賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯
第12話
栗栖ひろみ・作
プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。
奴隷商人として立つ
船がシエラレオネに停泊している間に、ボブと他の船員たちは資材の買い付けに行ってしまったので、ニュートンは1人でブランティン島に奴隷を買いに出掛けた。部族の首長との交渉がことのほかうまくいき、彼は50人近い男女の奴隷を買うことができた。彼らに枷をはめ、港に向かう途中、あのアモス・クロウの壮大な屋敷の近くを通りかかると、ニュートンの心に苦い思い出と、クロウ夫妻に対する憎悪がこみ上げてきた。
(今こそおまえたちを見返してやるぜ。このおれはな、今じゃ奴隷貿易の達人だ。おまえたちが3日も4日もかかって手に入れようとする奴隷を、おれはわずか半日で手に入れちまったんだからな)
心の中でそうつぶやき、彼はペッと唾を吐いた。
その翌日。ボブの手が空いたので、ニュートンは彼と一緒にシエラレオネから南に約500キロほど行ったセクターズ川の入江、リオ・セクターズという所で218人もの男女の奴隷を買い、船いっぱいに積み込むことができた。
「あんたの腕はたいしたもんだ。部族の首長とこんなに上手に交渉ができるんだからな」
ボブは顔をほころばせ、あごひげをさすりながら言った。
「まあ、何と言っても交渉力だね」
ニュートンは肩をそびやかして言った。それから、奴隷たちを狭い船室に押し込めると、他の船員たちに手伝わせて片っ端から手枷・足枷をつけて、2人1組にしてボルトにつないだ。これだけでも大変な労働で、全員汗だくになった。ボブはオランダ・ジンの小瓶を出してニュートンに勧めた。2人は酒で喉を潤し、笑いながら手を打ち合わせた。
「…あの、痛いんです」
その時、消え入るような声で、1人の老女が言った。
「足が悪いもんですから、足枷が当たると痛いんです」
ニュートンは腹立たしい思いになったので、返事をしなかった。
「…痛いんです…」
なおも老女は訴えた。
「やかましい!」
突然、ニュートンは酒の勢いもあって怒りを爆発させた。それから、自分を抑えることができずに足を上げると彼女を蹴りつけた。老女は身を折り曲げるようにしてうめき声を上げた。
「粒ぞろいとはいかなくても、やつらはまさに黒い真珠だな」
ボブは、小瓶の酒の残りを全部喉に流し込んでから片目をつぶった。
「多少傷があっても、汚れがあっても、普通の商品の何倍もの値がつくんだからな」
「だからやめられないのさ。わかるだろう?」
ニュートンは、彼を肘で突いて言った。それから、また2人は新しいオランダ・ジンの小瓶を傾け、手を打ち合わせた。
船に必要な荷を積み終えた後、出発までの3日は食料と水の確保に当てることになった。
その1日め。ニュートンが小舟で食料品の調達に出掛けようとすると、突然、トマス・コック船長が「甲板に戻れ!」と命令を出した。そして、彼の代わりにボブに行くよう命じた。なぜそういうことをするのかとニュートンが尋ねたところ、船長はあいまいな微笑を浮かべて言った。
「うん…いや…たいした意味はないんだが…あんたには船にいてもらったほうがいいと思ってな」
しかし、恐ろしいことには、それっきりボブは戻ってこなかった。数時間後に、数人の船員が救助に出掛けて行き、やがて彼の遺体を引き上げて運んできた。実は、ボブの乗った小舟は古くなっていて、使用するのが危険な状態だったのである。一同は思いがけないボブの死を悼み、水葬にして別れを告げた。
ニュートンの心は恐怖でいっぱいになり、その体にみなぎっていた自信と力はたちどころに消え失せ、思わず祈った。
「ああ、神様なぜですか? あなたはまたしてもわたしの命を助けてくださいました。なぜ、こんな罪深い、あなたに逆らってばかりいる人間を危険から救ってくださるのですか?」
ニュートンは神の意志がわからなかった。そして、それ以上に怖くなったのである。
汚れた身でメアリーと結婚
船は10週間かけて航海し、西インド諸島のアンティグア島に着き、さらに4週間かけてサウス・カロライナにあるチャールストンに着いた。このチャールストンには大きな奴隷市場があったので、268人の奴隷のうち、航海中に死んだ70人を除いて198人の奴隷をすべて2倍の値段で売り払った。
「黒い真珠は確かに高価なものだな」
ニュートンは金を袋に詰め込み、亡きボブがくれたオランダ・ジンの小瓶を傾け、残る酒を飲みほした。しかし、肩をたたき合い、手を打ち合わせる仲間はもういない。突然大きな喪失感が彼を襲った。そのまま、ふらつく足で市場に行くと、タバコとトウモロコシを大量に買い込み、船に積み込んだ。
1749年12月。船はリヴァプールに着いた。ニュートンは早速、「マネスティ商会」を訪ね、ジョセフ・マネスティに商売がうまくいったことを報告し、売買した奴隷の代金の一切を彼に渡した。
「きみは予想以上のことをしてくれたね、ありがとう。今度航海に出るときはきみは船長だ。実は、きみに新しい船をあげようと思って、今造らせているのだよ」
マネスティはこう言って、ニュートンに破格の配当金を与えたうえ、7週間の休暇までくれたのであった。
ニュートンは、まとまった金もでき、仕事も安定したので、休暇になるのが待ち切れず、チャタムのキャットリット家を訪ねた。そして、エリザベス・キャットリットとメアリーを前にして、初めてメアリーに結婚を申し込み、2人の承諾を得ることができたのだった。
1750年2月1日。ニュートンはメアリー・キャットリットと、ロチェスター教会で結婚式を挙げた。彼はまさに幸せの絶頂にあった。長年心に秘めてきた愛を実現させ、晴れてメアリーと夫婦になることができたのである。しかも、十分に暮らしていける収入を得られるような仕事に就くことができたし、ジョセフ・マネスティの信用も得ている。これ以上望むことはないはずであった。
ところが、こうした幸せの極みにあって、本当ならば何度も危険と絶望の谷底から救い出してくれた神に感謝すべきであるのに、その反対に彼は自分の幸せを数え上げるたびに恩寵を忘れ、神の懐から遠ざかっていった。
(自分のような男だって運命の波にもてあそばれるうちにこういう幸せにありつけるんだ。これは何といったって自分の商才と実力の成せるわざだ)
彼はこのように考え、ますます傲慢になっていった。そして、以前は後ろめたい思いがしていた奴隷貿易というものに対しても、富と生活の安定をもたらすこの上ない職業だと感じるようになっていったのである。
新妻の懸念
「ねえ、あなた。わたし、この生活に対して、何も不満はないけれど、一つだけ心配なことがあるの」
その日も、新居の菜園脇のテラスでお茶を飲みながら休暇を楽しんでいた時、突然メアリーがこう言った。
「何が心配なのさ。言ってごらん」
ニュートンは、愛妻の手を握りしめて尋ねた。
「男の人にとって、貿易の仕事はお金になるし、とてもすてきなことだと思うわ。でも―ねぇ、ジョン。食料や香料、それからタバコや穀物だけを輸入や輸出するわけにはいかないのかしら?」
「つまり、奴隷貿易はするなと言うのかい?」
彼は顔をしかめた。
「いけないわけじゃないわ。何よりもこの国の財政を支えているものですからね。でも、私個人の考えを言うと、あの貿易は携わる人にあまり良い結果をもたらさないような気がするの」
そして彼女は、長いことキャットリット家と親交のある実業家でイギリス社会で屈指の大富豪家、ジョン・ソーントンという人の話をした。
「ソーントンさんはね、奴隷貿易に反対の方で、奴隷貿易を行うと、その本人も家族も不幸になってしまうとおっしゃるのよ」
ニュートンは大声で笑った。
「そんなばかな。それは特殊な人の一方的な考えだよ。奴隷貿易はイギリス社会を支えている立派な事業だ。何よりも国家の財政源になっているからね。いわば、公共事業の一つと考えればいいんだ」
そこで会話がしばし途絶えた。ニュートンの顔にわずかな影が差したので、メアリーは彼の気分を変えるために話題を変えた。
「覚えている? 初めてあなたがわたしたちの家を訪ねてきた時のことを。あなたは、まるで逃亡してきた犯罪者みたいにびくびくしていたわ」
そして、彼女はくすくすと笑いだした。もう少女ではなく淑女となっていたにもかかわらず、その笑い声は昔と少しも変わらなかった。
ニュートンもつられて笑いだした。
「そうだったね。あの時は、父から無理やりジャマイカに行けなんて言われてさ。父がすごく威圧的に思えて怖かったし、何もかも自信がもてない時期だったなあ」
そして、彼は妻の目に見入った。
「でもメアリー、きみがぼくに力を与えてくれたんだ。海上で嵐に遭って死にかけた時も、悪い奴らに監禁されて奴隷のように舟につながれていた時も、この心の中にはきみがいた。そして、いつかはよくなるだろうって自分に言い聞かせて、乗り切ってきたんだよ」
2人は強く抱き合った。―と、その時だった。ニュートンのもとに至急の手紙が届いた。
「マネスティさんからだ。すぐにリヴァプールの事務所に来いってさ」
ニュートンは手紙に目を通して言った。
その手紙には、マネスティが彼のために注文した船が出来上がり、「アーガイル号」と名づけられたこと、ニュートン自身がその船長として任命されたこと、そして、破格の報酬が約束されていること―などが記されてあった。
「いよいよ新しい仕事だ。頑張るぞ。メアリー、珍しいお土産をたくさん買ってくるからな」
ニュートンは、たちまち海のかなたへと心が奪われ、新婚生活などそっちのけで、そそくさと支度を始めた。
「ジョン…」
いよいよ出発という時、メアリーはためらいがちに引き止めた。
「わたしは奴隷貿易をやめてほしいと言ったわけではないの。ただ―何というか、その仕事になると、あなたが変わってしまうように思えたから、それで反対したの。だから一つだけ約束して。航海を続ける中で、船の中で聖書を読んでほしいの。お願い。これだけは続けると約束して」
「よし、わかった。ほかならぬきみの頼みだから、約束しよう」
そして、ニュートンは妻を抱き上げると、高々と持ち上げた。
「きみの頼みなら、どんなことでも聞かないわけにいかないよ。朝と晩、必ず船の中で聖書を読むよ」
メアリーは、キャットリット家に代々家宝として大切に保管されている、あの分厚い聖書をニュートンに手渡した。
【「百万人の福音」2017年12月号より】