《試し読み》新刊『もしも人生に戦争が起こったら―ヒロシマを知るある夫婦の願い』
居森公照
1945年広島、爆心地から300mで被爆した居森清子さんは69歳で語り部となり、戦争や核兵器の罪深さを伝え続けた。清子さんの死後、夫である著者がその遺志を継承。語り部活動の傍ら、「体験を若い人に伝えたい」と、本書を手がけた。図や写真をふんだんに使用し、「日常に起きている戦争」をイメージしやすく工夫。「戦争が人生をどう変えるのか」を、実体験からリアルに読み解く。
(※本書は、著者による手記と、清子さんの生前の証言やインタビュー、編集部によるナレーションで構成しています。)
居森公照(いもり・ひろてる)
1935年4月25日、香川県に生まれる。6歳の時に太平洋戦争が始まり、4年弱を戦時下で過ごす。終戦後、母、姉と共に神奈川県へ転居。1956年、洗礼を受けてクリスチャンとなる。30歳で妻・清子と結婚。1980年代以降、原爆症を発症した清子に寄り添い、看病しながら講演活動をサポート。2016年に清子を看取った後は妻の遺志を継ぎ、各地で平和・反核の講演を続けている。横浜市在住。
居森清子(いもり・きよこ)※故人
1934年1月6日、広島市に生まれる。1945年8月6日、本川国民学校にて被爆。終戦後、28歳で神奈川県に転居。31歳で夫・公照と結婚。1980年代以降、原爆症に苦しむ。1996年、洗礼を受けてクリスチャンとなる。2003年、横浜市の中学校で被爆体験を語ったことをきっかけに、語り部としての活動を10年にわたり続ける。2013年より自宅療養となり、2016年4月2日死去。享年82歳。
一部抜粋
「はじめに」より
2016年春、私の妻・が息を引き取りました。82年の生涯でした。清子の人生は、苦労の多いものだったと思います。太平洋戦争前の広島に生まれ、1945年8月6日、あの原子爆弾に遭いました。爆心地から350メートルの所にある国民学校で被爆し、同校で唯一の児童の生存者となりました。その時から、清子の人生は一変しました。両親を原爆で亡くし、多感な時期を、たった一人で生き抜かなくてはなりませんでした。どんなにか孤独だったことでしょう。
清子が30歳の時、私たちは出会いました。私は清子の過去と苦労を知り、これからの清子の人生が幸せなものになればいい、そうしてみせると、誓っての結婚でした。
結婚生活は、慌ただしくも順調でした。その日その日を一生懸命生き、そのまま何事もなければ、二人して穏やかな人生を閉じるはずでした。しかし、戦争の愚かさ、原爆の恐ろしさが、それを許しませんでし
た。清子は、50代以降、被爆の影響と思われる病気を立て続けに発症し、最後まで病と闘い続けました。傍らで見ていて、それはつらい闘病だったと思います。
それでも、清子は負けませんでした。69歳から十数年にわたり、病と闘いながら、自分の体験をもとに平和の大切さを訴える活動に取り組みました。私は、52年の結婚生活を通して、妻の被爆体験を聞き、原爆症の苦しみと核兵器の破壊力を身をもって感じ、そして清子と共に、平和への願いを強くしてきました。清子は最後は、私の介護を受けながら「今がいちばん幸せ」と言ってくれましたので、「幸せにする」という結婚当初の約束を、少しは果たせたのかと思っています。
そして、私は清子ともう一つの約束をしました。それは、清子との生活で感じたこと、平和への願いを、
命ある限り伝えていくことです。
清子や私の人生の初期に起き、大人になった頃には既に過去になったはずの戦争が、私たち夫婦の人生の後半にまでどんな影響を及ぼしたかを、今、みなさんにお伝えしたいと思います。戦争は決して「過去の出来事」ではなく、一人一人の人生に起こりうること、そして、それが一度起きれば、どのようなことが降りかかるのか。読者の方々に追体験していただき、平和の「有り難さ」を感じてくだされば幸いです。