《連載》どうせなら楽しくここで

信仰生活

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第3回 どうせなら楽しくここで

背後に、楽しくはない現実が見え隠れ

となみ野聖書教会 牧師 横山幹雄

 「どうせなら楽しく」のテーマの背後に、楽しくはない現実が見え隠れしています。つらいなあ、厳しいなあというつぶやきが聞こえます。そんな自分への「どうせなら楽しく生きようよ」というエール(応援歌)です。

 日本各地に分水嶺と呼ばれる場所があります。水の流れがほんの1ミリ違うだけで、その先は太平洋と日本海へと大きな隔たりができる地点です。

 人生にも、さまざまな分水嶺があります。私の最初の分水嶺は、18歳の秋の夕刻です。ひとりの青年がメガフォンで叫びながら家の前を通り過ぎて行きました。「今晩七時半より仏生山キリスト教会で、キリスト教伝道集会を行います。講師はキャリコ先生です」。キャリコ? アメリカ人だろう。面白そうだ。英語の勉強に行ってみよう。その一瞬が、その後の人生を変えることになるとは、想像もできませんでした。その夜、私はクリスチャンとして歩み出したのです。

 第2の分水嶺は、それから数年後に起こりました。母教会の牧師が、学生たちに問いかけました。「石川県の宣教師から、この夏のキャンプに、誰か学生を送ってくれないかという要請がきています。行ける人はいますか?」 みんなそれぞれの計画があって行けないという中で、私ひとりが暇人でした。「私が行きます」と手を挙げた瞬間が、これまでの北陸での半世紀を超える歩みの始まりとなりました。

 「弁当忘れても傘忘れるな」と言われる北陸は、暗い、寒い、雨や雪の多い土地です。

新たな教会開拓を志した時

 新たな教会開拓を志した時、これからは暖かい土地でと計画を立てました。年老いてからの寒冷地はこたえます。雪かきをする体力もありません。静岡県と、千葉県房総半島を候補に挙げて、場所探しの旅を重ねました。教会のない小さな町で、魚釣りができて、野鳥観察ができて、家庭菜園ができる物件探しです。ここもいいなあ、いやこっちの方がと夢のような生活を想像しながらの楽しい旅でした。

 ところが、私には一つの責任がありました。高齢の父が石川県にいて、老人施設に入居していました。問題が起きると、施設から電話があり、できるだけ早く来てくださいとの呼び出しです。静岡や千葉では、すぐに駆けつけることはできません。その責任を放棄することは許されません。1時間以内で駆けつけられる場所に変更するしかありません。調査の結果、富山県南砺市に決めました。「南砺(なんと)市に行きます」と、声を上げると、別々に3人の方々が、「南砺市ではなく、砺波(となみ)市がいいです」と反対しました。その声は、パウロがビテニヤに行こうとした時にさえぎり、トロアスへと導いた御霊の声のように感じられ、進路変更をしました。

 砺波市郊外の住宅地の古い建物を購入することになりました。その2部屋をリフォームすれば、礼拝堂として使えます。購入手続きが終わり、権利証が届いた翌日、父が召されました。何というタイミングでしょうか。この順序が逆であれば、暖かい房総半島に行ったのに…。

これまでの歩みを振り返り

 これまでの歩みを振り返ると、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である」(箴言16・9)が真実であることを知らされます。神様のお手並みの見事さにうならされます。

 私のモットーの1つは、「今、ここで、すべて。明日は分からない」です。今は、導かれたこの場所で、すべてを注ぎだして生き、働く。もし明日、主から声がかかったら、その地へ行く。

 北陸は仏教王国と呼ばれます。教会の数は少なく、クリスチャンも少ない地域です。ここでは、伝道は困難で、教会の成長は望めないと思えば、その通りになります。パウロに与えられた「この町には、わたしの民がたくさんいる」という約束を、この北陸にも適用する信仰が求められます。

 燃え尽きない柴を見て、何事だろうと近づいたモーセに、主が柴の中から呼びかけました。「モーセ、モーセ…ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」(出エジプト3・4、5)

 普通なら、聖なる地は、主がおられる燃え尽きない柴のその場所です。ところが、「あなたの立っている場所」が聖なる地だと呼ばれています。この事実は大きなインスピレーションを与えてくれます。今、置かれているこの場所が、聖なる地なのです。

 パウロは、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」(ピリピ4・11)と述べています。パウロも、あまりの苦しさ、つらさに、自分の身の不幸を嘆き、つぶやく日があったのです。そうした痛みの中で、満ち足りること、楽しむことを学びました。

 私自身、ああ、嫌だ嫌だ、どうしてこんな所へ来てしまったのだろう、間違えた、耐えられない、もっと良い地に移りたいとつぶやくことがありました。砂を噛むような日々がありました。人を見、自分を犠牲者のように見ている間はそうでした。しかし、ここに導き、ここに置かれたのは、愛に富み、知恵に富まれる主なのだ。主は最善をなしておられると信じることができた時、ここが最善な場所、聖なる地に見えてきました。楽しくなりました。

 「測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ」(詩篇16・6)

「百万人の福音」2016年3月号〉

よこやま・みきお

1943年高知県生まれ。石川県の内灘聖書教会で37年間牧会の後、富山県に移り、砺波市での開拓伝道に挑戦中。となみ野聖書教会牧師。内灘聖書教会名誉牧師。趣味はバードウォッチング。

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