《試し読み》中高生に信仰を伝えるために

カルチャー

《試し読み》中高生に信仰を伝えるために

中高生に信仰を伝えるために
高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)代表スタッフ 川口竜太郎 1000円 B6判 96頁 三方断ちアジロ
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はじめに

次世代に信仰を伝えることは、私たちにとって急務の課題だといえます。教会から中高生の姿が減りつつあります。高校生が一人、もしくはいないという教会も少なくありません。中高生はさまざまな理由で教会から離れていきます。私たちは無力で、ただ彼らの帰りを祈り待ち望むことしかできないときもあります。小さな頃から礼拝をともにし、成長を見守り、手塩にかけて育ててきた子どもたちが教会から離れてしまうことは非常につらいことです。
しかし、信仰と希望をもって大胆に福音を中高生に伝え続ける者でありたいと思います。ヘブル人への手紙に「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(一一章一節)とあります。「多くの若者が救われる」という将来像を、信仰により与えられることを確信しています。なぜなら信仰継承は私たちだけの願いではなく、「これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい」(申命記六章七節)とあるように、何よりも主ご自身の願いであるからです。

私たちhi-b.a.スタッフは日々高校生伝道に携わっていますが、苦もなく大勢の高校生を集め、伝道し、信仰の決断をさせ、将来有望な若きクリスチャンを生み出しているわけではありません。高校生一人一人と向き合い、祈り、関わり、高校生が神と共に生きることを一緒に模索しています。
高校生への伝道といえば、音楽やスポーツや食べ物を中心とした派手なイベントを繰り返していると思われがちですが、それは誤解です。確かに、そのようなイベントを企画して実行する面もありますが、hi-b.a.の活動の中心は、定期的なみことばの学びであり、大人数を集めるための集会ではありません。集会では、賛美し、聖書を学び、聖句を覚え、一週間のそれぞれの経験や悩みを分かち合い、祈り合います。そういった地道な活動を、毎週、毎月、毎年続けています。

日本で活動がスタートした第二次世界大戦終了直後は、多くの高校生が救われましたが、今の時代、高校生を集めるのはhi-b.a.にとっても大変なことです。また、定期的な活動に継続的に参加させ続けることも、決して簡単なことではありません。たとえ集められたとしても、高校生たちは数年たてば卒業していきますから、毎年、次世代に一から働きかけをし直しています。つまり、新しい高校生と会ったときから信仰継承をしているのです。
そのhi-b.a.が、中高生への信仰継承に関する本を今回出版することにしました。
読んでいただければすぐおわかりになると思いますが、高校生集めの「手法やノウハウ」が紹介されているわけではありません。高校生伝道に関する知識や情報が記されてはいますが、いわゆる人を集めてイベントを行い続け、高校生を引き止め続けるためのテクニックとは違います。
次世代に信仰を伝える迅速な対応が必要な今だからこそ、慎重に信仰継承に取りくみたいと思います。 彼らの将来を見据えて、中高生世代の一人一人がキリストご自身に、しっかりとつながっていくような信仰成長を願います。
私たちhi-b.a.は長年にわたり、地道に苦労し、模索しつつ、高校生世代への伝道と信仰訓練とに取り組んできました。本書は、高校生世代への伝道を願い、取り組もうとする多くの方々にとって必須の、情報・課題の共有となるよう心がけました。

現代は、中高生が最も教会から離れていく世代だと言われています。現状は厳しいですが、目の前にいる中高生に信仰を伝えられるのは、その世代と生きる私たちだけなのです。不可能のない主と共に、懸命に信仰を伝えてまいりましょう。
川口竜太郎

教職者の高齢化と中高生の減少

現在、日本の牧師の平均年齢は約七十歳、信徒は六十歳前後と、現役牧師と信徒の高齢化が進んでいます(『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる』〔いのちのことば社、2016年〕52頁)。年間の受洗者数は、プロテスタント教会の約半数は「毎年は受洗者がいない」状態で、残りの半分は一教会当たり年間平均して約二名の受洗者がいるといわれています(同41頁)。教会の高齢者の占める割合からして、今後は召天者が増え、そこに教会から離れる信徒の数も加わるならば、中高生クリスチャンだけでなく日本のクリスチャン人口全体が大幅に減っていくことが考えられます。

また、教会学校(CS)出席者は平均値が八・一人(八割の教会が出席者は五名以下ともいわれている)、また全教会の約三〇%がCSを行うことができていません(同44頁)。中高生についていえば、すでにその世代がいないという教会も増え、今や彼らは教会の中でもマイノリティとなっています。
クリスチャン人口の減少によって、今後、兼牧と無牧の教会が増えることが見込まれる中、このような人手不足の状況が続くならば、教会に中高生担当の指導者を立てることができなくなり、教会に来ている数少ない中高生はさらに孤立し、信仰を保つことが困難になってしまうでしょう。
このように、私たちは難しい状況に直面していますが、まずはこの事実を「若い世代から大人まで全体で把握する」必要があります。なぜなら、信仰継承の課題は牧師や教師、伝道団体のスタッフだけで担いきれるものではなく、日本のクリスチャン全体で共通認識をもち、取り組む必要があるからです。

集めることよりも育てることを

最近ではさまざまな教団教派で、信仰継承の取り組みとして、ユース(中高生を含む青年)向けの大きな大会が行われています。このような状況はうれしいことで、次世代宣教への意欲が高まっているように思います。
同世代どうしで信仰を励まし合える場所を作ることは大切です。ただ、こうした大会は彼らに大きな励ましを与えますが、信仰は一回や二回の集まりで成長するものではなく、長いスパンでの継続的な取り組みが必要となります。
ですから、大会の参加者を継続的にケアするためにも、彼らを地域の教会につなげる工夫が必要でしょう。また、一週間に一回、日曜日の中高生クラスに加えて他の曜日に「同世代が集まる集会(中高科のようなもの)」をもつことができれば、彼らの信仰の成長は著しくなるでしょう。というのは大会やキャンプは非常に盛り上がります。そして、信仰の励ましとなることは確かです。ですので継続して行う必要がありますが、ただ、次の開催まで数か月から半年、長ければ数年単位の間が空きます。その間に信仰の歩みからこぼれ落ちてしまう者が多くいるのです。中高生の信仰継承は地道にコツコツ、目を離さず継続的に行う必要がありますので「教会の礼拝と集会」という両輪で信仰を励ますことが大切です。
彼らと関わるときや、信仰継承の取り組みにおいて大切なのは、多くの中高生が集まることが「ゴール」なのではなく、「スタート」であるという認識です。ユース向けの集会は「キリストとの出会いの場」であり、それとは別に、「将来を見据えた信仰の成長」の機会が一人一人に与えられることが必要です。
というのは中高生世代は、大学で受ける誘惑や、社会に出たときの信仰の戦いを、予想できていないからです。彼らには前もって、誘惑に打ち勝ち、信仰をもって礼拝を守り、神を第一として生きることを語っておく必要があります。大学生になってから、社会人になってから語っていては遅いのです。

また、気をつけなければならないのは、若い世代が多く集まることによいイメージだけをもってしまうことです。私が受ける質問や要望の中には、「どうすれば若い人が増えますか?」「若い人が集まるメッセージをお願いします」「若い人にウケる話のトピックは何ですか?」といった、若い人を集めることを目的としていると感じさせるものが少なくありません。工夫して若い人を集めるのは大切なことですが、中高生は育てる必要があり、その育成には苦労が伴うので、実際に多くの中高生が集まったとき、「彼らは教会に受け入れられるだろうか」「成長することができるのだろうか」と感じてしまうことがあります。
私自身も多くの若い世代が集会に集まり、教会に定着して救われることを望みますが、集まってくる一人一人が従順で、こちらのイメージどおりに行動するとは限りません。それどころか、中高生が集まることでさまざまな問題が引き起こされる可能性もあります。
個人差はありますが、彼らはエネルギーあふれる世代であり、また過去に受けた心の傷が癒やされないままでいる者もいますので、中高生を「集める」というよりは、しっかりと「育てる」ことをゴールに置く必要があります。そうでなければ、関わりやすく物わかりの良いごく一部の中高生だけが残るか、または、しっかりとケアされないことで集まりが無法地帯と化し、中高生クラスを始めなければよかったと思う、という結末を迎えてしまうでしょう。
関わる中高生が成熟するには時間と労力が必要です。彼らに信仰を伝えていくことが重要視されるこのときに、現在中高生の彼らが、将来も神を選んで生きるように何を語るべきなのかを考え、祈り、神に聴き、急務の課題だからこそ慎重にアプローチしていきたいと思います。

私たちは祈られている

日本宣教は閉塞感や、行き詰まり感があると言われていますが、気にする必要はありません。難しい現状にあるのは確かですが、主が諦める魂は一つもなく、すべての世代が救われることを切に願っておられます。私たちが信仰をもって中高生と関わり、福音を伝えていくときに、神の国が前進していくのです。
ローマ人への手紙でパウロは「(私は)苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生みだし、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」(五章三~五節)と語っています。難しい状況の中を通られているときにも主は力強く働いていることを確信し、主に希望を置く者でありたいと思います。
以前OM(=Operation Mobilisation。世界約一一〇か国で活動している世界的宣教団体。世界各国での伝道活動、若い奉仕者の育成、そして特に福音が届きにくい地域に重点を置き、その地域での教会開拓や伝道活動を強化する働きも担っている)の短期宣教に携わった時に感じたことですが、日本のクリスチャンは世界から注目されています。そして、熱心に祈られているのです。ご存知だったでしょうか、過去に戦争で日本に侵略された国の方々でさえ、「日本のクリスチャンに会えた」と涙を流し、私が証しをした後などは歓声さえ起こりました。海外には、日本のクリスチャンへの祝福を自分のこととして喜んでくださる方々がいます。ですので、私たちには主の目が注がれ、多くの祈りが捧げられています。

日本で中高生がクリスチャンとして生きていくことは簡単ではありません。他の生徒たちとの価値観の違いが年齢を重ねるごとに広がっていきます。学校やクラスには信仰を励まし合える相手はいません。むしろ、そこはこの世の価値観との戦いの場とさえなり、迫害に遭うこともあるのです。
中高生世代が教会に足を運ぶと、多くの方々に歓迎され重宝されます。とても大切に扱われるのですが、しかし、同時に彼らは同世代の信仰の友がいなかったり、作りにくい状況下にありますので、教会で自身が抱える信仰の悩みを、同じ年頃の仲間と話し合うことができずに孤立してしまうことも多いのです。場合によっては、礼拝に出席しても教会内でだれとも一言も話すことなく帰宅するケースもあり、教会の中に自分の居場所を見いだすことができずに悩んだり、自分を責めたりして、その結果、教会から離れてしまうことがあります。

恵みが重荷に

教会から中高生が離れる原因について考えたいと思います。一つ言えることは、幼い頃から教会で育つと、福音の恵みが自分にとって「当たり前」になってしまう場合もあるということです。キリストの十字架の贖いと、死を打ち破る復活のストーリーが聞き慣れたものとなっていて、そこに感動がありません。聖書知識は豊富ですが、信仰に歩んだ経験がないためペーパードライバーのような状態で、信仰の魅力を感じることができずにいるのです。
クリスチャンホームで育った子どもたちは、小学校低学年のうちは家族で教会に通いますが、中学生になると部活動が始まって礼拝を守ることが難しくなります(部活動をどう考えるかは68頁以下でお話しします)。そして学年が上がるにつれ、学校の成績や人間関係を気にするようになります。またその頃には、家族より友人と行動するようになり、遊びの予定が礼拝の時間帯とバッティングするようになります。
友達の誘いを断って教会に行き、礼拝後にSNSを開くと友人の楽しそうな姿が映っているのを見つけます。しかしそこに自分はいない……。月曜日に学校へ行くと、自分だけが友人たちの話題に入れない……。教会に同世代が多くいるならまだよいかもしれませんが、このような経験を何度も通ることによって、次第に教会に行くことにメリットを見いだせなくなり、福音という「恵み」がかえって「重荷」と感じられるようになってしまうのです。
過去に教会に通っていた青年が教会に行かなくなった理由の第一位をご存じでしょうか。「行ってもメリットがないから」です(『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる』〔いのちのことば社〕176頁)。非常にショックな結果です。このアンケート結果は、教会から離れていく中高生たちが信仰に歩むことができず、福音に魅力を見いだせていない証拠だと思います。福音に魅力がないのではありません。さまざまな要因によって、その魅力を彼らが感じることができなくなっているのです。
また、教会に来ているノンクリスチャンが答えた、教会に来る理由のトップをご存じでしょうか。それは「神を礼拝できるから」です。極めて信仰的な理由で参加しているのです。それに対して、教会で育った若者たちが「行ってもメリットがない」と感じていることは、彼らが信仰に歩むことができず、また歩むべき道を見いだせなかった結果といえます。そもそも礼拝はささげるものですので、メリットを求めていること自体、受け身的な信仰にとどまっていることの表れだと思います。その背後には、キリストを受け入れ救われた後に次のステップが見いだせなかったということがあるのではないでしょうか。
「信仰をもって何をするの?」「洗礼を受けたあとどうするの?」と、救われた時のままの状態にとどまっている中高生は多いと思います。ですから、幼い頃から教会で育ってきた者にはまず、今まで聞いてきた福音がいかに力強く、自分たちにとって必要なものであるのかを伝える(再確認させる)必要があります。もし私たちが彼らの理解できることばで根気よく福音の大切さを伝えていくならば、福音を再確認し、信仰を再燃させることができるでしょう。教会で育ってきた彼らは、祈りが応えられる経験などを通して、神が力ある方であると本来は知っているのですから。そして、信仰が呼び覚まされたならば、すぐにみことばに沿った歩み方を伝える必要があります。

彼らの可能性

中高生に対して、信仰に歩まない、やる気がなさそう、打っても響かないなどとネガティブな印象をもっている人が多いかもしれませんが、そうではありません。確かにスイッチが入るまで時間がかかったり、波があったりもしますが、福音に生きる魅力を知るならば彼らは大人顔負けの信仰者へと変えられます。
私がスタッフになり、集会を担当し始めた頃、集会にはさまざまな高校生が参加していましたが、ほとんどは信仰に熱い状態ではなく、信仰から離れようとしている者もいました。しかし、集会でみことばと祈りの大切さを伝え続けるにつれ、次第に彼らの信仰に火がともり始めたのです(hi-b.a.集会の内容は教会の中高科とほぼ変わりありません)。すると周りにいた友人たちも影響を受け、数名が友人を誘い始めて数十名の伝道集会を行ったこともありました。大人が無理矢理何かをさせようとすると、簡単に火が消えてしまうのですが、みことばを伝え続けるときに、主が火をともしてくださり、同世代どうしが励まし合うと大きな力となるのです。
また、ある高校生は神に期待をもてない状態が長く続いていましたが、キャンプを通して同世代からの信仰の励ましが与えられ、自分の学校の校門で伝道集会のトラクトを配るようになったのです。しかもそのトラクトの一枚一枚に手書きでみことばを書いていました。お伝えしたいのは、集会における成功談ではなく、中高生が福音に生きる大切さを実感すると大胆に行動するようになるということです。中高生たちは信仰心がないわけでも、信仰生活に興味がないわけでもないということです。特に今の時代は中高生が教会で孤立していることが多くあります。
彼らは同世代や少し年上の先輩クリスチャンが少ない(いない)ために、「自分に近い、理想の信仰者モデル」がなく、また活躍の場もないために、「信仰の表現のしかた」がわからないだけなのです。ですので、ひとつの教会だけでは人手が足りず中高科が行えない場合は教団や地域の教会で協力し、パラチャーチ(超教派の働き)をうまく使うといった方法などで、同世代同士が集まり、信仰を励まし合う場をつくる必要があります。そのことによって彼らは信仰のモデルケースを見つけ、現代の中高生クリスチャンとしての信仰の表現を学んでいくのです。
同世代同士の交わりは本当に力強く彼らを成長させます。彼らは信仰に歩みたいと思っても、モデルケースがないため、その第一歩がわからず、理想に到達するプロセスも知りません。そして、しばしばパウロが語るような高い基準に一気に駆け登ろうとするので、挫折して信仰の成長を諦めてしまうことや、時には信仰を失ってしまうことすらあるのです。成長を励ます私たちは、彼らに対して上から指示するのではなく、同じ目線で信仰の次の一歩を提示する必要があります。
大切なことは中高生一人一人がキリストと出会い、「栄光から栄光へと変えられる」とあるように(コリント人への手紙第二 三章一七、一八節)、信仰をもって主体的に歩むように育てることだと思います(方法論は62頁以下で取り上げます)。
主がなされることは不思議で、時にかなって美しい(伝道者の書三章一一節)ものです。今までに出会った高校生の中には、さまざまな傷や事情によって信仰生活から離れてしまい、学校生活もままならない子もいました。しかし、そのような状態の子も同世代の信仰の友との交わりの中に入ると次第に癒やされ、強められていき、多くの友に伝道する姿に変えられるのを幾度となく見てきました。
大人の目には危なっかしく見える中高生であっても、主はいつも違う視点をもって彼らを見ておられます。ですから、現在与えられている一人一人のために祈り、彼らの信仰を励まし育てるために、希望をもって行動していきたいと思います。信仰のバトンを渡された彼らに、私たちが寄り添い、関わり続けるならば、主はさらに働きかけて、多くの中高生を救ってくださることを確信します。中高生の一人一人には大きな可能性があります。誰がどのタイミングで飛躍的に成長するかわかりません。私たちは主に期待して、関わるすべての中高生のために、主にある期待をもってとりなす者でありたいと思います。

信頼できる親友がいない

ある宣教師が高校生に、「日本の高校生が最も悩んでいる問題は何ですか?」と質問しました。その高校生は少し考えた後に、「みんなかどうかわからないけど、本当の自分が出せないことかもしれない……」と答えていました。このことばは今の中高生の心情を表していると思います。中高生の現状について考えていきたいと思います。
現代の中高生は親友を作りにくい環境に生きていると思います。私がスタッフになりたての頃の話ですが、いつもグループの中心にいる元気な高校生が、「自分に本当の友達がいるのかわからないんだよね……」と言っていました。その後、このフレーズをしばしば聞くようになっていくわけなのですが、初めて聞いた時には衝撃を受けました。
彼らは友達から嫌われることを極端に恐れています。これは身近な友人との信頼関係が構築できていないからだと思います。最近では自分の考えと違った意見であったとしても、相手に同調するようすが多く見受けられます。
そのような中で、その場に合わせようと自分を装うことがあります。「部活の自分」「特定のグループでの自分」「家での自分」「教会での自分」というように、状況に自分を合わせるのです。このようなことはある程度は必要だと思いますが、問題なのは、この中に一つも「自分らしくいられる場所」がないということです。
ほとんどの高校生が、自分らしくいられる場所がなく、人に受け入れられるようにふるまうために心の自由がない状態にあるように感じられます。互いに過度に気を遣うことが当たり前となり、「その場」に自分を合わせることで、どの自分が本物であるかがわからなくなっているのです。それによって自己肯定感やセルフイメージが極めて低くなり、その結果、同世代との関わりの中で深い信頼関係を築けていないのだと思います。

低いセルフイメージの弊害

多くの中高生が低いセルフイメージをもっていると感じますが、これは中高生のみならず日本人に多く見られる傾向だと思います。多くの人はセルフイメージの低さに悩み、その葛藤や苦い思いから抜け出そうとしているのではないでしょうか。おそらく自己受容・自己肯定がうまくできていないのだと思います。セルフイメージが低い場合、さまざまな問題が生じてきます。
「自分は魅力的ではない……」「自分は面白くないし……」「誰も受け入れてくれない……」などと思い、たとえ多くの友が与えられていたとしても、自分は必要とされていないと思ってしまうからです。
そして、誰かに関わる前から人間関係を築くことに不安を覚えてしまいます。ですので、中高生は知らない人が多い場所には行こうとしません。知っている人がいるならば集会の参加を考え始めます。また、これといって大きな問題ではないようなことで「気まずかった」「傷つけられた」と悲しんだり、怒ったりして、自分で人間関係を壊してしまうことさえあるのです。

健全な自己理解

しかしながら、ただ単純に高いセルフイメージをもたせればよいのではありません。「健全な自己理解」が必要だと思います。健全な自己理解をもたせるためには、彼らに「私たちの価値」を伝える必要があります。
その答えは聖書にあります。他者と自分を絶えず比較している中高生は多くいます。他者との比較という基準ではなく「聖書の基準」を教える必要があります。存在価値(自己理解)は自分や他人が決めるものではなく「人をお造りになった神が決める」ことであり、人の評価や他者との比較は関係性において相対的に変わることなので、たとえ劣等感を感じたとしても自己理解に対する基準にはならないことを伝えるのです。

自己理解への回答として

「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」(エペソ人への手紙二章一〇節)。
私たちが神の視点に立つならば「私たちは神の最高の作品」なのです。正しい自己理解はこれ以上でもこれ以下でもありません。私たちは工業製品ではなく、神の手作り(ハンド・メイド)による作品です。日本語聖書では「神の作品」と訳されていますが、ある英語聖書では「God’s masterpiece」となっています。この「masterpiece」とは傑作と訳されることばで、「オリジナルなもの」、「一つしかない・コピーではない」「特別・ユニーク・質の高い」という意味があります。中高生は「神のことば」以上にこの世のことばからの影響を受けて傷つけられているので、聖書が言う価値を、繰り返し伝えることが必要でしょう。

いじめ

いじめや虐待が見えにくくなってきているように思います。いじめと言ってもさまざまな種類のいじめがありますが、SNS関連が原因でトラブルが生じる場合も多く、集団での悪口の書き込みや、特定の人物を無視する場合や、実際に暴力に及ぶケースもあります。特にネット上のいじめは学校が終わってからも続くので(最近はLINEなど)、心が休まる時がありません。
昔はいじめられることは学校だけで終わっていましたが、現代ではSNSを通して家にいる時も二十四時間絶え間なくトラブルがつきまとうようになってしまったのです。まさに心の休まる場所がなく安全な居場所がなくなりつつあります。
それにより、深い孤独感を感じて鬱状態になったり、自傷行為やネット依存になる子も少なくありません。中高生の中には学校でいじめに遭い、家に帰ると親から暴力というケースもあります。また反対に、親との関わりが極端に少ないネグレクトなどの虐待も増えているように思います。
彼らがいじめられていると告白するときには、緊急性が高く、切迫した状況にある可能性があります。なぜなら、彼らにとっていじめを告白することは屈辱を感じることであり、場合によっては反撃される可能性のある非常にリスクが高い行為だからです。そのことを聞いたならば、詳しく状況を聞き、すぐに対応する必要があります。

複雑な家庭環境

複雑な家庭環境に置かれている中高生も少なくはありません。虐待も増加傾向にあるようです。そのような目に合っている中高生は自分の居場所を探していて、過度に人に甘えてしまったり、依存的な行動を取ることもあります。
また、過保護も虐待と似ているところがあります。過保護は親が子どもに対していだいている自分の理想に夢中になり、それを子どもに押しつけている状態だと思います。過保護も虐待も、どちらも躾の域を超えてしまっているのです。親がすべてのことを囲い込んで、子どもの意見や自主性は尊重されていません。親としては一生懸命なのかもしれませんが、子どもの成長を奪ってしまいます。これでは子どもはひとたまりもなく、親に従えない自分が悪いんだと自分を責めたり、自分の意見をすべて否定されているように感じて、自暴自棄になったりします。ですので、中高生は親の過保護によっても精神的に疲弊します。
悩み、反発する

中高生は活力あふれる元気な世代ですが、それと同時に繊細な年頃です。まだ定まっていない進路に心を悩ませつつ、親からの期待と周りの目を気にしています。また、教会で起こるさまざまな事柄を聖書的に受け止めて消化していくすべを知りません。一度に多くのことを感じ、考え、他者と自分を比較し、時には反発という反応をしてしまうのです。
自分の生き方そのものを模索して非常に苦しい変換期を通っているこの時期は、特に励ましが必要です。周りの大人や信仰の先輩に悩みを聞いてもらい、支えられる必要があります。
親が相談相手になれればいちばんよいのですが、自分の子を相手にする場合、愛情ゆえにアプローチがしばしば行き過ぎてしまうことがあります。また中高生世代は、それまで親から教わってきた価値観を取捨選択する時期ですので、意図的に親を避けたり、これといった理由もなく反抗することが多いでしょう。
特にクリスチャンホームで育った子どもは、自分の信仰は単に親から受けた影響なのではないかと考え、いったんその信仰を捨てようとする場合もあります。 しかし、葛藤した後に、「捨てない」という選択をする部分も多くあるのです。今まで受けた価値観を確認し、再構築し、精神的な自立へのプロセスを通っているのだと考えられます。反抗的になることが多々ありますが、それは必要なプロセスで、正しい価値観であれば、それが親から植えられたものであっても、心の底では同意しているのです。 
この時期は「将来の自分を探している」時で、子どもに自由に悩ませ、考えさせる必要があります。まさに大人になろうと生まれ変わる苦しい時期で、これまで蓄えてきた価値観の統合をしているのだと思います。
このような過程にある中高生には、メンター的な存在が必要です。プロのカウンセラーである必要はなく、周囲の大人が話を聴いてあげることが助けになるのです。
彼らを正しい方向に導こうとして手を入れ過ぎてしまうと(頻繁なダメ出しやアドバイス)、一人一人の悩む機会と失敗の経験を奪ってしまうかもしれませんし、人格形成を遅らせてしまうように感じます。この時期には彼らの危なっかしい部分を横目に見ながら、取り返しのつかない失敗はしないように見守り、サポートする必要があるでしょう(そうするしかないという難しい時期でもあるでしょう)。
私たち人間は、困難を主と共に乗り越えていくときに、信仰が成長するのではないでしょうか。
関わり方のポイントは、話を聞き、心の重荷を下ろさせるところにあります。今まで蓄積した思いを不器用に、時には攻撃的に吐き出すので親との衝突は絶えないでしょうし、周りの人々を驚かせることもあるでしょう。
メンターが福音的であり、また彼らの不器用で攻撃的なことばにもしっかりと傾聴できる人であれば、価値観の取捨選択をしている、吹き荒れる嵐のような心境に、神のことばの影響を与えることもできるのです。

SNSの時代~オンラインに生きる

今やユースミニストリーとSNS(=Social Networking Service。インターネットを介して人間関係を構築できるスマホ・パソコン用のWebサービスの総称。ソーシャル〔=社会的な〕ネットワーキング〔=繋がり〕を提供するサービス)は切っても切り離せない関係にあります。たいていの中高生は常にスマートフォン(スマホ)を手にしており、hi-b.a.で高校生にアンケートをとったところ、個人差はありますが、平均使用時間は一日に五時間前後という結果が出ました。
中高校生はSNSで自分のことを公開します。投稿に対して「いいね」という反応をたくさん集め、注目されたい子もいるようです。また、親や友達に話せない深刻な悩みをSNSであれば投稿する場合もあります。おそらく何気ないことでも発信して誰かに知ってほしいのでしょう。自分の悩みを打ち明けられる人間が身近にいないことが最大の問題ともいえると思います。
SNSは、テレビとは違って端末が一人一人の手元にあり、新たなコンテンツがいつでも自由に際限なく閲覧できるため、彼らの心に大きな影響を与えるツールとなっています。
中高生がSNSを使用することは、彼らの生活の一部となっています。SNSは、伝道集会の告知が手軽にでき、届きやすいといったさまざまな可能性を秘めていますが、使い方を間違えるとトラブルを起こしてしまいます。hi-b.a.ではキャンプの分科会などでSNSの使い方の学びをしています。
また、中高生の友人関係はSNS抜きでは語れない状況です。SNSはまだまだ新しい文化ですので、取り扱いのルールが確立されていない部分が多く、取り扱いを間違うことによって人間関係を悪くしたり、複雑にしてしまう場合もあります。
本人が良い投稿だと思っていても、そうは思わない人がいたり、何気ない写真の公開やタグ付け(写真に映っている人が誰であるかをわかるように紐づける)が問題になったりしています。SNS上で不適切な発言をする大人も増えたように思います。中高生によってはSNSの投稿によって気まずい仲になってしまったり、トラブルに発展していくケースもあります。
人とつながることができるSNSは、逆効果を生み出しているという現実があります。なぜなら自分の生活の最高の一面(自慢など)を載せる傾向があり、成功劇場の舞台となっているからです。
閲覧者の中には自分の今の苦しい現状と比較して、嫉妬したり、負けないくらいの投稿を載せ、かえって競争意識や疎外感を生み出している場合があります。
SNSやメールは便利なものですが、時としてストレスにもなります。これらは相手の表情や声色を確認できないため、相手の気持ちを憶測で判断する部分が多いのです。顔と顔を合わせて話し合うよりも誤解が生じやすく、勘違いによってトラブルになるケースが後を絶ちません。中高生の中には返信がないことで不安に思ったり、無視されているのかもしれないと精神を磨耗させたり、怒りを覚えたりすることもあるようです。
最近では「FOMO(Fear Of Missing Out)」という現象があるといわれています。日本語にすると「取り残されることへの恐れ」といった意味で、仲間が自分抜きで楽しんでいるのではないかと感じ、一人だけ取り残されているのではないかと心配になってしまう状態のことです。そして一日に何度も、友達と話している時でさえも、SNSをチェックしてしまうのです。
中には、自分は仲間外れにされているのではないか、悪口を言われているのではないか、今から自分もその集まりに参加できないかなどと神経質になってしまい、不安になる者もいます。
またFOMOの進化形が「MOMO(Mystery of Missing Out)」だといわれます。「取り残される謎」といった意味で、「なぜあの人はあの出来事について投稿しないのか」「なぜこの投稿に自分が写っていないのか」などと不安を感じる症状を指します。これらの現象は現代の中高生に(大人にも)見られる傾向であり、便利なツールであるはずのSNSが引き起こしている現代病です。
このような症状は一見、取り越し苦労に見え、くだらない内容に思えるかもしれませんが、中高生たちがなぜそのような不安を抱えるのか理由を考える必要があります。おそらく、彼らが自分らしくいられる場所をもっていないことと、心の底から信頼して話せる仲間がいないことで、SNS上での人間関係に過度に依存、反応してしまうからだと思います。
このような指摘をすると、それならスマホの使用を一切禁止すればよいと思うかもしれません。しかし、子どもが小さいうちはそれができても、将来も使用をとめるということはできないでしょう。彼らはいずれ親の手から離れていきますし、親の目を盗んでオンラインでさまざまな人とつながろうとするものです。また、押さえつける力が強ければ強いほど反発も大きくなってしまいます。覚えておきたいことは、SNS自体が悪いものなのではなく、使う側の人間の罪が便利なツールを悪質なものに変えているということです。
SNSの効果的な使い方を見つけることができれば、福音に触れたことのない中高生に迅速に神のことばを伝えることができます。ですので、大切なのは否定や禁止ではなく、使い方の指導ではないでしょうか。ただ、聖書には直接その使い方が示されていませんので、聖書から使い方の「原則」を見いだすことが必要でしょう。このことに関して、hi-b.a.で現在行っている取り組みをご紹介いたします。

SNS使用の指導・注意点として

SNSを使用するにあたって気をつけなければならない点は、配信による炎上です。配信の内容には注意を払い、視聴者に不快感を与えないように配慮する必要がありますが、炎上ばかりを恐れる必要はありません。ほとんどの場合はあまり注目されることもありません。投稿を重ねてようやく中規模のヒット(数百から数千回再生)程度のもので大炎上もなければホームラン級にバズる(何万単位の閲覧数を得る)こともないでしょう。もし私たちがコツコツと投稿を重ねるならば閲覧者が増え、より多くの人々に福音を伝えることが可能です。
SNS活用の可能性は、中高生自身か比較的若い世代が知っていますので、大人の監督のもとで彼らに任せるならば、SNSを用いてバラエティに富んだ発想で福音を伝えてくれると思います。学校によっては制服姿での投稿が禁止されているところもあるので、中高生が「やりたい」と言っても保護者への確認が必要です。大切なことは拒否や禁止ではなく、使い方の指導です。
時として中高生は、SNSでの自分の投稿が相手にどのように映り、影響を及ぼすのか予想できずに不用意な投稿をしてしまうことがあります。中高生のSNSトラブルは多く起こりますので、使用に関する定期的な指導が必要でしょう。
まず前提として、SNSは不特定多数に見られているので、個人情報を載せない、個人情報を投稿内で聞かない・答えない、込み入った話をしない、自分のことが中傷されていると感じてもすぐに反応しない、家族で旅行に行っていることなど具体的な詳細を載せない、いじめを受けている場合はすぐに相談する、といったことをあらかじめ伝える必要があります。
高校生は知らない人から「友だちリクエスト」が来ても、共通の友だちがいるという情報だけを理由に、あっさり承認してしまう場合がありますが、画面の向こう側の人間は、果たしてアイコンに表示されているような人物かどうかはわかりません。
そのような経緯でアカウントを乗っ取られる場合もあります。そうなると、プロフィールや写真など、大量の個人情報を抜き取られてしまいます。つまり、被害者になるだけならまだしも、アカウントを乗っ取られることにより、関係している人たちにも被害を拡大させる可能性もあります。最近ではキリスト教の異端も入り込み、さらに複雑な事態になる場合もあります。
特にいじめがSNSというツールによって変化し、見えにくい部分が多くなりました。以前のいじめは学校で行われるケースがほとんどでしたが、現在は家に帰ってもスマホを通してLINEのグループやチャットなどで続いてしまうのです。SNSのいじめは時間を問わず継続するので、かなりのプレッシャーを受ける状態に置かれる可能性があります。ですから、何か問題があった場合は信頼できる大人に言うように伝えておく必要があります。

SNSやゲームは禁止にするべきか

中には子どもたちにSNSやゲームを一切禁止する方もいますが、SNSが存在しなかった時代とは違い、部活やクラスの連絡もSNSを使います。今後、情報通信技術はますます発展していくでしょう。ですから、クリスチャンとしてこのツールも用いて神の愛を伝えるよう、中高生を促す必要があります。使い方を研究していくならば宣教ツールとしての可能性は高く、多くの人々にみことばを伝えることができます。

宣教のツールとしてのSNS

デメリットを考えるとSNSは使わないほうがよいと思われるかもしれません。しかし、SNSはトラブルばかりではありません。古代から手紙のように、直接人と向き合うのではないツールはありました。ヨハネは手紙の中でこのように語っています。「あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。私たちの喜びが満ちあふれるために、あなたがたのところに行って、直接話したいと思います」(ヨハネの手紙第二 一二節)「あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう」(ヨハネの手紙第三 一三、一四節)。
直接会って話す以上のコミュニケーション手段はありません。しかし、さかのぼれば伝達手段、コミュニケーションツールとしては、粘土板、パピルス、羊皮紙、手紙、とさまざまありました。それらのツールは、私たちがその場にいなくても思いを伝えることができます。また、言葉以上に形として残せるものであり、SNSを使用している現代に至っては拡散告知の強みもあります。今やインターネット環境は地域や国境を超えて福音を大胆に伝えることのできるツールとなっているのです。
クリスチャン高校生の中には、FacebookやInstagram、Twitter、LINEを使用して、自分がクリスチャンであることをプロフィールで公表している人もいます。また伝道集会などのイベント開催を任せると、さまざまなSNSツールを駆使して、チラシや動画を作成しhi-b.a.のグループアカウントからイベントを告知・招待し、どのような内容の集会なのかを少しずつ公開するなど、配慮して動員につなげてくれています。
もちろん、チラシを渡すという方法もあるのですが、オンライン上の時間や場所などの情報はタイムラインに残りますし、彼らは紙媒体の情報よりも画面の方を一日中見ているので告知効果は高いかもしれません。実際にチラシのみを配った告知よりも、チラシとSNSを合わせて使用し、告知するとでは動員に違いが出ます。
日常では、Twitterを使って教えられた聖書のみことばをつぶやいている高校生同士が、互いに信仰を励まし合っています。またキャンプのあとも、Facebook等で楽しそうなようすを投稿すると、そこから話が発展し、ノンクリスチャンの友達も興味をもつようです。
最近ではLINEで、集会やキャンプの動画などをアップし、高校生個人のスマホから伝道ツールとして使用してもらっています。また、LINEなどで聖書通読グループを作り、今日読む箇所やディボーションのシェアリングを行っています。
他にもたくさん活用法があると思いますが、私たちスタッフよりも、高校生のほうが使い方に慣れているので、彼らはバラエティに富んだ発想が尽きません。彼らにアイデアを求めていくと、画期的な、ユースに届くアイデアが出てくることでしょう。最近では動画を簡単に編集できるため、少し前までにはパソコンを使用しなければできないことが手元でできるようになり、SNSに投稿する動画の質が向上しています。
現代はSNSやホームページを通して、実際に教会に足を運ばなくても集会の内容を伝えることができます。中高生にとって集会で何が行われていて、どんな人が参加しているのかは事前に知っておきたい情報なのです。
日本において、ノンクリスチャンが自ら進んで教会に足を運ぶという例はあまり多くはないでしょう。もちろん神に飢え渇いて来る人、人生でつまずき、導きを求めて教会に来る人はいます。しかし大多数の人々が、ある程度の幸せと安心感の中で生きている今の時代、教会に積極的に助けを求めていない人に対しても、福音が目にとまるように、私たちは神の国の情報を配信する必要があると思います。
新来者は目的の場所に行く前にはスマホでその場所を確認しています。教会のホームページやSNSを使用して無料で動画を配信することにより、教会に足を運んだことのない人々に、クリスチャンの実態を知ってもらえるのです。主催者の顔が出ていない場合は、顔を出せない理由があるのかもしれないと不信感を抱かれる傾向があります。しかし、事前に主催者の顔や集会の中身が(詳しく)わかるならば、安心感を与えることができるのです。かつてはノンクリスチャンにとっては敷居の高い教会でしたが、近くの宗教施設という認識から、気軽に足を運べる場所と理解される可能性が高いでしょう。
SNSは全く福音を聞いたことのない高校生に伝えるためには、軽視できないツールであると思っています。勉強の合間にSNSを開くという行為自体が良いか悪いかは別として、現代の高校生は電車やバスの待ち時間もSNSを開いています。どのみちSNSを開くならば(礼拝や伝道集会の時間に、すべての中高生が時間を合わせられるわけではないので)、彼らの生活のサイクルに合わせて神のことばを届けたいのです。実際にInstagramを見て、集会に参加した高校生がいますし、活動を知って連絡や、励ましの手紙をもらったこともあります。
また、以前は話すことが得意で元気な子が教会に友達を連れてくるケースが多かったように思いますが、話すことが苦手でも、発信した内容を友達の間でシェアすることによって福音を伝えることができるのです。
「私は福音のためにあらゆることをしています。私も福音の恵みをともに受ける者となるためです」(コリント人への手紙第一 九章二三節)
私たちは新しい若者文化を理解し、また、問題はSNSにあるのではなく、それを扱う人間の罪だということを覚え、あらゆるツールを駆使し型にとらわれず福音を大胆に伝えるものでありたいと思います。

ある大学生にSNSについてどう考えるか聞いてみました。

「情報の共有が早い。仲良くなりやすい。気軽に連絡が取りやすい。つながっていることを感じられる。居場所、表現の場所となる。会ったときの話題づくり。しばらく会えていない人とつながれる。たくさんの人に証しできる。電話代が無料。連絡先を振り分けなくてよい。会っていない人と連絡が取れる。宣伝ができる。気軽に話せる。見たい情報だけを選べる。グループで会話できる」 二十代・大学生

彼らの意見から推測して、気軽に使用できるツールと見られているようです。また、気軽に使用するだけではなく他者とつながることができる便利なものなのです。というのは、このオンライン上のつながりは問題があれば簡単に切ることができ、なおかつ一時的にブロックできるからです。面倒な相手ならば、関係を切ることができ、なおかつ相手に気づかれない設定もできます。良いか悪いかを別とすれば、一方的に相手との関係をコントロールすることもできる利点があります。ですので、害を受けずに相手をお試ししてつながることができるツールとなっており、また、投稿を見て、応答する側もリスクが少なく、相手と関わることができるのです。そのうえ、無料で個人の企画するイベントを宣伝できる強みがあります。
一昔前までは一握りの芸能人しかテレビに出られない時代でしたが、現代は一般人が動画を配信し、自分自身を世に表し、面白ければ多くの人が共感を示せるようになったのです。
投稿すれば応答がある。工夫次第で、この世に自分を現すことができるチャンスを与えているツールなのです。

同じく、二十歳の大学生にSNSのデメリットについても聞いてみました。

「依存しやすい。誤解が生まれやすい。時間をとられる。実際のつながりがない。余計な情報が入ってくる。関係性が難しい。情報がたくさんあって疲れる。目に悪い。姿勢が悪くなる。見えない人を簡単にのけ者にできてしまう。情報を受けとめることができない。傷つくときがある。虚しくなる。拡散力が良くないときがある。『いいね』を気にしたりする。リアリティがない。取り消せない」 二十代・大学生

また、SNSは炎上(失言などと判断されたことをきっかけに、ネット上で非難・批判が殺到し、拡散される)し、そこから個人が特定されたり、ダイレクトメッセージなどを介して悪い誘いを受けるリスクもありますし、詐欺グループなどの標的になることもあります。本人が何かを発信しなくても、個人情報を抜かれて、なりすましによる被害を受けることもあります。
スマートフォンで相手の顔が見えない状態でのコミュニケーションをとるため、誤解や行き違いが生じやすい。そして、さまざまな情報が拡散してしまい、時には詐欺被害にあってしまう。事務的なやり取りに関しては便利なツールですが、心のやりとりには不向きな側面があると感じます。
SNSが普及してから、中高生たちはコミュニケーションツールとしてスマートフォンに頼っています。LINEのスタンプは多種多様にあり、文字だけでは表せないニュアンスを表現することには長けています。しかし、時として生身のコミュニケーションを避け、不都合なこと(クレームや予定のキャンセルなど)はSNSを通して伝える傾向にあるので、コミュニケーション能力が落ちているように思います。
hi-b.a.の集会をしていても、初めて参加した中高生の中には自分の名前を言うなどの当たり前のあいさつができない場合があります。相手の目を見て、心に思ったことを口で話す、そして自分の耳で相手の意志を聞く、このような作業の反復が圧倒的に少なくなっているからではないでしょうか。
しかし、これはもはや中高生だけの問題ではありません。さまざまな種類のSNSがあり、整理ができていないために、大事な連絡や仕事の話などが、メールやSNSなどから、ごちゃ混ぜに送られてくる場合があります。今後は話の内容の深刻度や重要度によって、どのツールを使うかの共通認識が必要だと感じます。例えば、SNS、メール、電話、直接合うなどの段階を定め、それによってどのツールを使うか決めなければ、伝えなければならないことさえも伝わらなくなるでしょう。

超情報化社会の中で

スマホを使用している中高生は超情報化社会と呼ばれる社会に生きています。さまざまな情報を手元から見ることが可能です。SNSの普及により個人の意見やことばも入り混じるようになりました。ネット上で、まことしやかに語られていることばの背景にはさまざまな商業戦略や思想が見え隠れしている状況です。私たちの目から見れば、明らかに風評や虚偽のようなものも多く含まれますが、案外閲覧数が多く、中高生は大きな影響を受け、信じていることさえあるのです。
中高生のまわりには不必要な情報もあふれています。時として、彼らは惑わされてしまいますので、この超情報化社会の中で彼らを守らなければなりません。中高生に対して本当に必要なこと、また真実を見極めるように促し続けなければならないと思います。

*LINE
チャット型SNSであり、高校生にとっていちばん身近なものと言えます。数年前のデータになりますが高校生の LINE の利用率は九五%を超えていました。しかし、現在は八三%となっています。何故利用率が減少したのかは分かりませんが、おそらく若者のLINE使用の疲れやトラブル影響があるのではないかと思います。学校によっては生徒に使用を控えるように指導するところもあります。

*Twitter
匿名性が高く、一四〇文字という限られた文字数で「つぶやき」を投稿をします。拡散型SNSであり、不特定多数の情報を手に入れたり、不特定多数の人に情報を伝えることができます。

*Facebook
基本的に実名で登録をし、写真投稿や近況報告など、「リアルな友達」に向けての投稿が多いようです。十代の利用者は少ないですが、クリスチャンの登録者は多いように感じます。

*Instagram
二〇一四年に日本語版が公開されてから、十~二十代の若者の間に爆発的な流行をもたらしました。写真投稿が基本のSNSです。「インスタ映え」ということばも生まれました。比較的若い世代が使用し、文章もなくハッシュタグ(検索機能)のみの投稿が可能なため若者から商業広告まで使用されています。

*YouTube
正確には動画共有サイトであり、SNSのようなコミュニティーを中心としたものではないため、SNSとは呼ばれません。しかし、現代の高校生にとって、YouTubeは娯楽の一つとしてhi-b.a.の高校生の七七%が利用しています。YouTuberという新たな職業も生まれています。

hi-b.a.に来ている高校生を対象に行ったアンケートでは、SNSを普段利用しないと言う高校生はほぼいない状況です。デジタルネイティブということばがあるように、彼らは物心ついた時から、インターネットやパソコンが身近にある環境で育ってきた世代です。現在の高校生にとって、YouTube、Instagram、LINEは今や生活の一部であり、彼らはこれらの中で自分を表現し評価を得ようとしています。
そのやり取りは途切れることがなく、このことによりさまざまな情報交換がリアルタイムに行われるようになります。また、流行りが移り変わるスピードも早く、さまざまな可能性と危険性が生み出されているように思います。今後の課題としてはルール作り(マナー)が必要でしょう。
しかし、覚えておきたいことは、SNS自体は悪いものではなく、使う側の人間の罪が、便利なツールを悪質なものに変えているのです。効果的な使い方を見つけることができれば、福音を大勢の人々に迅速に伝えることができる可能性があるのです。

中高科の担当者のサポートの必要

以前セミナーの依頼をされた教会で、「ユース伝道の極意」というタイトルが掲げられていたことがあります。しかし、「こうすれば必ず成功します」という方程式はありません。新しい試みをしても、すぐに多くの若者たちが救われていくということは起こらないでしょう。ほとんどの場合、救われる魂が起こされ、信仰の成長の実が見えるまでには時間がかかります。常に、より効果的な伝道方法を模索し、チャレンジし続ける努力が必要です。
私たちは、伝道のためのさまざまなすばらしい手法や成功例を耳にしますが、必ずしもその手法が各教会に適合するとは限りません。なぜなら、各教会や地域で状況は異なり、与えられている人材や環境によっても伝道の方法は変わってくるからです。
それぞれの地域に合ったミニストリーの形を、時間をかけて考え、何から取り組むべきなのかを見つけていく必要があります。無理に成功例を当てはめるならば、形の違うパズルのピースを強引にはめ込むようなことになり、必ず不具合が生じてきます。また、仮に、スタートができたとしてもトラブルなどの問題や課題に対して、チームワークをもって対応することができなくなり、働きの実が実る前に空中分解するケースもあります。
中高生と年齢の近い者が実務を担当したら良いのかもしれませんが、「もう歳だから後は若い人たちでやってね」「あとは君たちの時代だ!」というような丸投げの場合、ほとんど活動は継続的に機能しません。
凝り固まった個人的な価値観を、担当者に押しつけ続けるよりはよいかもしれませんが、担当者に任せた後に、さまざまなトラブルが起こると、失敗や不十分なところばかりが目につき、「任せられない!」と言ってバトンを取り返してしまうのです。もしくは重箱の隅をつつき続けるような指導をしてしまい、若い担当者に嫌われるだけの結果になりかねません。
まず、中高生に信仰を伝えるためには、その担当者を支えるサポートと、担当者自身が成長できる体制を提供しなければなりません。サポートとは責任をともにすることであり、時としてその人の盾となる必要もあります。そうでなければ中高生の信仰の成長に力を注ぐことが非常に難しくなってしまうのです。

中高生が理解できるようにみことばを語る

聖書のことばを伝えることは簡単ではありません。新約聖書は約二千年前、旧約であればそれ以上前の古代の文章を、真理であり事実であるとして若者に伝えることは、想像しただけで難しいことがわかります。時代という相当なギャップを埋めなければなりません。しかしながら、彼らに媚びるようなサービス満点の話にする必要もないと思います。「ただ感情をあおるだけのようなメッセージ」や、「心をつかむだけのメッセージ」では霊的な成長は望めません。感情を満たすメッセージは感情を満たし、知識を満たすメッセージは知識を満たします。必要なことは中高生の心をつかもうとするだけではなく、みこころであるみことばに実際に歩ませることだと思います。
さまざまな伝道の方法があり、また若者文化が急速に移り変わる中でも、一貫してできることは、変わることのないみことばの学びです。中高生の年齢は十三~十八歳ですが、彼らは生き方を模索し、命や自己価値について考え始めているので、みことばの学びは彼らの心に大きなインパクトを与えるのです。ただし気をつけなければならないことは、相手が理解できることばで語るとともに、彼らの将来を見据えて、五年後、十年後に彼らが高校卒業後どのような誘惑(男女関係・飲み会など)を受け、社会人として想定される信仰の戦い(礼拝を守るなど)をどのように生きるべきなのかを、具体的に伝える、ということです。
神の愛や信仰の励ましのメッセージはとても大切ですが、それだけではなく、将来もみことばに歩み続けることを伝える必要があるのです。
そして、みことばを伝えるときには相手の目線で語ることが必要です。一方的に「教えてあげよう」という「上から目線」のメッセージは苦痛です。説教は「お説教」ではありませんので、相手の目線に立って、自分がみことばから教えられたことを伝えることが有効だと感じます。
私はメッセージの開始四分が大切だと思っています。この四分でできるだけ今日のメッセージの必要性と重要性を伝えています。私の感覚では、高校生が話を聞く価値があるかないかを決めるのは、話し始めの数分以内です。この数分でいかに「このメッセージはあなたにとって重要、かつ実用的なのか」を伝える必要があると思います。
ですので、ほとんどの場合メッセージのいちばん大切な部分である「結論」から話します。
その目的は、大切なポイントを中高生が集中できているうちに伝えておきたいからです。また、結論を最初に伝えておくことで、メッセージの全体を相手が理解しやすくなります。さまざまなことを話しても、彼らの頭の中で結論につながっていきます。
みことばからメッセージのコンセプトを決め、自分自身が教えられたこと、何を最も伝えたいのか結論を簡潔にまとめ、わかりやすく魅力的に伝えるようにしています。中高校生の中には、教会から離れようとしている子が多くいます。ですので、できるだけ早い段階でみことばの価値と、その効果を語ります。
メッセージを聞かない中高生の中には、そもそも聖書に興味がない、関心がないという子もいます。この壁を乗り越えるのはなかなか困難ですが、彼らが直面している事柄を把握して、「みことばの実際的な適用」を伝えるならば、彼らは「自分のこと」としてみことばを聴き始めます。それぞれの信仰には差がありますが、現代の中高生がみことばを必要とする思いは強くなっていると思います。
中高生の時代には、多くの人が共通して経験する悩みがあります。死と命について、自分の価値について、進路や人間関係、結婚観、本当の愛についてなどです。聖書はその問いに関してはっきりと真理の答えをもっているのです。たとえ聖書に興味がなくても、彼らが今直面している問題を通してみことばを伝えるときに、彼らがメッセージに興味を示す可能性があります。
中高生がメッセージを聞かないのは、みことばが自分の人生にインパクトを与えることに気づいていないからでしょう。メッセンジャーはこのような土俵に立っていることを覚える必要があります。

聖書からの男女関係・性・結婚観の学びは必須

学校で行われている性教育は聖書の教えとかけ離れています。「性行為をするときには、避妊具を使いましょう」というだけの学校の性教育に中高生を任せっぱなしにしては危険です。それでは完全に性病のリスクは回避できませんし、そもそも夫婦に与えられている性の祝福とはかけ離れている教育です。中高生の頃に(中高生世代だけではありませんが)性衝動をコントロールする自制の時期があってこそ、その経験が結婚後の夫婦生活に生かされるのです。
中高生にとっては聖書の考えは時代遅れで、古いもののようにとらえる場合もありますが、結果的にさまざま感染症や妊娠のリスクから中高生を守り、結婚の祝福を与えるでしょう。このトピックは話しにくいと感じるかもしれませんが、私たちが彼らに伝えなければ世の中の性教育が彼らのお手本になってしまうのです。彼らに対して年に二、三回は性、そして結婚観の学びをする必要があります。でなければ、教会の中高科の子どもでさえ乱れる可能性があります。
ただ一方的に聖書の価値観を伝えるのではなく、グループディスカッションを通して消化し、彼ら自身がどのようにして誘惑から守られるかを決めてもらい、励まし合って実行に移すように促すことが大切です。自分たちで決めたことを協力して守っていく、そのような枠組みができれば、彼らが励まし合って誘惑から離れていく、そのようなグループに成長していきます。

受験期でも優先順位を変えない

受験期は親も悩む時期だと思います。模試が日曜日に行われることもありますし、成績が落ち続ければ、第一志望の学校に入れなくなることを心配するでしょう。勉強に集中する必要がある時期には、たとえ一時的であっても「今は神様よりも受験、今は信仰よりも偏差値」と優先順位を変更するのではなく、親は、子どもが信仰をもって勉強するように励ます必要があります。
受験の時期は皆そのことで頭がいっぱいですが、第一志望の大学・高校に合格することにゴールが強く置かれすぎていると思います。信仰は生き方ですので、一定期間であっても優先順位を変更してしまうならば、子どもの頃から大切にしてきた神よりも優先すべきものがあると勘違いさせてしまうのです。
場合によっては長い間大切にしてきた価値観が変更されてしまい、第一志望の学校に入ることができても、「本当に大切なものは何だったのだろうか」と生き方そのものに混乱をもたらす場合があります。この状態は深刻で、第一志望の学校に入学したものの学校に行かなくなってしまったり、さらにその先、仕事をする意味を見いだせなくなることもあります。しかし、受験期に信仰をもって勉強するならば、受験期においても価値観は変更されず、学んだ知識は将来、神のために用いられて、多くの人々の益となると確信をもつことができるのです。
礼拝前に模試がある時などは時間があればテストに行く前に牧師先生に祈ってもらったり、時間的に難しければ、みことばを開き祈るだけでも神を第一としている理解が深まると思います。

部活動との両立という課題

中高生になると部活動と信仰生活の両立という課題が出てきます。礼拝の時間に練習や試合の時間が重なってきます。部活から得られる良い面もたくさんありますが、礼拝と信仰生活を第一に考えて部活を選ぶ必要があると思います。部活は選び方によっては、ずいぶんと融通の利くものもあるように思います。たとえば団体競技の場合、礼拝の時間を優先して練習を休むならば、メンバーが欠けてチームの練習ができなくなる可能性があります。また、休んだことにより他のチームメンバーが不満に思い、いじめを受けるケースもあります。それに対し個人競技を選ぶならば比較的しがらみも少なく、礼拝を優先させながら部活動を行うことができる可能性は高くなります。
部活動に力を入れている学校も少なくありませんので、部活動に専念している中高生のための信仰のケアが必要と思います。中高生のために練習前に礼拝をもったり、試合前に特別に祈る教会もあるようです。中には伝統的に剣道部を選ぶ教会もありました。剣道は個人競技ですので、礼拝の時間を守り、その後に練習に出ても差し支えはないという判断でした(もちろん、学校によって違いがあると思います)。また、今週のみことばを暗唱してから部活に行く中高生もいました。本来は礼拝のためにすべてを休ませることがベストではありますが、家庭の事情や中高生の状態をよく見て、時に適った信仰継承のアプローチをすることが大切だと思います。
中高生の中には、礼拝を第一優先にできないことで葛藤を覚えている子もいますので、彼らの気持ちを受け止めて、信仰を励ます必要があります。目に見えない空気感を非常に気にする年頃ですので、否定的な態度ではなく、部活動も応援しているという気持ちを表すことが信仰の励ましにつながっていきます。
これは私の考えとしては、安息日は大切なものですが、第一にできなかったという罪悪感を与え過ぎてしまうと、かえって自分を責め、信仰から離れてしまうので、小さな工夫をしながら優先順位を神に定め続けるよう意識づけが大切だと思います。

信頼関係の構築を優先する

「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」(ヤコブの手紙一章一九節)。
中高生に信仰を伝えるときに必ず必要なことは、まず語る前に聞くことだと思います。ただ聞くのではなく相手を理解するために傾聴するのです。また、相手を理解することだけがゴールではなく相手に「理解してもらっている」と感じてもらうことも大切な要素なのです。
「中高生と話す話題がない!」と困っていると質問されることが多くありますが、私たちが相手の言葉に親身になって耳を傾けさえすれば話題がなくても大丈夫なのです。「教えてやろう」と思い、語り続けるなら、かえって若者たちは離れていくでしょう。

関わることの大切さ

中高生の文化を知り、慣れる必要があります。 一緒になって遊ぶという意味ではなく、少なくとも「関わりを避けないこと」が大切です。むしろ、関わる努力をする必要があるでしょう。話題がなければ相手の話に耳を傾ければよいのです。彼らの中に入って行動を共にすることはなかなか大変ですが、彼らが何を見ているのか、何を考えているのかを知り、信頼関係を作るものでありたいのです。
信仰継承をするにあたって必要なアプローチは、彼ら自身が安心できる居場所をつくることだと思います。現在、心の居場所を失っている中高生が多くいます。しかし、もし私たちが彼らの身近な存在になるならば、それが居場所となるのです。関わり方によっては短期間での信頼関係の構築は可能です。何より彼らのことばに耳を傾け続けることが必要なプロセスだと思っています。必要なことは傾聴と励ましで、ありのままが受け入れられている安心感を与えることができます。
大切なことは、こちら側が話を理解した、ではなく、相手側が理解してもらっていると感じているかどうかなのです。大前提として相手の話を遮らず、話を聞くときは少なくとも否定的な表情や、「でもね、これはこうだよね」などと、決めつけるような返答はしないことです。
たとえ正しい答えを伝えていたとしても、否定されていると相手に感じさせてしまったり、「言われなくてもわかっているよ!」と心の中で反発させてしまったりします。そうなってしまうと、その関係はつながりや絆には至らないのです。
相手のすべてを肯定することは不可能だと思います。ただ中高生と関わるうえで、「自分を受け入れてもらっている」、と感じさせることがポイントであり、信頼関係の構築のスピードを上げることになると思います。傾聴を通して信頼関係のベースが築かれていなければ、褒めてもしかっても効果はなく、また、どのような集会を企画したとしても中高生は、いずれ去っていってしまうでしょう。なぜなら、彼らにとって心のつながりがなく、ありのままでいられる居場所になっていないからです。
現在では、中高生が教会で一人という場合も多く、教会の中で孤独感を感じていることがありますので、いち早く私たちが彼らの身近な存在(居場所)になる必要があります。
「鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる」(箴言二七章一七節)とあるように同世代の集まりは互いに切磋琢磨させ、信仰の成長を与えます。現在はそのような場所がない中高生が多くいますので、私たちは彼らがともに集まる場所を提供しなければなりません。

注意を与えるときには

中高生と関わる中で、注意や促しの必要も出てきます。彼らを正しい方向に導くことが大切ですが、上から教えることよりも次の一歩をともに考え、寄り添う存在が必要だと思います。はっきりと問題点を指摘すると同時に、聖書的な選択をする主体性を育てる必要があります。
私が気をつけていることですが、問題点を指摘するときには「ダメ」「良い」「悪い」というような断定的なことばを避けています。というのは断定することばは相手に心を閉ざさせてしまう可能性が高いからです。
そのうえ、こちら側の注意している内容の説明が足りない場合も多くあります。ですので、問題についてこれこれこういう理由で「好きです」「嫌いです」「心配です」というアイメッセージ(私メッセージ=「私」を主語にして、自分自身がどう感じているかという思いを語ること)を使用します。完全なアプローチではありませんが、これは相手に心を閉ざさせず、こちらが考えている危機感を伝えることができるのです。
覚えておきたいことは、たとえ厳しいことばで半強制的に正しい方向を向かせることができたとしても、中高生になれば自分自身で関わる相手を自由に選べるので、私たちを関わる必要のない相手と判断すれば、ただ去って行ってしまうということです。正しい方向を、アイメッセージで伝えることは簡単なことではなく、訓練が必要です。
また、注意点を指摘するときに気をつけなければならないのは、相手に完璧を求めないことです。自分自身が完璧な存在ではないのに、相手に完璧を求めることは滑稽ではないでしょうか。また、批判をしても相手が変わることはほぼありません。おそらくその人は去って行き、陰口を言われるだけの関係が誕生するでしょう。

悩みを相談されたときには

中高生が悩みを口にするときは張り詰めた気持ちでいますので、新たな考え方を取り入れることができません。心の重荷を下ろせるように、傾聴し、悩みを共感する必要があります。話していることばで曖昧な部分(ムカついた・気まずい・最悪などは何を指しているのか確認が必要です)があればその意味を確認し、問題を明確にしていくのです。
時として悪態を吐くようなこともありますが、驚かずに傾聴を続けるならば、重荷は下りていきます。その場では解決が見つからなかったとしても、心が落ち着き、再び前向きに考えることができるのです。
ですので、悩みを相談されたときは、良いアドバイスをしようと焦らず、答えが思いついたとしても語らず、傾聴のなかで、共感共有を意識させることばを使いましょう。
気をつけなければならないことは、アドバイスを与えなければいけないと思い、新たに重荷を負わせてしまうような指示をしてしまうことです。
また、抱えている問題について質問することによって時系列を確認し、曖昧なことばを明確化させ、本人に今後、どうしていきたいのかを聞く必要があります。悩んでいる中高生が心の重荷を下ろすことができたならば、今度はこちらのことばに耳を傾ける余裕ができるでしょう。信頼関係の構築は、関わる相手の心に居場所をつくり、安心感は信仰の成長へとつながるのです。

ビジョンと宣教戦略を立てる

日本の多くの教会にはよく学ぶ勤勉さがありますが、「将来的にどのような教会になりたいのか」というビジョンや目標を具体的に答えられる教会は少ないかもしれません。
各教会には違いがあり、各地域で状況が異なります。教会の人数やそこに集まる人々の賜物も異なり、与えられている人材と置かれている状況の中で、取り組む課題も変わってくるでしょう。それぞれの各地域に置かれている教会で、個別・具体的に検討する必要があります。
ビジョン(理想と目標)を定め、それぞれ置かれている場所でどのように成長していきたいのか、教会の将来像を思い描く必要があります。現状維持は結果的に衰退してしまうので、宣教の働きをより具体的に進めるためには、明確なゴール(将来はこのようになりたいという理想)を設定し、実現可能な短期の目標を定めるべきだと思います。
そのことによって、企画した集会が打ち上げ花火的なイベントではなく、また、単にこれまでやってきたので今年も行う、ということでもなく、一つ一つの活動が目標に向かって積み上がっていくのです。明確な目標をもっているか否かでは、たとえ、ほぼ例年通りの活動であっても、数年後に大きな違いが生じるでしょう。
もちろん、ビジョンといっても宣教の主権は神にあり、私たちの願望だけで宣教計画を前進させていくわけではありません。しかし、ヨシュアがカナンの地を攻略していったように、具体的に計画を立てて行動する必要があります。ヨシュア記一章二節で、神は「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け」と語られました。この「立って、渡って、行け」という命令は大きなチャレンジで、四十年前に民が逆らったことで保留になっていた約束の地への入植(民数記一四章三四、三五節)が再スタートしたのです。
モーセが導いたイスラエルの民は非常に頑固で、文句が多く、立ち上がらせるだけでも非常に難しい民でした。ヨシュアは民を導くことが簡単ではないことを知っていたでしょう。それに加えて、この頃は刈り入れ時でヨルダン川の水量が非常に多く、渡ることが困難だったのです(ヨシュア記三章一五節)。しかし、彼は三日の後に民を出発させています(同一章一一節参照)。
ヨシュアのように、うまくいくかどうかわからないことにチャレンジしていくときにこそ、信仰が必要です。ヨシュアとカレブがカナン攻略に踏み切ろうとした時と同じく、「もし主が私たちを喜んでおられるなら(新改訳第三版は「もし、私たちが主の御心にかなえば」)、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる」(民数記一四章八節)という思いが大切なのです。
もし、ヨシュアが恐れてカナンの地の攻略を先延ばしにするならば、同じところに留まることになってしまったのではないでしょうか。
また、具体的な宣教戦略を立てることは、「すべてを新しくすればいい」という考えではなく、今まで大切にしてきた活動の重要性を見つけて、さらに磨きをかけ、あるべき将来像に近づけていくことです。これは古いものをやめるという意味ではなく、なぜ今まで行ってきたのか、その理由と本質を確認したうえで、意味や効果のなかった伝統や習慣は大胆に見直すべきだと感じます。
中には新しい取り組みも含まれるかもしれませんが、必要であれば自ら学び、自分自身がスキルアップする必要があります。指導者がスキルアップするならば次の世代に質の高い宣教方法を伝えることができるのです。しかし、それがなければすべての活動は古くなり、現代の人々の感覚とかけ離れたアプローチをしてしまうのです。私たちはこの世と歩調を合わせるべきではありませんが、この世の人々に対して賢くアプローチをしていく必要があります。
私たちは神の働きに参画しています。私たちが置かれている地域や働きのうちに、現実的に神の国がどのようにして現れるべきなのかを考え、祈り、計画を立て、信仰をもって行動していきたいと思います。

信仰継承は神の国の建設

イエスは宣教活動を開始する時に、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイの福音書四章一七節)と語られました。覚えておきたいことは、イエスはここで、「わたしを信じて悔い改めたら死んだ後に天国に行けます」と言ったのではなく、「神の国は今ここに来ているのだから、向きを変えて、神のもとに帰りなさい」と言っていることです。
またイエスは、弟子たちに教えた祈り(主の祈り)の中でも、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(同六章一〇節)と語っています。これら二つのことばを合わせて考えると、悔い改めて神と和解した者たちが、天にある喜びと祝福を、主と共に地上にもたらしていくということではないでしょうか。
私たちの信仰生活は、天国行きの待合室に座っているようなものではありません。救いを受けた「神の民」として、大胆に行動し、次世代に信仰を継承し、地上に「神の国を建て上げていく」のです。
「行動」や「行い」ということばに違和感を感じる方がいるかもしれません。確かに、私たちは行動や行いではなく信仰によって恵みのゆえに救われました。しかし、ここでの行動の必要性とは、「救われた者としてどう生きるか」「福音を受けた者としてどのように生きるか」という点においてです。また、神に認められ、愛されるために行動するのでもありません。私たちの存在は高価で尊い神の宝であり、すでに神から大いに認められている存在です。行いによって価値が決まるわけではありませんし、認められるために行動する必要もありません。ではなぜ、宣教戦略を立て、懸命にさまざまなことに取り組んでいくのかというと、すべては神に対する愛ゆえであり、隣人に仕える思いが動機なのです。
行いによって義を勝ち取ろうとする律法主義的な歩みとしてではなく、私たちは神と人への愛に押し出され、神への信頼をもって信仰を伝えていく者でありたいと思うのです。信仰は行動を通して実は目に見えるものなのです。神の利益のため、次の世代に信仰を継承するために自己犠牲を惜しまない者となる必要があります。

受け入れ体制を整える

では、何をすればよいのでしょうか。中高生が集まる集会を開けばよいのでしょうか。よく聞かれる質問に、「どのような企画が中高生にウケますか」とか「みんなが楽しめるゲームはありますか」といったものがあります。集会を企画し、内容を絶えず工夫することはとても大切ですが、その前に中高生を受け入れる準備をする必要があります。
信仰継承への取り組みを教会、もしくは教団の方針として定め、担当者を全体でサポートするのです。なぜその必要があるかというと、ミニストリーが進んでいく中で、さまざまな問題が発生するからです。問題は必ずしも外側からだけではなく、教会の中からも発生します。「中高生が多く集まってうれしいけれども、ギターがうるさい」「このスタイルは教会の方針に合わない」「新しい中高生よりも、うちの子(信徒の子)のケアを優先してほしい」など、さまざまな意見が出てきます。
それらを謙虚に受け止めつつ、信仰継承の必要性を愛をもって教会員に説明し、理解と協力を得る必要があります。しかし、このような声への対応を担当者に任せてしまうと、ミニストリーを進める前に彼らが意見の板挟みになって、活動に注ぐ力が削られてしまいます。いつの間にか信仰継承の責任が担当者任せにならないよう、教会全体と特に中高生の保護者(教会に含まれますが)の理解と協力が必要です。
そして、中高生に関わる担当者がその働きに集中し、力を注ぐことができるように、「ご意見・ご要望」や問題に対しては教会や教団全体でフォローする必要があるのです。
地域に置かれている一つ一つの教会には、神のまなざしと多くの祈りが注がれています。現在、キリスト教会は少子高齢化の影響も受けて縮小傾向にあり、中高生も少なくなっています。ですから中高生クリスチャンが同世代どうしで信仰を励まし合う場所をいち早く作っていくことが必要です。ただの居場所ではなく、中高生が福音に触れ、みことばに生きるように導くことのできる居場所です。教会は世の中に当たり前のように蔓延している危険や誘惑から中高生を守ることのできる最高の居場所なのです。
そして、教会に彼らが活躍できるような奉仕の機会を提供する必要があります。教会の中に中高生の活躍の場を作ることができるならば、それが彼らの居場所となるのです。いくつかの教会の例ですが、礼拝の中で彼らが貢献できる工夫がされているケースがありました。ある教会では献金当番を中高生が担当していたり、パワーポイントを使用する際に会堂の電気を消す係であったり、礼拝後に祈祷課題をシェアするマイクを運ぶ役割を任されていました。その教会では、今日のマイク当番は「〇〇ちゃんでした」と皆の前で発表し、感謝の拍手をしていました。幼い頃から礼拝奉仕に参画させることは信仰継承にとって大切な要素だと思います。
さらに、今後は現代の中高生が心を注ぎ出すことのできる賛美のスタイルを追求する必要があると思います。中高生の好みに合わせた賛美や集会は、大人からすると厳かさに欠け、軽いもののように感じるかもしれませんが、必ずしも聖書の教えから逸脱しているわけではありません。中高生も、居心地のよさや楽しさだけを求めているわけではなく、賛美やみことばに表された福音を求めています。
中には賛美リーダーに憧れて自分もやってみたいという志願者も出てくる可能性があります。彼らの中には楽しい、かっこいいというイメージしかない場合もあるので、その意欲を汲みつつ、しっかりと献身者としての心構えを伝える必要があります。
彼らは成熟していませんので、失敗しますし、誘惑にも負けやすいともいえます。未熟な部分が多く見えてしまうでしょうが、何も任せないという決断をするのではなく、失敗してもよい余地を残しつつ、サポートし「育てていく」姿勢と枠組みが必要です。失敗されることを恐れて何もさせないことが大きな失敗なのです。
中高生だけではないと思いますが、育てる意識が欠乏すると、重箱の隅をつつくような指摘をし続け、すぐに「この人はわかっていない」という結論にいたってしまうので、気をつけなければいけません。働きの現場に出ていない中高生や青年が社会的なことをわかっていないのは当たり前のことなのです。ですので、私たちは愛と忍耐をもって教育する必要があります。
中高生のために、教会として予算をとっておくことも大切です。さまざまな家庭の子どもたちがキャンプに参加できるための経済的な援助や、年間の伝道集会の諸経費、彼らが奏楽するための楽器の費用も必要かもしれません。
教会の中でのCSの活動費の平均予算は三%と言われており、決して多いとは言えません。議論した上で三%だとしたらそれで十分な活動が賄えると信じます。高い費用を投資すれば伝道集会が成功するとは思えませんし、素晴らしい楽器や機材を用いれば信仰継承がうまくいくわけでもありません。必要なことは祈りであり信仰です。しかし、ここでお伝えしたいことはただCSの予算額を上げればよいと言うことではなく、信仰継承のために必要を議論したうえで出てきた三%なのかということです。
信仰継承を具体的に計画していくとき、それにかかる費用も発生するのです。「来年も今年と同額でよいだろう」という予算の立て方ではなく、信仰をもって将来どのような教会になっていたいのか明確な目標をかかげ、中高生に信仰を継承するために、何が必要で、どんな働きをしたらよいのか、それにいくら必要なのかを常に吟味するならば、たとえ予算額が変わらなかったとしても、活動に違いが出てくるでしょう。
小学科の参加人数から見ると中高科の生徒数は半分以下になってしまう傾向にあります。これはとても残念なことでなんとかしなければいけません。克服することは簡単なことではありませんが、信仰をもって行動すれば少しずつ実は実るのです。

救いの拠点

そこに教会があること自体が神の奇跡だと思います。日本の教会は多くの迫害を乗り越えてきました。現在はキリスト教会も少子高齢化の影響も受けて、縮小傾向にあり、教会から中高生の姿が少なくなってきています。ですから中高生クリスチャンが同世代同士で信仰を励まし合う場所をいち早く作っていくことが必要です。ただの居場所ではなく、中高生が福音に触れ、みことばに生きるように導くことのできる居場所です。教会は世の中に当たり前のように蔓延している危険や誘惑から中高生を守ることのできる最高の居場所なのです。
宣教戦略は偶然に与えられるものではなく、話し合い、祈り合う中で、主から与えられるものです。その地域に合った中高生のための働きのかたちが必ずあるはずです。できることから取り組むならば、一つ一つの課題を、想像していたよりも楽に主の導きによって乗り越えて行くことができるでしょう。今、置かれている中での見方一つ、考え方一つ、信仰のもち方一つで状況が変わるのです。
コリント人への手紙第一、九章二六節に「ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません」とあります。空を打つような拳闘をしないとパウロが言っているように、目標という基準を定めなければ、今年度の活動がどれだけ効果があり、どれだけ空を打ったのかを測ることすらできないのです。
最も残念なことは、失敗を恐れて一歩も踏み出さないことです。大変だからと言ってチャレンジしないことが何よりも大失敗です。
うまくいかないことのほうが多いかもしれません。しかし、一歩踏み出していくときに、そんな状況を変えてしまう主の助けを経験します。それはまるで、私たちが一歩踏み出すことを主が待っておられたかのような助けなのです。もし失敗と感じたら、無理に推し進めることなく修正すればいいのです。成功と感じたらそれを進めるのです。私たちは次世代に何を残すのかをよく考え、議論し、「走りながら考え、考えながら修正する」必要があるのではないでしょうか。

おわりに

みなさんの近くには、一声かければ助かる命があります。自分の本当の価値を知らない中高生があまりにもたくさんいます。
「神はあなたを愛している」「あなたは高価で尊い存在」というような、私たちが日頃から当たり前のように聞いている一言でも、初めて触れて涙を流す人もいるのです。また、何も語らなくても相手の話に耳を傾けるだけで、「どうして話を聞いてくれるんですか?」と大きな励ましを受ける人さえいます。神のことばを必要としている人は大勢います。その一人一人にいち早く福音を届けたいのです。中高生はキリストを必要としているのです。
そして、ゆくゆくは日本の隅々にまで福音が届き、その影響が日本全体を覆うように具体的な宣教計画を立て、実行していきたいと思います。中高生を祝福し、成長させるのは福音です。それと同じように、日本を祝福するものは、経済でも政治でもなく、福音なのです。神のことばを中高生の心に届け、日本の全地域に神の国を浸透させていきたいと思います。
なぜクリスチャンが減少している日本に私たちが置かれているのかを、ぜひ考えてみてください。取り組まなければならない課題は多く、現状は厳しいですが、目の前にいる中高生に信仰を伝えられるのは、その世代と共に生きる私たちだけなのです。不可能のない主と共に、懸命に信仰を伝える者でありたいと思います。
「万軍の主の熱心がこれを成し遂げる」(イザヤ書九章七節)。

川口竜太郎 

目次

はじめに

1章 信仰継承は急務だからこそ慎重に
教職者の高齢化と中高生の減少/集めることよりも育てることを/私たちは祈られている

2章 彼らの見ている景色~中高生の現状~
恵みが重荷に/彼らの可能性/信頼できる親友がいない/低いセルフイメージの弊害/健全な自己理解/自己理解への回答として/いじめ/複雑な家庭環境/悩み、反発する

3章 中高生とSNS
SNSの時代~オンラインに生きる/SNS使用の指導・注意点として/SNSやゲームは禁止にするべきか/宣教のツールとしてのSNS/超情報化社会の中で

4章 信仰の伝え方、中高生との接し方
中高科の担当者のサポートの必要/中高生が理解できるようにみことばを語る/聖書からの男女関係・性・結婚観の学びは必須/受験期でも優先順位を変えない/部活動との両立という課題/信頼関係の構築を優先する/関わることの大切さ/注意を与えるときには/悩みを相談されたときには

5章 教会は地域の救いの拠点
ビジョンと宣教戦略を立てる/信仰継承は神の国の建設/受け入れ体制を整える/救いの拠点

おわりに

中高生に信仰を伝えるために
高校生聖書伝道協会(hi-b.a.)代表スタッフ 川口竜太郎 1000円 B6判 96頁 三方断ちアジロ