第1回 どうせなら楽しく仕事を
となみ野聖書教会 牧師
横山幹雄
渡辺和子さんの著書『面倒だから、しよう』の勧めに従って、「面倒だからしよう」を私のモットーに加えました。
ある日、自宅のトイレで用を足しているとき、ふと心に浮かんだことがありました。結婚以来、トイレ掃除をしたことがありません。当たり前のように家内が掃除をしてくれています。
「トイレ掃除は面倒…だからしよう」
さっそく家内にそのことを申し出ました。
「すばらしい! やって、やって!」
家内の特訓を受けて、それが私の責任になりました。
2年ほど続いていますが、次第に「面倒だからするのはやっぱり面倒だな」といやいやしている自分に気づきました。「面倒だからしよう」と自分の尻を叩くだけでは、動機づけとして弱すぎるようです。
その時、ふっと浮かんだフレーズがありました。「どうせなら楽しくやろう!」
「面倒だからしよう」+「どうせなら楽しくやろう」=充実した日々。
問題は、どうすればトイレ掃除が楽しくなるかです。ディズニーランドのトイレ掃除の話を思い出しました。深夜に喜々としてトイレ掃除をしています。どうしてそんなに楽しいのか? 彼らは、便器の一つ一つに名前を付けて、それらを友人として、話しかけているからというのです。
これだ! 我が家の便器にも名前を付けよう! 名前は…そうだ! 数年前に死んだセキセイインコの名前、チッチにしよう!
「チッチ! 久しぶりだね! また会えてうれしいよ! いつも助けてくれてありがとう。いつも汚してごめんね。きれいに磨いてあげるね。さあ、ピッカピカになったよ。今日もよろしく」
トイレ掃除が少しだけ楽しくなりました。
トイレ掃除から連載誕生!
「どうせなら楽しく」というフレーズをエサに、いろいろなテーマが食いついてきました。
「どうせなら楽しく」の新しい連載が生まれた瞬間です。トイレ掃除からスタートしたシリーズです。
「楽しくなくちゃ、やりたくない!」
一緒に働く若いスタッフが、さらりと言ってのけました。カチ〜ンときました。なんと甘っちょろいことを! 楽しくないこともいっぱいあるぞ! 楽しくなくても、それをやるのがクリスチャン献身者だぞ! 歯を食いしばって、苦しみに耐え、貧しさに耐え、批判に耐え、難しい仕事に耐えに耐えて働いていた私でした。「楽しくなくても、やらなくっちゃあ!」と叱りつけました。気まずい空気が流れました。世代のギャップだなあと、諦めの気持ちにさせられました。
そんな出来事から30年近くが経過して、「どうせなら楽しく」という題で連載を始めようとしている自分をこっけいに感じています。あのスタッフのことばがずっとのどに引っかかって、気になっていました。やっとのどの骨が取れたようです。彼のほうが正しかったのです。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます」(Ⅱコリント9・7)
牧師の仕事は恐怖!?
牧師の仕事は多岐にわたりますが、その中で最も困難なことは説教です。22歳から講壇に上がって説教を始めましたから、既に半世紀が経過したことになります。しかし、いまだに説教は恐怖であり、緊張を強いられ、脚がガクガクしています(もっとも、このガクガク感が失せた時が、講壇から下りる時だと決めています)。
気に入っている逸話があります。昔、迫害の時代に捕えられ、断頭台で処刑されようとしていた牧師がありました。首切り役人が尋ねました。
「お前、これから首をはねられようとしているのに、怖くないのか?」
「いいえ。説教のために講壇に上がる恐怖に比べたら、こんなことぐらい!」
ある牧師が、説教準備に行き詰まりうなっていました。そばから奥さんがつぶやきました。
「女の産みの苦しみに比べれば、たいしたことないわ」
「おまえはいいよ。あるものを産み出すんだから。私は何もない中から、産み出さねばならないんだよ」
私も、説教準備にうなり、説教直前は恐怖で震えています。必死に自らを励ましています。「幹雄よ。おまえは主の前に高価で尊い存在だ! 愛されているぞ! 主が、お前と共にいてくださるのだ! 勇気を出して、今日のみことばを語れ!」
あり余る喜びと祝福
そんな恐怖に満ちた仕事を、なぜ続けているのでしょうか。もう限界だと無力感に捕えられ、逃げ出したいと思うことがしばしばでしたが、そうした困難を補って余りある喜びが、そこにあるからです。
パウロは、神のことばの宣教者として、神に捕えられ、遣わされて、人々の前に立たされました。その道は苦難の連続でした。その困難さに、叫びます。「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう」(Ⅱコリント2・16)文語訳「誰かこの任に耐へんや」
しかし、彼はその任に耐えることができました。その苦難を超える喜びがあったからです。みことばをもって仕えている人々の存在が、彼の喜び、誇りの冠、生きがいでした(Ⅰテサロニケ2・19〜20、3・8)。何よりも、主からの「よくやった。良い忠実なしもべだ」とのおことばをいただき、義の栄冠を受ける楽しみが、彼を支えたのです。
ここに、希望に満ちた私の喜びもあります。
〈「百万人の福音」2016年1月号〉
よこやま・みきお
1943年高知県生まれ。石川県の内灘聖書教会で37年間牧会の後、富山県に移り、砺波市での開拓伝道に挑戦中。となみ野聖書教会牧師。内灘聖書教会名誉牧師。趣味はバードウォッチング。
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