《連載小説》奴隷商人から神の僕に〔第19話〕

カルチャー

賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯

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第19話

栗栖ひろみ・作

プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。

クーパーを襲う悲劇

 1772年初めのことだった。その頃、ウィリアム・クーパーは兄のジョンと信仰上のことで仲たがいをし、ほとんど行き来をしていなかった。それがある日、兄が重病で倒れたという知らせが入ったので、ケンブリッジに駆けつけ、手厚く看病した。医者は絶望を宣告した。2人を隔てていた障害もなくなり、兄弟はようやく手を取り合って一緒に祈ることができたのだが、間もなく兄はクーパーに見守られながら息を引き取った。
 これがクーパーにとって悲劇の始まりで、その後、彼の2人のいとこが相次いで亡くなった。また、家族同然にしていたアンウィン家のウィリアムが牧師となって家を出て遠方に行くことになり、妹のスザンナも結婚して家を出てしまった。クーパーは深い孤独感にさいなまれ、再び心の均衡を失って、鬱病を再発させてしまったのだった。
 メアリー・アンウィンは実の母親のようにクーパーを世話した。しかし彼は鬱病のせいで心を閉ざし、もう、神が愛であることも、世界は神の御手の中にあることも信じようとしなかった。
 「あんたが言っていることはうそだ!」
 クーパーは、心配して訪れたニュートンにくってかかった。
 「人間が何度罪を犯しても神は救ってくれるとあんたは言った。でも、神は人を選んで救うじゃないか。自分の心にかなう者だけを救うんだ」
 ニュートンは、惨めな状態に陥っているクーパーを慰めるために、1つの賛美歌を作ろうと考えた。
 (自分のような最低の人間をも救ってくださった神が、人を選んで救うはずがない。これをクーパーに知らせるために、この歌をささげよう)
 これはまさに、クーパーを救うためでもあり、また、どん底にいるすべての人を救う歌となるはずだった。

 ニュートンは作詞に熱中した。まず心にひらめいたのは、すべての人を救う神の愛を賛美するために「アメイジング・グレイス」(驚くべき恩寵)という題をつけたいと思った。

 アメージング・グレース、(何と甘美なる響き) 
 (『オウルニィ讃美歌集』より/中澤幸夫訳 以下同様)

 最初の1節を書きだしたきり、筆が止まった。後がどうしても続かないのである。
 「神は人を選んで救うじゃないか!」
 クーパーの悲惨な声が心の中でこだました。違うよ、クーパー。神の愛はすべての罪人に向けられ、その手はすべての生きとし生ける者に向かって差し伸べられているのだ。
 ニュートンは、クーパーの苦しみを思いつつ、必死になって筆を進めようとしたが、いくらことばを練っても、聖句を引用しても歌詞を作ることができなかった。
 その年も12月に入り、クリスマスの準備が忙しくなってきた。ニュートンは説教の原稿作り、子どもたちのためのクリスマス会の企画、聖歌隊の指導、その他にも訪問や貧しい人々に食物を届ける奉仕…などの用意をしなくてはならなかったが、クーパーのことが心に重くのしかかり、何とかして年内にこの賛美歌を完成させたいと思った。
 彼は歌詞を考えて、考えて―しかし、何もできずに放心状態のまま、ふと窓の外を見た。貧しい商家の主婦たちは、年に1度のごちそうの準備をするために町に出、買い物に大忙しだった。また、子どもたちへの贈り物のためにあちこちの店をのぞく人々の姿も見られた。
 ニュートンは、夜ふけまで歌の歌詞を思いめぐらしていたが、何も浮かばないので、諦めてともしびを消して床に就いた。妻のメアリーは病状が思わしくないために、まだ入院中だった。

アメイジング・グレイス

 そのうち、ニュートンは夢を見た。いつのまにか海辺に来ており、海を眺めている。目の前には大きな船が夕日を浴びて銀色に輝きながら停泊している。もう航海に出ることはないので久しぶりに船を見た時、ひどく懐かしい思いがした。―と、その時、彼の手を小さな手がつかんだので振り返ると、5、6歳の黒人の男の子が、人懐こいほほえみを浮かべて立っている。
 「何か用かい?」
 ニュートンは尋ねた。すると男の子は何も言わずに、その手を引っ張るようにして一緒に船に乗った。そして、甲板から降りると、またにっこりと笑った。
 その時である。この世のものとも思われないようなすばらしい合唱が船室から響いてきた。それは、ニュートンがこれから作ろうと苦心している賛美歌であった。扉を開くと、どうだろう! 黒人の老若男女が一つとなり、心から幸せそうに、また、楽しそうに歌っているではないか。

 アメージング・グレース、(何と甘美なる響き)
 道ならぬ私を救ってくださった。
 かつて迷えし者が、今見出され、
 闇を出でて、光の中にいる。

 いつのまにか1節ができていた。
 ああ、そうだ―と彼は悟った。りっぱな歌を、人を感動させる歌を作ろうとことばをこねくり回しても、何もできはしないのだ。そうではなく、「アメイジング・グレイス」は、自分の罪の告白ではないか。自分の罪深さを思い、そんな自分をも大きな恩寵の中に抱き入れてくださった神の恵みをそのままつづればいいのだ。
 ふと見ると、歌っている者たちの中には、ニュートンが初めて奴隷商人になった時、その反抗的な態度が癇にさわり、その腹を蹴った男がいた。また、娘が泣いてすがるのを引き離し、首枷をはめて無理に歩かせた、足の不自由な男もいた。それから、反逆を企てたからと、親指を何度も締めつけて拷問した男たちもいた。彼は思わず前に出ると、彼らの前にひれ伏し、頭を床にすりつけた。
 「許してください、このわたしを!」
 喉から絞り出すような声でそう叫んだ。しかし、そんなことはまったく聞こえないかのように、彼らは手を差し伸べてニュートンを歌の輪の中に引き入れた。気がつくと、彼は黒人たちと兄弟のように肩を組み合って歌っていた。

 神の恵みが私の心に畏れることを教えてくださり、
 くだんの恐怖も消えた!
 恵みがどれほどありがたく思えたことか、
 初めて祈ったとき。

 ニュートンは、あの恐ろしい嵐に遭遇して九死に一生を得たことを思い出していた。また、欲を出して奴隷貿易を行った末、自らが鎖につながれ、船の中に監禁されていた日々のことを思い出していた。

 七難八苦、数多の誘惑を乗り越え、
 ようやくたどり着いた。
 ここまで無事にこれたのも、神の恵み、
 だから故郷にも連れて行ってくださるだろう。

 「ありがとうよ、ニュートンさん」
 その時、黒人の老女が、彼の手を握った。
 「あんたの歌は、わたしら一族に労働の苦しみを忘れさせてくれたよ。だから力を与えられ、みんなで頑張ることができるのさ」

 ニュートンは、はっと目が覚めた。
 「何ということだ」
 そうつぶやくと、彼は記憶が許す限り、その歌詞をメモに書きつけた。3番まで書き終えると、不思議なことに、あとからあとから歌詞が生まれてきて、気がつくと残りの4番から6番までが完成していた。

 主は私に良きことを約束してくださった、
 主の約束は私の希望の支え、
 主は私の盾と分になってくれるだろう、
 命が続く限りは。
 
 そう、この身と心が尽き果て、
 この世の生が終わるとき、
 私が後の世で手に入れるものがありま す、 
 喜びと平和の生活です。

 地球は間もなく雪のようにとけ、
 太陽は輝くことをやめるだろう、
 だが、かくも卑しき私に声をかけてくださった神は、
 永久に私のものになるだろう。

苦しむクーパー

 年が変わり、1773年1月1日。ニュートンは会衆の前でこの賛美歌を披露した。この歌が聖歌隊の少年少女たちによって歌われると、会堂は感動の渦に包まれ、涙を流す者もいた。
 その時、ニュートンは思わず声を上げた。会衆のいちばん後ろに、あのクーパーの姿が見えたからである。
 「クーパー!」
 ニュートンは、我を忘れて彼の所に飛んでいった。
 「きみのために、そしてきみのように心に苦しみをもつすべての人のために、わたしはこの歌をささげます。クーパーさん、神は人を選んでお救いになるのではない。どんな罪人をも救ってくださる。これは、私の生涯かけての証しです」
 クーパーは震えだした。
 「こんな人間のために」
 彼はしゃがれ声で叫んだ。
 「自分はこんなことをしてもらう資格なんかない。わたしの中には、悪魔がいるんだ!」
 そして、彼はニュートンの手を振り切って出て行ってしまった。この時、ニュートンは嫌な予感を覚えたが、それは間もなく適中したのだった。
 真夜中に、激しく戸をたたく音がするので出てみると、メアリー・アンウィンが髪を振り乱して立っていた。クーパーが手首を切って自殺を図ったのだという。ニュートンは彼女に引っ張られるようにして彼らの住居に駆けつけると、家の中は血の海だった。
 「寄るな! 死なせてくれ!」
 彼は大声で叫んだ。
 ニュートンは、彼の体を抱きしめた。それから、メアリーと二人がかりで、血が噴き出している手首を包帯できつく縛り、その体を抱きかかえるようにして、病院に担ぎこんだ。
 その後、ニュートンは彼らを以前のように牧師館に住まわせた。2人は、1年と1か月ほど滞在し、クーパーも通院を続けた結果、病状が快方に向かったので、彼らはオーチャード・サイドの家に戻っていった。しかし、クーパーはそれっきり教会に来なくなった。ニュートンは、何とかして1つでも2つでもいいから、彼と一緒に賛美歌を作りたいと考え、ある日、そのもとを訪ねた。
 クーパーは落ち着いており、病状もかなり良くなっていたが、ニュートンの頼みを聞くと、悲しそうに首を振った。
 「わたしのように、絶望の底に落ちている人間には歌を作る資格なんてありませんし、もう、歌を歌うこともできません。わたしには何一つ残されたものはないのですから」

 「アメイジング・グレイス」は、ニュートンがクーパーと共に作った他の賛美歌とともにオウルニィの町に広まり、誰もが口ずさむようになった。しかし、この段階ではまだ一人歩きをしていなかった。この歌がやがてアメリカに渡り、全世界の人のものとなるには、もう少し時間が必要だったのである。

※歌詞は『増補版「アメージング・グレース」物語 ゴスペルに秘められた元奴隷商人の自伝』(ジョン・ニュートン著、中澤幸夫編訳/彩流社)より引用。
 注/本稿では「アメイジング・グレイス」と表記していますが、上記の書籍からの引用による歌詞表記のみ「アメージング・グレース」を使用します。

【「百万人の福音」2018年7号より】

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