい」と言った。実は、名前を呼ばれた時、この校長が恐ろしくて萎縮してしまい、声が出なかったのである。そうして立たされている間、彼は辛うじて机で身を支えていた。
この日から、ヒギンス校長は彼を目の敵にして、わざと難しい問題を解かせ、できないと手ひどい懲罰を与えるのだった。実際、ジョンはひっきりなしにムチで打たれたため、その体はあざだらけで、人前で裸になるのを拒んだと言われている。
ジョンは、校長の暴力から逃れるために死にもの狂いで勉強し、予習もしっかり行って質問に答えられるように準備した。ところが、校長は彼が十分に勉強したことを知りつつ、答えられないような難問を作っては彼に当てるのであった。
校長は、いつも泣きべそをかいている弱々しいこの少年を男らしく鍛えてやろうと考えていたわけであるが、ジョンにとっては「いじめ」にほかならなかった。彼はすっかり自信をなくしてしまった。そして、以前にもまして無口になった。
寄宿舎では、4人に1つずつ部屋を当てがわれ共同生活をすることになっていたが、彼には1人の友達もできなかった。ヒギンス校長があまり彼をしごくので、内心同情する者もいたが、進んで友達になろうという者はいなかった。
「あいつ、陰気で何を考えているかわからないよな。気持ち悪いよ」
「話しかけようと思っても、あの目でじろっと見られると、それ以上近づけないな」
彼らは、仲間同士でひそひそとうわさをし合った。
ジョンはいつも1人で食事をし、1人で勉強し、校庭で級友が楽しそうに遊ぶのを1人で眺めていた。そして、身を縮めるようにして彼らを避けた。彼は、すべての人間が信じられなかったのである。
しかし、2年めになると突然状況が変わった。クラス担任として新しい教師がやってきたのである。H・ホッジスというこの教師は不思議なことに、ジョン・ニュートンという生徒に心引かれ、彼にことばをかけた。
「何でもきみは、ラテン語ができるという話じゃないか。誰に教わったのだね」
「母親です。2年前に亡くなりました」
彼は、上目遣いに教師を見上げながら、小声で言った。
「そう。小さいうちからラテン語を教えこむなんて、きみのお母さんはすばらしい人だね」
この瞬間、閉ざされていたジョンの心がわずかに開き、この教師に対して信頼の念が芽生えた。
どういうわけかこの教師はジョンに目をかけてくれ、とても親切に指導してくれるのだった。彼は少しずつ傷つけられた自尊心が癒やされ、自信を回復していった。
そうなると、今までばかにしたり、意地の悪いことばを投げつけたりしていたクラスの友人の、ジョンに対する態度にも変化が現れてきた。そして、1人、2人と友達もできたのであった。
ジョンは勉強に精出し、間もなくクラスで1番となり、ラテン語ではヴェルギリウスやキケロといったローマ時代の哲学者の著作を読むこともできるようになったのである。これは後に、彼のために大いに役立つことになる。
父親と船の旅へ
こうして、やっと学校が楽しくなってきた矢先、突然、父親は彼に学校を辞めるように命じた。
「ジョン、お父さんと一緒に船の旅に出ないか?」
「ええ? どうして?」
「おまえは男の子だから、将来わたしの跡を継げるようにしておいたほうがいいと思うのだ」
かねがね、船の旅に憧れをもっていたジョンは、たちまち父のことばに同意した。
「いいよ、お父さん」
こうして、彼は学校を中退することになり、父親と共に地中海に向けて出航することになった。この時、ジョンは11歳になったばかりだった。
行く先はスペインである。彼は舵を取る一等航海士の横に座り、船が白波を蹴立てて進んでいくのをじっと見ていた。船旅は何もかもが新鮮で新しい経験だった。港に着くたびに船は錨を下ろし、船員が小舟で陸に渡って商品をいろいろ積んで帰ってきた。それを皆で本船に引き上げる作業を行うのであった。
ジョンは父親が船長としていろいろな命令を出し、船員がそれに従うのを見て誇らしく思った。しかし、父が彼に、船員に手伝って荷を船の倉庫まで運ぶように命令した時は、怒りが込み上げてきた。
(自分は船長の息子じゃないか。どうして部下である船員と同じように荷を運んで汗を流さなくちゃいけないのさ)
彼はぶつぶつと不平を言った。しかし、父は厳しい口調で命令し、従えないなら途中で降ろすぞと脅かしたので、しぶしぶ従わざるを得なかった。
それから間もなく、ジョンは船員たちが面白おかしい話をしたり、荒々しいことばを吐いたりするのに興味をもつようになった。
「こんちくしょう! 何てひでえ天候だ!」
「あのやろう、今度会ったらただじゃおかねえぞ!」
彼がそれを口まねすると、船員たちはどっとはやし立てた。
「船長の坊ちゃん、なかなかやるねぇ」
ジョンは調子に乗って、彼らを面白がらせるために、いつもこっそりと心の中でつぶやいていたことばを大声で言って見せた。
「神様なんて、ペテン師だ!」
「おいおい、そういうことばはいけないぜ」
彼らはジョンをいさめたが、ある者は面白がった。
ジョンは父親の側にいるよりも、船員たちと話をしたり、冗談口をたたき合ったりするのが楽しくなってきた。彼らは、あのヒギンス校長や級友のように彼を嘲笑したり、のけ者にすることがなく、仲間として扱ってくれたからである。夜など、船員が船室で車座になって座り、話を始めると必ずそこに割り込んだ。
「黒い真珠」のうわさ
「おい、一杯やるか」
1人がポケットからラム酒の瓶をこっそり出して仲間に回した。
「おまえもやるか? 親父さんには内緒だよ」
1人がそれをジョンに回してきたので、彼はこっそりなめてみた。ひっくり返るほど強烈な味だった。一同はどっと笑った。すると、彼は体内で凶暴な火が激しく燃えさかるのを覚えた。そこで、小瓶を引ったくるように奪うと、目をつぶってひと口飲み下した。
「おい、船長に大目玉をくらうぞ」
1人が仲間に目くばせすると、小瓶を彼から取り上げた。そのままジョンはひっくり返って寝てしまった。しかし、彼らの話が切れ切れに耳に入ってくるので、うつらうつらしながら聞いていた。
「…しかしなあ、地中海貿易なんてもうかるはずがないぜ。うちの船長は絶対にやらないが、アフリカに仕入れに行かないとなあ」
「そうだな。アフリカに行って象牙や宝石なんかを買わないとな」
「それと、ほら、何と言ってもあの黒い真珠よ。あれの売買に手を出しゃ、一発で大金が入るっていうぜ」
黒い真珠…黒い真珠って何だろう? …ジョンは快い眠りに引き込まれながら、首をかしげた。
その翌日。彼は積荷作業の時、仲良くなった船員に聞いてみた。
「ねえ、黒い真珠って何?」
すると、彼は目をむき、驚いたように目の前の少年の顔を見たが、あいまいな笑いを浮かべて首を振った。
「さあ、知らないねえ」
何人かに聞いてみたが、皆同じようにごまかして答えてくれなかった。ジョンはいろいろ考えた末に、ようやくこのように結論づけた。
(きっとそれは、公にできないやり方で手に入れる、ものすごく高価な品なんだろうな)
ずっと後になって、彼はそれがある種の貿易の隠語であることを知るのである。
それは、黒人奴隷を商品として売買するというもので、一度手を染めたら二度と抜け出すことのできない、忌まわしい「奴隷貿易」そのものであった。
【「百万人の福音」2017年2月号より】