《連載小説》奴隷商人から神の僕に〔第1話〕

カルチャー

賛美歌「アメイジング・グレイス」を作ったジョン・ニュートンの生涯

第1話

栗栖ひろみ・作

プロフィール 1942 年、東京生まれ。早稲田大学卒業。80 年頃より、主に伝記や評伝の執筆を続ける。著書に『少年少女信仰偉人伝・全8 巻』(教会新報社)、『信仰に生きた人たち・全8 巻』(ニューライフ出版社)他。2012 年、『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞受賞。15 年よりWEB で中高生向けの信仰偉人伝を連載。ICU(国際基督教大学)教会会員。

プロローグ ー 失われた港

ケント州チャタム郊外にある墓地は濃い夕闇に包まれていた。そのうち大粒の雨が降り始めたかと思うと、やがて豪雨となり、雷が轟いた。
 稲妻がその一角にある墓石を照らし出すと、そこに刻まれた文字が浮かび上がった。

エリザベス・ニュートンここに眠る
1732年7月11日

 2度めの稲妻が光った時、その墓石の前にうずくまる小さな人影を照らし出した。6歳くらいの男の子だった。
 「お別れだね、お母さん」
 子どもは墓石にすがるようにしてつぶやいた。
 「もう会うことはできないんだ。何もかも、おしまいだ」
 その時、後ろから2本の手が差し伸べられ、彼は抱き寄せられた。彼を捜しにきた母親のいとこにあたる女性だった。
 「ジョン、行きましょう」
 彼女は子どもに言った。
 「もうお母さんはここにいないのよ。神様のところに行ってしまったの」
 そして、彼女は自分もずぶぬれになったまま、子どもを抱き起こして歩きだした。
 しかし、しばらく行くと、突然子どもは身をもがき、再び母親の墓のところに戻っていった。
 「嫌だ、帰るもんか! ぼくが安心していられるところは、お母さんのそばしかないんだ!」
 彼はありったけの声で叫んだ。

早すぎた母との別れ

 1725年7月25日。ロンドンの開港地区に、一人の男の子が生まれた。父親のジョン・ニュートンは、地中海貿易の船長をしており、しばしば家を空けがちだったが、妻のエリザベスが男の子を生んだのを喜んで、自分と同じ名を子どもに授けた。
 エリザベスは体が弱く、病気がちであったが、教養があり、信仰深い人間だった。彼女は唯一の望みをこの幼い息子に託し、立派に成長させるためにあらゆる努力を惜しまなかった。
 (この子が神を畏れ、隣人を愛する者となりますように)
 彼女は日々の祈りの中でこう願い求め、聖書をわかりやすいことばで読み聞かせたり、美しい賛美歌を一緒に歌ったりして子どもの心を養った。また、彼が3歳になった時には英語や算数を教え始めたが、ジョンは片端から覚えてしまった。
 母のエリザベスは、彼がもう少し大きくなると、テムズ川沿いにあるオールド・グラヴェルレイン教会に連れていった。あるクリスマスの聖日、その教会に当時、賛美歌作家として有名になっていたアイザック・ワッツ牧師が説教に来ていた。ジョンは、説教はまるっきりわからなかったが、やがてこの牧師の作った『もろびとこぞりて』の賛美歌を全会衆が歌うと、感動のあまり体が震え、しまいに泣きだしてしまった。
 「お母さん、神様って本当にいらっしゃるの?」
 帰り道、ジョンが尋ねると、母はしっかりとその小さな手を握って答えた。
 「ええ、そうですとも。神様はね、ご自分がお造りになったものすべてを守り、愛していらっしゃるのよ」
 「どんな人間でも? それから、動物とか鳥はどうなの?」
 「お造りになったすべての命を大切になさって、その一つも損なわれることをお許しにならない方ですよ」
 幼いジョンは納得した。
 母は彼を牧師にしたいという願いをもっていた。聖職に就くにはラテン語が必要だったので、教え始めたところ、彼はこの難しい勉強もやすやすとこなしてしまった。驚く母に、彼は言った。
 「お母さんが教えてくれるからだよ。お母さんのそばにいると、勉強が楽しくて何でもすぐ覚えちゃうんだ」
 実際、母親から教えられるとわかりやすく、すぐにのみ込めるのが不思議だった。
 しかし、それから間もなく、恐ろしい不幸がニュートン家を襲った。エリザベスが重い病気にかかり、医者から結核と診断されたのである。彼女は、大切なジョンに病気をうつしてはならないと、ケント州チャタムに住むいとこのエリザベス・キャットリットの家に移り住み、そこで静養させてもらうことにした。
 しかし、そのかいなく、1732年7月11日に彼女は27歳の若さで世を去った。キャットリット家では近くの教会で葬儀をし、その遺体を郊外にある墓地に手厚く葬ったのであった。
 エリザベス・キャットリットは、気丈ではあるが心の優しい人間だった。彼女は、幼いジョンがどんなに深い悲しみと嘆きの中にいるかを察して、父親が航海から帰るまで引き取って面倒を見ることにしたのである。

「神様なんて、ペテン師だ!」

 母親が亡くなって1年後のある日。父親が航海から戻ってきたという知らせがあったので、ジョンは、エリザベス・キャットリットに付き添われてロンドンの開港地区の生家に戻った。しかし、久しぶりで父に会えると知っても少しもうれしくなかった。もともと家を留守にしがちなのであまり親子の絆がなく、たまに戻ってくる父親は厳格で横暴にみえたので、ジョンは恐ろしくてたまらなかったのである。
 さて、家に入ると、父親は見知らぬ女性と2人でいた。
 「おお、ジョン。お母さんが亡くなって、おまえも寂しい思いをしたな」
 父親は、彼を抱きしめると言った。
 「お土産がたくさんあるぞ。それから、この人はおまえの新しいお母さんだ」
 そう言ってその女性を紹介した。エセックス州の、ある商家の娘だということで、前夫との間にもうけた子どもを2人連れてきていた。
 「ジョン、よろしくね」
 彼女はジョンの頬にキスをするとそう言ったが、にこりともしなかった。
 ジョンは自分の部屋に飛び込むとカギをかけ、ベッドに身を投げ出した。何だかこの先恐ろしい不幸が待ち受けているような気がした。窓の下では、新しい母が連れてきた2人の男の子が大声を上げて駆け回る音がした。
 「お母さん、どうして死んでしまったの? ぼく、こんな家にいるの嫌だよ」
 彼は母親を恨んだ。そして、泣きじゃくりながら、いつのまにか眠ってしまった。
 しばらくすると、彼は激しく言い争う声で目を覚ました。父親と、自分を送り届けてくれたエリザベス・キャットリットが口論しているのだ。
 「わたしがとやかく言うことではありませんけどね、あなたのやり方は子どもにとってあまり良いことじゃありませんよ。だって、あの人が亡くなってまだ1年足らずでしょう?」
 「いろいろ事情があるのさ。わたしだってこういう商売をしているからね。家を留守にしがちだし、家の管理をしてくれる人が必要だ。それに、ジョンの母親代わりになる人もいなくてはね」
 「それだからって、この再婚はあまりに急ですよ」
 それから、声は聞こえなくなった。
 その翌日。ジョンが起きた時には、すでにエリザベス・キャットリットはロンドンをたち、チャタムに帰ってしまった後だった。父親と新しい母親は小声で何か話し合っていたが、どうやら彼女の悪口のようだった。
 廊下を歩くと、後ろでクスクス笑う声がした。振り返ると、義母の連れ子たちだった。
 「おまえ、女の子みたいにすぐ泣くんだって?」
 1人が言うと、もう1人は手をたたいてはやした。
 「それに、大きな鼻とギョロ目して。変な顔だなあ」
 「やあい、やあい、泣き虫!」
 ジョンはかっとして、2人につかみかかっていったが、彼らはその手をすり抜けて逃げてしまった。
 ジョンは、亡き母の部屋に入った。そこはすっかり片づけられており、以前あった家具はすべてなくなっていた。しかし、彼が母親と一緒にお祈りをしたり、賛美歌を歌ったりした机だけは残されていた。
 「お母さん、どうしていなくなったの?」
 ジョンは机をなでてつぶやいた。
 (神様はご自分がお造りになったものすべてを守り、愛していらっしゃるのよ)
 母親の声が今も心の中に残っていた。
 「うそだ!」
 彼は叫んだ。
 「神様が愛だなんてうそっぱちだ。だって、ぼくの大事なお母さんを取り上げてしまったじゃないか」
 そして、泣きながら叫び続けた。
 「神様なんていやしない。いたとしても、強い人の味方ばっかりするんだ。そんな神様なんて、ペテン師だ!」
 彼にとって、心を安らわせる安全な港は失われてしまったのだった。

【「百万人の福音」2017年1月号より】
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