- 第1部 聖書・英語・映画の切っても切れない関係
- 1.私にとっての聖書と映画
- 2.どれだけ知ってる? 聖書クイズ
- 3.聖書とは
- 4.押さえておきたいキリスト教のことばのキモ
- 5.「十戒」
- 6.「山上の垂訓」
- 7.聖書に由来する映画のセリフ
- 8.聖書を知っていれば字幕がここまで変わる
- 9.文学・絵画とも、切っても切れない聖書
- 10.聖書から出た45
- * 聖書クイズ回答編
第2部 資料編・辞書を引いても出てこない専門用語- 11.聖書の各巻
- 12.聖書の人物
- 13.キリスト教3大儀式プログラム
- 14.教会の系譜
- 15.聖職者の呼び方
- 16.キリスト教映画リスト
1 私にとっての聖書と映画
字幕翻訳虎の巻_p48-49見開き見本
私にとっての英語との関わりは、当然ながら中学に入ってからの学校の授業だった。戦後間もなくの東北の小さな町で中学、高校を出たので、外国人と直接話す機会など皆無で、典型的な日本人の英語の勉強スタイルで、もっぱら文法とリーディングと解釈だった。それでも高校の時の英語の先生は、英文の暗唱に力を入れておられて、その頃覚えた英語の一節は、しっかりとインプットされて、60年後の今でもすらすら出てくる。いわく――
Arbor day is observed throughout the country. People learn this day how important it is to plant and care for trees. I can still remember the day when my grandfather planted them. He said “When we plant a tree, we are doing our best to make our world a happier place for the people who come after us.”
我ながら驚きだ。しかし、そのまま地方の会社に勤めていたら、私の英語は、まったく日の目を見ずに終わったに違いない。だが転機は、20歳の時に訪れた。私は、青雲の志を抱いて上京し、中学時代から好きだった外国映画の仕事に就くべく、東京のワーナー・ブラザース映画会社の入社にチャレンジしたのだ。なんとかワーナーを訪ね当てて面接を受けた私に、担当の総務部長さんは、「勉強は何が好きか」と聞いた。私は “外国映画の会社だから、英語でなきゃダメだろう”と思い、胸を張って「英語です」と答えた。彼は目の前のインターオフィスメモと呼ばれる社内通信文を手渡し、「これを声に出して読み、訳してみなさい」ときた。ちらりと見ると、ほんの数行の短い英文が書いてある。いざ読みだして頭の中が真っ白になった。英語で、全くちんぷんかんぷんの言語のことをIt’s Greekというが、私にとってはまさにギリシャ語だった。私はとっさに、こう答えた。「全体の構文はなんとか分かるのですが、一つ一つの単語が、専門的すぎて分かりません」。総務部長は、ニヤリと笑って、“お情け”で入社させてくれた。私はその瞬間に悟った。“この会社でやっていこうと思ったら、とにかく英語だ!”と――。

小川政弘:著
元ワーナー・ブラザース映画製作室長として、英語、洋画、聖書に精通した著者が、この3つの知識を駆使して翻訳のコツを教える。/span>
それからの数年間、私は乏しい給料の中から、当時の文部省の英語通信教育でSenior、 Grammar、Conversationの3科目すべてを受講し、ひたすら英語に打ち込んだ。
次に訪れた転機は、入社して20年近くたって、日本代表(社長)がそれまでの日本語ペラペラの二世の方から、バリバリのアメリカ人青年に変わった時だ。それまでは、英語は辞書片手に読んで理解できれば、ともかく用が足りた。ところが今度は、話さなければ通じないのだ! その頃、総務部長と製作部長(字幕・吹き替え版製作)を兼任していた私は、社長と直結であり、一歩オフィスに入れば、英語が日常語だった。しゃべる前に文法がどうのこうのと考えている場合ではない。ともかく、耳をダンボにして相手の早口英語を聴き、恥も外聞もなく単語をつなぎ合わせては必死にこちらの意思を通じさせにかかった。結果的に、なんとか話は通じた! 私は生来、人に話すのは大の苦手だったが、改めて忽然と悟った。“英語は度胸だ!”と――。
そこでもう一つの聖書との関わりの話になる。父を小学5年の時に亡くし、姉を高校2年の時に亡くし、母親の女手一つで育てられた私は、“人は運命の大きな力に縛られている”と畏れながら孤独な青春を過ごした。上京して深夜のキリスト教ラジオ放送を聴き、この“運命の力”が天地の創造者である。
神であることを知った私は、さらに聖書を購入して学ぶうちに、人間が内に持つ自己中心の罪を救うために、独り子のイエス・キリストを十字架につけられた神の愛を知って、神を信じ、クリスチャンとなった。以来、朝な夕な親しんだ聖書は私の生きる糧となり、いろいろな聖書のことば(聖句)が、少しずつ心の中に蓄えられていった。そんな中で、製作の仕事上、私は毎日のように会社の試写室で映画を見た。そして字幕をより分かりやすいものにするために、翻訳者と共に英語台本と日本語翻訳を比較しながら修正しているうちに、セリフの中に、多くの聖書やキリスト教の表現が出てくることに気づいた。そして時には、プロの翻訳者にも、誤訳や難解訳があることも分かってきた。そこで私は、自分が一人の信仰者として、仕事の上で何を神のミッションとすべきかが見え始めた。それは、映画の中の聖書やキリスト教に関わる英語のセリフを、正しく、分かりやすい字幕に練り直すことで、日本の観客に、聖書とキリスト教の教えを正しく伝えることだった。ワーナーにいた46年半、とりわけ製作の仕事に携わった後半の31年間、私は聖書と英語の切っても切れないつながりの中で、このミッションを遂行する幸いに恵まれた。それは現在も、さる字幕翻訳者養成学校の講壇で、受講生たちに、「聖書を知らずして映像翻訳者にはなれないぞ!」と叱咤しながら語る授業で継続中だ。
この度、長年、“いつかは本に”と願いつつクラスで使用してきた「聖書と英語」のテキストが出版の運びになり、“幸いこの上なし”の心境だ。この本が、翻訳のプロを目指す人だけでなく、聖書と英語に興味を持つ人の知的好奇心をいささかでも満たすものになれば、まさに望外の幸せである。