《試し読み》光を仰いで クリスマスを待ち望む25のメッセージ

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信じて待つクリスマス

8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。9 あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
ペテロの手紙第一1章8~9節

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「来ること」と「待つこと」

神の御子イエス・キリストの降誕を待ち望みながら生きるこの季節を「アドベント」、「待降節(たいこうせつ)」と呼びます。「アドベント」とは「来る、到来する」を意味することばで、神の御子イエス・キリストがこの地上に来る。到来する。その日に向かって備えつつ過ごすのがアドベントです。それは、私たちにとって「待つ」ことを経験する日々でもあるのです。神の御子の到来を信じ、待ち続けてきた人々の歩みに連なること、それが私たちがアドベントを過ごす大事な意味です。
クリスマスはしばしば「光」がモチーフになります。御子イエス・キリストの到来は「光の到来」だというのです。ヨハネの福音書1章9節が語るとおりです。

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」

このみことばとともに思い起こしておきたいのが、クリスマスの出来事からさかのぼること約七百年前に語られた預言者イザヤのことばです。

「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。」(イザヤ9章2節)

ここには光の到来を信じて待つ人々の信仰の告白があります。預言者イザヤの生きた時代、人々はまさに「闇の中を歩んで」おり、「死の陰の地に住んで」いました。しかしその闇の只中、死の陰において「大きな光を見る」、「光が輝く」と預言者は言い表した。それはいまだ来ていないことを、まだ見ていないものを先取りしたことばです。彼らはその光の到来、すなわち神からの救い主、メシアの到来までなお七百年もの時間を待たなければならなかった。彼らは「七百年」という時間さえ知りません。とにかく彼らは待ち続けたのです。
ここには「来ること」と「待つこと」を結びつける大事な要素が三つ示されています。一つは「神の約束の確かさ」、もう一つは「約束に対する神の誠実さ」、そして「約束してくださる神への信頼」ということです。神の約束の確かさが「来ること」を待ち望ませてくれる。約束に対する神の誠実さが「待つこと」を励まし続けてくれる。「約束してくださる神への信頼」が「来ること」と「待つこと」を確かなものとして支え続けてくれるのです。

「信じる」空間を広げよう

ペテロの手紙第一1章8、9節には「信じて待つ」ことの大切な姿勢が示されています。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています」とペテロは当時の教会の信仰者たちの姿を見つめて驚嘆しています。ここには信じて待っている人がいる、それは驚くべきことだと言っているのです。
今日、私たちはペテロの感じた以上の驚きを覚えさせられます。今日の時代は「信じる」という空間がどんどん狭められている時代だからです。先ほどのイザヤのことばで言えば、七百年も信じて待っていられるか、と誰もが思う。いや、そもそも信じるという行為自体が胡散臭い、疑わしい。むしろ不信感と疑心暗鬼の時代を私たちは生きています。何を信じてよいかわからない。誰を信じてよいのかわからない。「迂闊に信じてはいけないよ。信じるよりもむしろ疑ってかかれ」と言われる時代を生きています。信じる心を逆手にとって、人の信頼を踏みにじるような出来事も後を絶ちません。
けれども私たちは今こそ、信じる空間を広げたいと思います。聖書の語る信仰の世界は大きく広く、豊かで自由な世界です。そして信じて待つ世界は「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊る」ことのできる世界です。待っている時のわくわくする心。そして、それがついにやって来た時の喜びの心。信じられなくなっている狭く、固く、硬直化した心をときほぐし、やわらかにし、光の到来を信じて待つ者へと変えられていきたいと願うのです。

東日本大震災から六年間ほど、福島の子どもたちの支援のための「ふくしまHOPEプロジェクト」に関わって、毎月のように郡山で開かれる事務局ミーティングに通いました。会議を終えて郡山駅で新幹線に乗るのですが、ほぼいつもホームの端でカメラを構えた鉄道マニアの人々がいました。どうも郡山駅というのは新幹線マニアにとっては大事なポイントのようで、その見所のひとつが320キロのスピードで通過する「はやぶさ」を写真に収めることのようなのです。
あるとき、一人の中学生ぐらいのカメラを構えた男の子の姿が目に留まりました。ほんとうにわくわくした顔でホームの端に身を乗り出すようにして立ち、「もうすぐ来る、もうすぐ来る」と声が聞こえてくるような表情をし、そしてついに、はやぶさ号が猛スピードで通過すると必死でシャッターを切り、通過後にこちらを振り返ったときの何とも言えないうれしそうで満足げな顔を見て、思わず「よかったね」と声をかけそうになるほどでした。「来る、来る、来る」、「来た!」という喜び。アドベントの日々を過ごしながら、あの少年の顔が思い浮かびます。それ以上の喜びが、この世界にもやって来るのだと聖書は語るのです。

信じて待つクリスマス

「信じない心」は喜びを失っていきます。生きる世界が狭められていきます。疑心暗鬼の中に閉じ籠もって生きるほかなく、だんだんと身動きが取れず、息苦しくなっていきます。クリスマスへの日々、主は私たちを「信じる」という世界へと、信じるという広々とした伸びやかな世界へと私たちを招くのです。
ペテロが「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています」と手紙を書き送った「あなたがた」とは、初代教会、ローマ帝国の厳しい迫害のもとで小アジアの各地に散らされた「ディアスポラ(離散の民)」と言われた信仰者たちを指しています。
彼らは、イエス・キリストへの信仰のゆえに、日々熾烈な迫害と試練の中を生きていました。ペテロは主イエスの十二弟子の筆頭として、主イエスを「見て信じた」人の代表格のような人物ですが、彼が手紙を書き送っている教会のメンバーたちはほとんど、主イエスの死と復活、昇天の後に使徒たちや他の弟子たちの宣教によって救いに導かれていった人々、すなわち主イエスを「見ないで信じた」人々です。見たことのない主イエスを信じて生きている人々、信じているばかりでなく、信じているゆえに試練に遭い、迫害の中を生きている人々、そして主イエスを信じるがゆえにいのちさえ差し出すことを覚悟して生きている人々です。
ペテロはそのような信仰者たちの、しかし悲壮感で生きているのでない、必死の思いで生きているのでない、この世の人々から蔑まれ、辱めを受けながらも確信をもって信じる姿、そしてむしろ「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っている」姿を見て、彼らの信じる姿を驚きつつも、しかしその喜びの源泉がどこにあるのかを明らかにしています。

「あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」
(Ⅰペテロ1・9)

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており」と言ったとき、彼らが見ずに信じていたものは二つありました。一つは、かつてクリスマスに人となって地上に来られ、十字架上で贖いを成し遂げ、天へと上げられたイエス・キリストです。
そして、いま一つは「今見てはいないけれども信じており」とは、やがて再び来られるイエス・キリストです。これは、ペテロも初代教会のキリスト者たちも誰も経験していないことです。
こうしてみると、今日、神の御子イエス・キリストを待つ私たちも、かつて地上を歩まれたイエス・キリストを見てはいないけれども愛しており、やがて再び来られるイエス・キリストを今見てはいないけれども信じている。このことにおいて初代教会の信仰者たちに連なっていますし、彼らが主イエスは来られる、神の国は到来するとの希望の中で信じて待ち続けた日々を、今も私たちは生き続けているのです。
私たちが今、こうしてアドベントを過ごし、クリスマスを迎えるのは、どんなに世界が闇に覆われようとも、どんなに苦難が圧倒しようとも、どんなに試練が続こうとも、それでもそれを覆してあまりある圧倒的な光が到来する、神の救いが来る、必ず来る、生ける神がそう約束し、その約束に真実を尽くし、聖書がそれを証ししている――このことの確かさを信じるがゆえなのです。(『光を仰いで クリスマスを待ち望む25のメッセージ』より一部抜粋)

光を仰いで クリスマスを待ち望む25のメッセージ
朝岡勝
苦闘する教会、困難の中にある人々に慰めと希望が注がれますように――イエス・キリストがこの地上に来られたクリスマスの出来事を、当時の人々の目、時代背景、聖書の記述、あらゆる角度で見つめ、私たちにもたらされた福音の喜びを味わう。クリスマスを喜びをもって迎えるための25のメッセージ。