《連載》どうせなら楽しく無知を

信仰生活

< 次へ前へ >

 

第6回 どうせなら楽しく無知を

無知と好奇心こそが信仰のもと

となみ野聖書教会 牧師 横山幹雄

 「先生、みいつって、どういう意味ですか?」

 「えっ、みいつ? …それは三位一体のことです」

 「主のみいつと 御栄え」と礼拝で賛美した後に尋ねられ、とっさの思いつきで答えてしまいました。背伸びして、一生懸命、牧師のまねごとをしていた駆け出し時代の忘れられない一場面です。その頃は、わかりません、知りませんと答えることは敗北のように感じていました。『新聖歌』では、ちゃんと欄外に「みいつ=おかすことのできない威厳」と説明されています。

 他にも、いろいろな間違いを繰り返してきました。説教で、もっともらしく語っておきながら、後でそれがとんでもない間違いであったことがわかることもあります。知ったかぶりで、いいかっこしいの私の陥りがちな失敗です。

 子ども時代には、そうではありません。見るもの、聞くものすべてが不思議で、謎で、知らないことだらけです。なに? どうして? なんのため? どうなっているの? の連発です。子どもは、自分が何も知らない、わかっていないことを恥じることなくことばに出します。純真で謙遜です。ですから、すべてが新鮮で、好奇心旺盛です。

 子ども時代に、お尻から延々と糸を出すクモを飽きず眺めていた自分を思い出します。「クモは手品師」という題の詩を作って、新聞に掲載され、ラジオで読み上げられたことがありました。こんな詩だったと思います。

 「クモは手品師。

大きなお尻から、透明な糸が次々出てくる。

その大きなお尻の中に、

どんなタネとシカケがあるのだろう。」

 それがいつの間にか、世界は当たり前で、平凡で、心ときめかすものが無くなってきました。わかっている、知っているという思いが、アンテナを下ろしてしまったのです。

「わからない、知らない」こそが楽しみ

 やっとこの頃、私は何も知らない、わかっていないと認めることができるようになりました。「わかりません」と答えることができるようになりました。そして、わからない、知らないと認めることの楽しみがわかってきました。(「認知症の始まり?」とは妻のつっこみ!)

 身近にある自然も、日々の忙しさの中で立ち止まってじっくりと観察することもなく通り過ぎていました。心にゆとりが与えられて、立ち止まって見回すと、それはまるで知らないことばかりです。足もとに咲いている草花を雑草として見過ごしてきました。しかし、しゃがんでよく観察すると、巧みな構造と美しさです。何だろう、この草は、この花はと疑問が湧き、図鑑を繰って調べます。

 いつも耳に入っていながら、立ち止まってその鳴き声の主を探して見回すことがありませんでした。ところが耳をそばだて、その声の主を探すと、驚くほどの野鳥の世界の豊かさが見えてきました。今いちばんハマっている鳥はエナガという小さな鳥です。身近にいる鳥なのに、その存在を知らず、気にもかけていませんでした。

 知らない、わからないと認めることが、その対象との出合いへの入り口だとわかってきました。知らない、わからないと認めると、それを知り、わかるまでは居心地が悪くなります。この居心地の悪さが、好奇心につながります。

「主よ、あなたを知りません」

 イエス様は弟子たちを訓練するとき、「そんなこともわからないのか?」「知らないのか?」と繰り返します。弟子たちを居心地悪くさせるための質問です。パウロも、その手紙の中で、同じことをしています。「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(Ⅰコリント8章2節)。「知らなければならないほどのことも知ってはいない」と自覚させ、不安定にさせています。

 私が最も知らないのは、神様であり、イエス・キリストです。クリスチャンになって半世紀以上がたちました。ずっと聖書を読み、学び、説教でイエス・キリストを紹介し続けてきました。ところが、この頃ますます私はイエス様を知らない。わかっていない。私の知ったつもりのイエス様は、本当のイエス様から相当に隔たっているようだと感じ始めています。

 「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう」(ホセア6章3節)とどんなに励まされても、「私はもうイエス様を知っている。わかっている」という思いがあると、主を知ることを切に追い求める動機づけ、エネルギーが湧いてきません。

 イエス様が郷里ナザレに帰った時、人々は口々に語り合いました。「『この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。』こうして彼らはイエスにつまずいた」(マルコ6章3節)

 この男のことなら何でも知っているぞという態度を、聖書は「つまずき」と呼びます。その後の六節では、「イエスは彼らの不信仰に驚かれた」とあります。「わかっている」「知っている」が不信仰なのです。

 イエス様に祈り、聖書を読むとき、必ずささげる祈りがあります。「イエス様、私はあなたのことをまるで知りません。わかっていません。どうぞ今、私の知らないあなたにお会いさせてください」

 それは、バプテスマのヨハネのことばによって与えられた祈りです。ヨハネは、イエス様を人々に紹介して叫びました。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます」(ヨハネ1章26節)

 ああ、知らないって楽しい!

「百万人の福音」2016年6月号〉

よこやま・みきお
1943年高知県生まれ。石川県の内灘聖書教会で37年間牧会の後、富山県に移り、砺波市での開拓伝道に挑戦中。となみ野聖書教会牧師。内灘聖書教会名誉牧師。趣味はバードウォッチング。

百万人の福音をもっと読む


< 次へ前へ >