《連載》どうせなら楽しく脇役を

信仰生活

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第9回 どうせなら楽しく脇役を

「主役」を引き立てる「脇役」の生き方

となみ野聖書教会 牧師 横山幹雄

炊飯器を買い替えた時のこと。それまでのは、炊きたては問題ないのですが、少し時間がたつとにおいがついて我慢ができなくなりました。いろいろと調べ、比較して、すばらしい機能をもった炊飯器を買いました。

新しい炊飯器で初めてのご飯が炊かれました。食べてみると、私好みの硬さで、大満足です。ところがそのうちに、炊きたてなのに、「アレッ?」と思うような状態です。もちもちした、私好みの食感が消え、ベッタリとしています。家内に聞きました。

「どうしたの? 最近の、ベタベタしてるけど」

「ええ。私好みの柔らかさにしようと挑戦してるの!」

その瞬間、私の中で何かがポッキンと折れました。

神の器として勝利に次ぐ勝利を上げていた預言者エリヤは、王妃イゼベルのひとことばに、ポッキンと折れてしまいました。まさにそんなポッキンが、わが家のイゼベルのひとことばで起きてしまったのです。

頭では、いいじゃあないか、ゴハンの硬さなんて、柔らかいゴハンに耐えるのも愛だよ。笑って済ませろよ。そんな小さなことにこだわるなよ。不機嫌は罪だぞなどと語りかけるのですが、折れてしまった心はなかなか元に戻りません。

妻の人生の脇役だった!大作家の開眼

どうにか立ち直ることができたのは、作家の遠藤周作の文章から教えられた呪文「ワキヤク、ワキヤク」のおかげです。

「…我々は自分の女房の人生のなかでは、である身分を忘れて、まるで主役づらをして振舞っていはしないか。5、6年前、あまりに遅きに失したのであるが、女房をみているうちに不意にこの事に気がつき、『俺……お前の人生にとって傍役だったんだなア』と思わず素っ頓狂な声をあげた。(中略)わたしはまるでこれが世紀の大発見のような気がして日記にそっと書きつけたほどである。以後、女房にムッとしたり腹がたつ時があっても、『この人のワキヤク、ワキヤク』と呪文のように呟くことにしている。すると何となくその時の身の処しかたが決まるような気がする。」(遠藤周作著『かなり、うまく、生きた』光文社知恵の森文庫)

脇役は、日本の能に由来することばです。その主役をシテと呼び、その相手役をワキと呼んだのです。ワキはシテを引き立て、かす役割をもっています。

聖書も、私たちが互いに脇役に徹するようにと勧めています。

「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい」(エペソ5章21節)

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」(ピリピ2章3節)

自分は脇役に徹し、他の人を主役として引き立て、活かす名脇役を目指しなさいということです。

他の人とともに生きていくとき、自分を主役にしようとしても、他の人は決してそのように対応してくれません。私たちはだれもがそれぞれの人生の主役だからです。

私たちの人生の主役とは…?

私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れ、主と告白することは、自分はそのしもべです、脇役ですと告白することでもあります。

私が信仰をもってから数か月後、牧師の口を通してイエス様が私に語りかけてくださいました。

「わたしを主と告白するのなら、あなたの人生の手綱をわたしに渡しなさい。これからのち、わたしがあなたの手綱を握ります」

「はい。私の人生の手綱をお渡しします。これからは、あなたの思いのままにどうぞ」と応答しました。

その決心の時からすでに半世紀以上がたちました。振り返ると、主に渡したはずの手綱を引き戻して自分勝手なことをしたこともしばしばでした。

教会は、イエス様の教会です。主役は神様、私たちは脇役です。主役のイエス様が引き立てられ、その栄光のために、私たち脇役は存在します。脇役が主役を食ってはいけません。牧師も教会を「自分の教会」としてはなりません。

教会に吹く自由の風

「風は思いのままに吹く」のみことばのように、教会に満ち満ちる聖霊なる神様は、その思いのままに働かれる方です。しかし、教会を「自分の教会」として牧師の風を吹かせようとしている私がいました。すると、争いを好まない鳩のように柔和な聖霊は、「では、私はここでは働けません」と退かれます。

「教会の主であるイエス様。まるで自分が教会の主役であると錯覚してあなたの邪魔をしていました。私は引き下がり、脇役に徹します。どうぞ、教会の中で、あなたの思いのままに、あなたの風を吹かせてください」と祈らされました。その時から、教会の中に自由の風が吹き始めました。

バプテスマのヨハネは、イエス様の脇役であることに生きがいを感じ、喜んでいました。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」(ヨハネ3章30節)と自分の立場をわきまえていました。

脇役の楽しみは、主役が褒められ、そのすばらしさが人々に伝わることです。それに、人生の主役はイエス様で、一切の責任も主役であるイエス様が負ってくださると知ると、肩の荷が下りて、気が楽になります。脇役人生が楽しみになります。

え? わが家のご飯の硬さはどうなったかですか? わが家のやさしいイゼベルは脇役に徹して、私好みの硬さにしてくれていますよ!

「百万人の福音」2016年9月号〉

よこやま・みきお
1943年高知県生まれ。石川県の内灘聖書教会で37年間牧会の後、富山県に移り、砺波市での開拓伝道に挑戦中。となみ野聖書教会牧師。内灘聖書教会名誉牧師。趣味はバードウォッチング。

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