第8回 どうせなら楽しく老いを
老いの不安を主の前にさらけ出し、ふところに飛び込む
となみ野聖書教会 牧師 横山幹雄
「孫の写真を見てください」と目尻を下げる同世代の友人を、ああみっともない、ああはなりたくないと思っていました。そんな私に初孫が与えられました。それもいちどきに3人! 長女が3つ子を産んだのです。美人3姉妹です! するとだれかれとなく、「見てください。私の3つ子の孫娘を!」と写真を見せる私がいました。招かれた講演会でさえ、スクリーンにそれを映して披露する始末です。そういうわけで私もりっぱな(?)老人の仲間入りをしました。
「主よ。私の生涯を、短くも燃え上がるものにしてください…私も30歳までは生きないと思う」。『ブレイナードの日記』(アメリカ先住民への宣教に従事したデイヴィッド・ブレイナードによる日記。1746年出版)を読み終えた感動を、その最後のページに書き記しました。29歳で燃え尽きたブレイナードに憧れた20歳の私でした。その思いに反して、目標の2倍半近くもくすぶりながら生き続け、老人になりました。
老いを実感しない日はありません。食後の薬の量に、視力の衰えに、階段の上り下りのたびに、夫婦で「あれ、あれ…なんだっけ、ほら」と意味不明の掛け合いのたびに。
ある日唐突に実感する「老い」
当然のことですが、私にとって「老い」は初体験です。ずっと老人だったわけではありません。ある日突然、老いが私に追いつき、取りすがるようになりました。ある朝、新聞を読むと、その活字が小さくて読みづらくなっています。新聞社の陰謀だと怒りを覚えましたが、突然襲ってきた視力の衰えの結果でした。
「光陰矢の如し」と言われ、聖書でも、「それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」(詩篇90編10節)と人生の短さを表現しています。ある年代まではゆっくりだった時の流れが、次第に速度を上げ、今はまさに超スピードで飛ばされています。10歳の1年は10分の1、70歳の1年は70分の1の実感なのですから、早く感じるのは当然です。残り時間が気になります。
免許の更新が近づいたなと思っていると、「高齢者講習」を受けるようにと通知が届きました。この講習を受けなければ、免許の更新はできないとのこと。3時間の講習を受けました。それはすべて、自分がいかに年老いて、さまざまな機能が衰えているかを自覚させる内容でした。自分で自覚しているうえに、国を挙げて「お前は老い衰えているぞ。早く免許を返納せよ」とじわりと圧力をかけてきます。
老人が威厳をもって、堂々と生きる時代は過去のものになったのでしょうか。昔、「老」という字は威厳がありました。長老、家老、元老、老舗、老中、古老などと。家の中で、老人は権威があり、尊敬を集めていました。しかし、老人の数が増えすぎた現代では、老人問題として国の重荷になっています。「長生きしてすみません」と、小さくなって生きることを要求される時代の雰囲気があります。
「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください」(詩篇71編9節)
この詩人の祈りは身につまされます。老人のいちばんの不安、恐れは、自分が不必要とされることでしょう。かつては、民の中心にいて、人々の期待を一身に集めていた者が、いまやその輪の外にあります。もはや過去の人とされて、次第に忘れ去られてゆく寂しさです。この詩人は、そんな不安を主の前にさらけ出し、主のふところに飛び込みます。そこにだけ、老人の逃げ場があるからです。
老人が、自らの老いを受け入れず、いつまでもその立場にすがりつくのはみっともないことです。他の人は、明らかにその老いを認めながら、本人だけがそれを認めないでいる…それが老醜です。
「老い」の中にある幸いとは
他人から言われる前に、自らその立場を退き、責任を譲る引き際の美しさが老人には求められます。確かに、それは寂しく、身が引き裂かれる経験になります。しかし、そのタイミングを誤るとさまざまな弊害をもたらします。
私が前任地を引く際には、「石もて追われるごとく」ではなく、「花束と拍手で」と強く願っていました。そうでなければ、それまでの働きがすべて虚しくなってしまうからです。新しい任地に移って二年後に、前任地の教会の一人から頂いた手紙は、大きな平安をもたらしてくれました。
「先生がこの教会を離れられると聞いたとき、いったいこれからこの教会はどうなるのだろうと本当に心配でした。しかし、あとを継いだ若い人たちで教会は元気に前進しています。先生のこの地での働きは成功でした」
新しい土地に移ったのを機会に、生活のリズムをゆっくり、ゆったりに切り替えました。新しい教会開拓に挑戦しつつ、新しい楽しみを見いだしています。手帳のスケジュール表は、書くスペースがないほど埋まっていたものが、今は病院の予約だけが目立つ、空白だらけになりました。その空白が寂しさではなく、解放感と楽しみを与えてくれます。思う存分、自分のための時間を楽しんでも罪意識をもたずに遊ぶことができます。この自由で充実した日々を、若き日に忙しく働き続けてきたことへのごほうびと考えています。
さて、今日はどこへ鳥を見に行きましょうか?
〈「百万人の福音」2016年8月号〉
1943年高知県生まれ。石川県の内灘聖書教会で37年間牧会の後、富山県に移り、砺波市での開拓伝道に挑戦中。となみ野聖書教会牧師。内灘聖書教会名誉牧師。趣味はバードウォッチング。
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