《連載小説》奴隷商人から神の僕に〔第15話〕

カルチャー

賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯

第15話

栗栖ひろみ・作

プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。

神の手が動く

 1754年6月。ニュートンはアフリカ号でリヴァプールに戻った。ジョセフ・マネスティは、奴隷貿易の激しい競争の中でニュートンが多くの奴隷を買いつけ、これを高値で売りさばいた手腕を高く評価した。そして、次の航海も彼を船長として任命した。
 「きみのために新しい船を造らせようと思うんだ。その名前はきみが考えてくれ。とびっきりすばらしい名前をね」
 ニュートンは、妻のメアリーと相談して決めましょうと答え、事務所を出た。船の完成が10月と見込まれていたので、その間ゆっくりと休暇を取ってよいことになった。彼は、久しぶりに仕事のことを忘れて、メアリーと水入らずの楽しい時間を過ごすことができた。
 いよいよ10月。新しい船が完成したという知らせが届いた。あと2日で航海に出るというその日。2人はテラスでお茶を飲みながら、一緒にいられる残り少ないひとときを共にしていた。この時、ニュートンは、妻にある決意を告げるつもりだった。
 「ねえ、メアリー。マネスティさんの好意だから次の仕事もやらせてもらうつもりだけど、奴隷貿易はこれで最後にしようと思うんだ。きみと約束したとおり、毎日船の中で聖書を読んでいるうちに、少しずつ考えが変わってきたんだよ」
 ニュートンは今は亡き船医のロバート・アーサーや、貿易商人のアレキサンダー・クルーニーという2人のクリスチャンと出会い、聖書が語るイエス・キリストの福音に触れたことから今までの生き方を恥じ、また奴隷貿易を続けることが重荷となりつつあることを包み隠さず語った。聞くうちに、メアリーの顔がぱっと輝いた。
 「うれしいわ。あなたの口からそれが聞けて」
 「確かに奴隷貿易はもうかるし、イギリスの経済を支えているのだから、一つの職業として恥じることはないと思っていたんだけどね。何と言うか―自分の意志に反して非道なことをやらなくてはならないことが、たびたび起きてくるんだ。そして、それを続けるうちに、まるで悪魔に操られているように自分が変わっていくんだよ。いくら抵抗しても、この身がずるずると罪の泥沼に沈んでいく」
 その時ニュートンは、いろいろな忌まわしい思い出を胸の中でよみがえらせた。その中には、とてもメアリーに話せないような残酷な記憶もあった。
 「だからね、今回だけは航海に出るけど、もう自分としてはこれで奴隷貿易はおしまいにするつもりだ。だから…船の名前もつけずに…」
 そう言いかけた時だった。どうしたことか、ニュートンは突然発作に襲われて、仰向けに倒れた。そして動けなくなり、呼吸が苦しく、次第に意識が薄れていった。
 「ジョン! どうしたの? ジョン!」
 メアリーは慌てふためき、夫の大きな体を引きずるようにしてベッドに寝かせた。そして、夜中まで介護した。
 翌日になり、ようやく彼は意識を取り戻したが、ひどい頭痛とめまいに襲われ、立ち上がることができなかった。医者を呼んで診てもらうと、医者はまず脳卒中を疑ったが、ニュートンはまだ29歳なので、その可能性はなかった。診察してみて、あれこれ病気の原因を突き止めようとしたが、どれも当てはまらないので、医者は首をひねるばかりだった。
 結局は、一種の熱病に冒されているのかもしれないから、とりあえずはアフリカに航海に出るのは控えたほうがいい、ということになった。
 この状況をマネスティに報告すると、彼は驚きつつもこれを聞き入れ、新しい船でのアフリカ航海は中止となった。ニュートンはいろいろと考えていることもあったので、船長としての職も辞することにした。
 (いったい、どうしたことだろう? あんなに元気で帰ってきたのに)
 マネスティは信じられない思いだった。しかし、病気とあってはニュートンを休ませるしかないので、やむなく代わりの船長を任命し、船員を集めて予定どおり出船した。船は、マネスティが仮に「ブラック・ホーク号」と名づけたが、すでにこの船は不吉な運命をはらんでいた。

メアリーの発病と神の計画

 ニュートンは発作に襲われてから2週間後に、ようやく健康を取り戻した。ところが、どうしたわけか、今度はメアリーが体調を崩して床に就いてしまったのである。彼女はしきりに胸を押さえて苦しむ。ニュートンは必死で妻を看病した。メアリーは夫が航海に出ている間、いろいろな心労を抱えていた。そのうえ、戻ってきた夫が病気で倒れた時、重なる精神的衝撃に耐えられず、病気を引き起こしてしまったのである。
 医者は手を尽くしたが、病状は思わしくなかった。
 「奥さんの胸には腫瘍ができています(注・乳がんだったと言われている)。残念ながら、もう手術をするには手遅れですな」
 医者はニュートンを呼び出すと、小声で告げた。
 この宣告はニュートンを打ちのめした。彼は、自分が今まで続けてきた罪深い生活の代償が彼女に降りかかったような気がした。
 (メアリー、許してくれ)
 ニュートンは、彼女を看護しながら涙を流した。
 (すべて自分のせいだ。今まであまりにもわたしが罪深い生活をしてきたから、神様はわたしのいちばん大切なものを打たれたのだ)
 「わたしなら大丈夫よ、ジョン」
 その時、メアリーは細い声で言った。その顔はぞっとするほど青白かったが、平安で輝いていた。
 「人が病気になるのは、本人が罪を犯したためでもなく、周りの人が罪を犯したためでもないと聖書は語ってるわ。それは、神様がその栄光を現される道具となることなのよ」
 「そうだったね、メアリー。2人で一緒にこの痛みを背負っていこうね」
 ニュートンは、妻の手を握りしめた。
 妻の病気という試練に加えて、ニュートンの上に生活の悩みがのしかかった。奴隷貿易をやめてしまったら、この先どうやって自分とメアリーの生活を支えていったらいいのか。また、長く続くであろう妻の療養のためにも、多くのお金が必要となる。どうやってそれを工面したらいいのか。彼は夜を徹して祈り続けた。そして、その中から死にもの狂いの信仰が生まれてきた。今まで、神のあわれみによって数々の危機を乗り越え、守られてきたのだから、必ずこの先の人生も導かれるだろう―と彼は堅く信じたのだった。
 こうした中、驚くべきことをマネスティ商会が知らせてきた。それは、ニュートンが行くはずであったアフリカ行きの船が、途中で大規模な奴隷の反乱に遭い、船を奪われ、船長をはじめとする船員すべての命が失われたというものだった。
 ニュートンは今こそ理解した。奇妙な作が起きたことも、妻が病気になったことも、奴隷の反乱によって命を奪われることを免れたのも、すべては自分を奴隷貿易から引き離し、新しい生活をさせようとする神の手の成せるわざであることを。

生まれ変わって生きる

 ニュートンは新しい生活をするにあたり、自分の人生の土台を根本的に立て直す決意をした。メアリーの母、エリザベス・キャットリットが来てくれてメアリーの看護をしてくれることになったので、彼は1週間の予定でロンドンに出掛けた。そして、そこで思いもかけず、あのアレキサンダー・クルーニーと再会したのである。
 「もうお目にかかれないと思っていたのに、なんとうれしいことでしょう」
 ニュートンはうれし涙を流して、彼の手をしっかりと握りしめた。そして、不思議な方法で自分が奴隷貿易と決別することができたこと、また、妻が不治の病気という試練に直面した今、これまでの生活を悔い改め、人生を土台から作り直す決意でその手掛かりを求めてロンドンに出てきたことを話した。
 「あなたがたご夫妻の試練が和らげられ、新しい道が開けますように」
 クルーニーは、ニュートンと妻メアリーのために祈ってくれてから、こう勧めた。
 「実は、わたしの友人サミュエル・ブルーアがロンドンに来ているので紹介します。彼は、あなたをホイットフィールドの集会に導いてくれるでしょう」
 クルーニーは間もなく次の航海に出るので、ニュートンは1人でブルーアに会いに行った。そして、彼の導きで世紀の大伝道集会と言われるジョージ・ホイットフィールドの集会に出席することになったのである。
 ブルーアに導かれてたどり着いたところは、ロンドンの中心街で、大きな天幕(テント)が張られていた。
 「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」(ルカ19章10節 口語訳)
 聖書が朗読されると、巡回伝道師のホイットフィールドは「罪人を尋ね求める神」という題で、今もイエス・キリストは罪人であるわれわれを救うために、うらぶれた路地や牢獄、盛り場などを歩いておられるのだと切々と語った。ニュートンは聞いているうちに涙があふれ出して止まらなくなり、その場にくずおれて慟哭した。そして、真の回心へと導かれたのだった。彼はこの日、2つのことを確信した。
 1つは、自分ほどの罪人はこの世にいないのだということ。そしてもう一つは、それにもかかわらず、自分ほど神に愛されている人間はいないのだということであった。

 一方、マネスティはニュートンの身の上を案じ、奴隷貿易ではない別の仕事を探してくれた。彼はニュートンが亡き友人の息子なので、まるで自分の身内のように思っていたからである。
 それは1755年9月中旬のことであった。リヴァプール税関所の職員の一人が辞めるといううわさが流れた。マネスティはこれを聞くや、即座にニュートンをその代わりに推薦してもらおうと、知人の国会議員に手紙を書いた。ところがその矢先、このうわさが事実無根であることがわかり、その若い税関職員は真っ赤になって怒った。
 「私は、税関を辞めるなんて人に言った覚えはない。いったい、どこの誰がそんなでたらめなうわさを流したんだ」
 困ったマネスティは仕方なく、もう一度国会議員に手紙を書き、詫びを入れようと考えていたところ、驚くべきことが起きた。なんと、その税関職員が、自分のベッドで死んでいるのが発見された。急死ということだった。
 こうして、マネスティの知人である国会議員の推薦もあり、税関所長との面接に合格したニュートンは、晴れてリヴァプールの税関所の職員となったのである。これは、一般の人がどんなに背伸びをしてもなかなか得ることのできない高い役職だった。
 採用が決まると、メアリーは涙を流して喜んだ。しかし、やつれたその口元からは、昔見せた天使のような微笑は消えていた。押し寄せる苦痛との闘いがすでに始まったのである。
 「本当にうれしいわ、ジョン」
 彼女は夫の頬をなでて言った。
 「あなたは、神様との約束を守って奴隷貿易をやめたんですもの。きっと神様がこの職場に導いてくださったんだわ」
 ニュートンにとって最大の悩みは、日増しに衰弱していく妻をケント州に残していくことだった。しかし彼は、すべてを神にゆだねようと決心し、祈ってから出発した。
 彼がケント州を出てしばらく馬を進め、次の宿場が見えてきた頃、奇跡が起きた。メアリーは突然快方に向かい、苦痛が和らぎ、食事もできるようになったのである。そして、数か月後には、キャットリット家の者に付き添われてリヴァプールまで旅をし、ニュートンの元に行くことができたのであった。

【「百万人の福音」2018年3月号より】

< 第14話へ第16話へ >

百万人の福音をもっと読む