第5回 どうせなら楽しく弱さを
信仰の中で感じる自分の弱さ
となみ野聖書教会 牧師 横山幹雄
「パンツ一つになってください」
若い女性の声で、10人の男性は服を脱ぎ、1列に並ばされました。「では、ラジオ体操、第1」の号令で、パンツ一つの私も体操を始めました。その女性は、私たちの身体を念入りに観察しながら何かを書き込んでいます。ぶざまな格好でラジオ体操をする私の心はみじめです。牧師か宣教師になろうと献身した私が、そこから逃げ出そうとしてこの姿です。
神学校入学後に信仰の火が消え…
信仰の火が消えかかったのは、神学校に入ってからでした。同じ志をもって入って来た同級生は12名。ところが、そんな仲間たちが1人欠け、2人欠けと減ってゆきました。優秀と思われる者が先に退学していきます。ある者は神学校のあり方に疑問をもって、ある者は教会に批判的になって、ある者は信仰そのものに懐疑的になって脱落していきました。クラスの人数が次第に少なくなり、互いに顔を合せると、次は誰だと腹の探り合いです。「残る者はクズ、その中でも早く辞めたもの勝ち」という雰囲気です。
ついに私も辞める決心をしました。こんな自分が、きよい神様のみことばを伝えることはできない、伝道者の道を断念しようと。これからの人生設計が必要です。これまで無縁だった世界で生きてみたいと、ある自動車会社の入社試験に臨みました。ラジオ体操による身体検査は、その一環でした。数日後、その会社から「不採用通知」が届きました。途方に暮れ、考え込んでいた時、思い浮かんできた聖書のことばがありました。新約聖書の第1コリント1章のことばです。「この世の愚かな者を選び…この世の弱い者を選ばれ…無に等しいものを選ばれた…これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(27〜29節)
このみことばと格闘しながら祈っていました。「神様、こんな私ですよ。自分でもどうしようもないと思うような私ですよ。貧乏くじ引くようなものですよ。こんな私でもいいんですか?」すると、このみことばから、「お前はどうしようもないものだ。愚かで、弱くて、無に等しいものだ。でも…いや、だからお前を用いよう。もしもお前が何かを成したなら、それはすべてわたしの栄光だよ。さあ、立ち上がれ!」と背中を押されました。かろうじて、神学校の学びに復帰する思いがよみがえりました。卒業する時には、5本の指に入る成績でした。…卒業生が5人だったからです。この経験から、私の原点は、「愚かで、弱くて、無に等しいから選ばれ、用いられる」となりました。
あの預言者にも、パウロにも、落ち込みがあった
母教会の牧師は、ご自分が牧師である理由を語ってくださいました。「私の信仰が強いから牧師になったのではありません。もしも一般社会に出たなら、とうていその信仰を維持できないので、牧師にさせられたのです。牧師になれば、いやでも聖書を読み、祈らされるので、なんとか信仰を保てるだろうからという主のあわれみです」。私も、アーメン(真実)です。あの自動車会社に合格していたら、今頃は信仰から離れていたことでしょう。
火の預言者と呼ばれるエリヤは、戦いに次ぐ戦いを勝ち抜き、成功の絶頂にありました。しかし、大勝利の後に、王妃イゼベルの一言でポッキンと張りつめていた気力も信仰も使命感も折れてしまいました。そして祈ります。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」(Ⅰ列王19章4節)。預言者の燃え尽き症候群でしょう。
牧師の私にもたびたびこのポッキンがあります。
説教の後では、毎回落ち込みます。眠れない夜をどれだけ通らされたでしょうか。年齢を重ねて、このポッキンが減るどころか増しています。一度落ち込むと立ち直るのに数日かかります。その間は無口になり、食事の時以外は部屋に閉じこもり、悶々としています。「どうせなら楽しくウツ状態を」とは言えない、楽しく思えない状態です。
大伝道者パウロにも、この落ち込みがあったことを知ると慰められます。「いつも主にあって喜びなさい」「いつも喜んでいなさい」と書いた本人が、喜べないで、落ち込んでいます。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい」と命じたパウロ自身が、宣教のチャンスが与えられたのに、口を閉ざしている場面さえあります。そんな落ち込みの中にあったからこそ、「気落ちした者を慰めてくださる神」(Ⅱコリント7章6節)の温かさを紹介できました。
弱さの中でこそ味わえる幸い
弱さの中でだけ味わえる幸いがあります。慰めです。他人には見せられない弱さを、家族の前ではさらけ出すことができます。親友には、批判を恐れないで本音を語ることができます。弱さや失敗を、正直に書き表した本を読みながら、いつの間にか心が軽やかにさせられていることがあります。落ち込んで、何も手につかないとき、ただ好きな音楽をかけていると、朝露に濡れたように潤されている自分を発見します。自然の中で、足元の草花や、さえずる野鳥たちを見つめていると、創造主の細やかな愛が、自分にも注がれていることを知って、歌い出していることがあります。
弱さの中でだけ、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12・9)という主のことばを喜ぶことができます。しばしば私たちの問題は、弱いことではなく、強すぎることにあります。「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」とパウロは語ります。「どうせなら楽しく弱さを」です。
〈「百万人の福音」2016年5月号〉
1943年高知県生まれ。石川県の内灘聖書教会で37年間牧会の後、富山県に移り、砺波市での開拓伝道に挑戦中。となみ野聖書教会牧師。内灘聖書教会名誉牧師。趣味はバードウォッチング。
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