《試し読み》『職場と信仰―不当な要求を受けたとき』
高橋秀典(たかはし・ひでのり)
1953年北海道大雪山のふもとで誕生。北海道大学経済学部卒業、在学中の米国交換留学中に信仰告白。1976―86年、野村證券株式会社勤務。同社派遣でドイツ・ケルン大学留学、フランクフルト支社勤務。1989年、聖書宣教会聖書神学舎卒業。東京都立川市で開拓伝道。現在、立川福音自由教会牧師。
はじめに
二〇二〇年春の新型コロナウイルス危機によって、世界経済は一九二九年の世界大恐慌以来の不況に陥っているとも言われます。あの大恐慌から世界は第二次世界大戦の破滅に向かいました。今は情報網が決定的に異なりますから、昔のような自国中心主義のブロック経済によって互いを追い詰めるようなことにはならないと期待はできます。また株価の動向を見る限り、多くの人々はそれほど悲観的なシナリオを描いているわけではないとも思われます。

高橋秀典 著
上司から課せられる〝不当な要求〟にどう対応するか、理想と現実のはざまをどう生きるか、「献身」とは何か……迷いと葛藤のただなかにある社会人に、過酷なノルマを課されながら営業マンとして働いた経験をもとに、聖書をひもときながらアドバイスする。
ただし、今回のコロナショックで働き方の変化が急速に起きており、将来この変化に適応できる人と、できない人の格差は広がってくることでしょう。それぞれの職場もある意味で、生き残りをかけて、就業者への要求を強めざるを得なくなります。そこでは以前のようなパワハラは起きないとしても、一人ひとりへの〝不当な要求〟が強められる可能性があります。職場が危機(ピンチ)を機会(チャンス)に変えられるかどうかは、そこにいる一人ひとりの働きにかかっているからです。
それにしても多くの信仰者は、自分の回心を語る際、「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」(エペソ2・1、2)という状態から救い出されたと語ります。ただそれは、未信者の職場の上司も同僚もサタンと悪霊の支配下にあると言っていることかもしれません。ですから、職場に理想を求めること自体が、神学的には無理であるとも言えましょう。それでいながら、自分が抱いている理想の基準で、職場を断罪するとしたら、それはもともと不可能を要求していることになります。
ところが私たちは、信者、未信者を問わず「神のかたち」に創造されているので、多くの面で道徳律を共有することができます。だからこそ、信仰を超えた協力関係が生まれます。つまり、信仰者はこの世界で神にある理想を追い求めながらも、同時に、世界が弱肉強食の論理で動く面があるという現実をそのまま受け入れるしかないのです。俗世間のしがらみから自由になる出家的な生き方を、神は私たちに望んではおられません。一年後に自分の職場が残っているかどうかは、誰にも断言できません。私たちはそのような大きな社会変革のただ中に置かれています。以下に、個人的な体験から、それぞれの職場でどのように理想と現実の狭間で生きるかを共に考えることができればと願っております。一見、大昔のことを語っているように見えるかもしれませんが、そこに時代を超えた現実をお読みいただけるなら幸いです。
入社三日目で、「飛び込み営業」の研修を受けたとき、「(職業選択に関する)神のみこころを読み間違えてしまった。僕の人生は、これからどうなるのだろう……」と暗い気持ちになりました。それは一九七六年の頃、終身雇用をベースに会社選択を考えるのが当然の時代でした。しかも、最初の三年間は、まったく新しい顧客をゼロから開拓するのが務めでした。電話や訪問自体が、ほとんどの相手にとっては迷惑なことです。しかも、株式投資をする顧客になっていただいても、ご迷惑をおかけすることが多くあります。熱く薦めた株式の値段が下がるのは日常茶飯事だからです。しかも、こちらにとって最高のお客は、証券会社からの融資を受けて短期売買(信用取引)をしてくれる方で、それはまさにギャンブルとしか思えませんでした。会社の同僚とは、「俺たちの仕事の場は、所詮、資本主義のごみ溜めに過ぎない」と自嘲気味に語り合っていました。
新入社員にとっての最大の務めは、投資信託販売のノルマを達成することでした。最近になって、ゆうちょ銀行の投資信託不適切販売のことが話題になりましたが、当時の投資信託の販売手数料は現在よりはるかに高く、しかも証券会社にとっては、投信委託という子会社に預けられたお金の運用で株式や債券投資の手数料が入り続けるので、これほど「おいしい話」はありません。そのため、販売ノルマを達成するための締め付けは驚くほど厳しくなります。成績を出せない社員は、人間扱いされません。しかも、運用実績を見ていただく間もなく、次々と新規の顧客を開拓しなければノルマを達成することはできません。しかもノルマを果たすことができれば、さらに高いノルマが次に課せられるのが常です。どこまで行っても終わりがありません。まさに、「〝不当な要求〟を受けつつ生きるのが営業職」と言えましょう。
私は、そのような職場にいながら、「こんな仕事に何の意味があるのか?」と悩み続けていました。私の場合は、「こんな仕事は、もうやってられない……」と思った時期に、ドイツへの二年間の社費留学の道が開かれて、合計十年間、職場に在籍することができました。
この社会には様々な営業職があります。今も、通信回線管理会社からの乗り換えの勧めの電話を受けながら、「この営業担当者も、過大なノルマの達成に苦しんでいるのだろうな……」と同情を覚えることがあります。昔は「親方日の丸」と、悠然と構えていればよかった郵便局職員の方々でさえも、ノルマ達成のために良心に反する仕事をしなければならないという現実があります。しばしば、キリスト教会のメッセージでは、「このような仕事の矛盾は、社会全体が神のみこころに反する形で動いているからだ……」と、評論家的なことが語られることがあるかもしれませんが、目の前のノルマ達成に悪戦苦闘している人に、「それが何の慰めになるのか……」と思ってしまいます。
このような問題は、個人顧客の開拓に関わる営業の場ばかりか、そのような営業実績と無関係な官公庁の仕事にも起きます。以前、牛海綿状脳症(BSE)の危機が騒がれた際に、「全ての牛は、と畜場において、食用に適しているかどうか、と畜検査員(獣医師)による検査を受けています」という形を整えることで、問題の解決が図られました。しかし、専門家の冷静な判断では、「発生個体数から考えても、ランダムに検体を抽出して安全を確認するスクリーニング検査をすれば十分に安全を確保できる」とのことでした。事実、全頭検査を実施したのは世界で日本だけであり、現場で検査する獣医師は不合理を知りながら全頭検査を長らく続けざるを得ませんでした。全頭検査はコストが数百倍になりました。しかし、それでも、一万分の一パーセントのリスクを回避するために、このような確認実績を積む必要がありました。しかし、そのためにただでさえ不足している獣医師が、もっと必要のあると思われる仕事に取り組むことができなくなります。私の友人の獣医師は、「これは政府の決定だから、従うのが自分の義務であるけれども、本当に無駄な仕事だと思う。自分としてはもっと情熱を感じられる仕事をしたい……」という趣旨のことを言っていました。
しばしば、公務員には明らかに無駄と分かっている仕事を、指示どおりに行うことが求められます。これは利益や効率性を第一に考える民間企業とは対照的です。ただ、自分で納得できないまま、上司の指示に従わざるを得ないという点ではまったく同じです。それは特に、高い理想を抱いて仕事を始めた人であればあるほど、耐えがたい苦痛に感じられるのではないでしょうか。
たとえば小学校教育の現場では、それぞれの児童の個性に合わせた教育の必要が強調されています。それ自体は良いことですが、その結果、時に起こることが、教員一人ひとりが、それに関する何らかの記録を残すというペーパーワークが増えるということです。また、いじめの問題が大きくなると、「日ごろからそのような問題に気を遣い、適正に対処していた」という形の記録を作る必要が生まれてきました。しかし、現場の教師にしてみれば、「子どもの個性を伸ばし、いじめを未然に防ぐには、子ども一人ひとりと接する時間を増やすことが何よりも大切なことである」と言いたいことでしょう。しかし、「書類の数が多すぎて、いくら残業しても間に合わない」という現実が起こっているかもしれません。これもある意味で、「〝不当な要求〟に悩みながら生きる人」の声です。
また、経理の仕事をしておられる方は、消費税率や課税基準の変更のたびに大変な作業が生まれますが、時に経営者が変わることで、システムや決算数値の表現方法の変更を迫られることがあります。財務諸表やその内訳の発表の仕方は、経営判断に直結しますから、経営者には自分が見やすい発表の仕方を要求する権利がありますが、それと法令に定められた記帳の仕方、またそれまでの会社で築き上げられてきたシステムとの整合性も大きな問題になります。経理担当者は、時に夜を徹してそれらの要求に対処する必要があります。
また東芝のような巨大企業においても、米国の原発企業の買収後の、財務数字の粉飾、改ざんが行われました。明らかにそれは経営トップの判断でなされたことであり、現場の経理担当者は、その問題が分かっていたとしても、それに抵抗する力は持っていません。そのような〝不当な要求〟に、どのように対処するかが、キリスト者には問われています。
どのような組織にも矛盾があり、その職場にいる者は、良心の呵責に悩まざるを得ない場面に直面します。そのような際に、しばしばオール・オア・ナッシングの結論が求められることがあります。時にそのような場で、自分の良心に反した行動を取らざるを得なくなった信仰者は、「所詮、職場で神に従うことは無理だ、だから教会に行っても意味がない……」と思うか、または、「信仰生活と職場の生活は次元が異なる、だから、職場では自分の信仰は忘れて生きるしかない」という二元論に生きるという、両極端に流れる可能性があります。
しかし、自分の仕事を、「生きていくために仕方なくやっている……」という気持ちほど、切なく悲しいものはありません。それでは失礼ながら、「あなたは何のために、創造主を信じて生きているのですか」とお聞きしながら、「あなたはひょっとして『死んでも天国に行ける』という希望だけで心が満たされているというのですか」と畳みかけるように問いたくなってしまいます。
多くの働き盛りの人にとっては、「職場での会話や作業の時間のほうが、家族や信仰の友と語り合う時間よりもはるかに長い」という現実があると思われます。そのような中で、「〝不当な要求〟を受けつつ生きる」という職場の現実を、未整理のままにしておいて良いのでしょうか。本著では、それに対して白か黒かの判断を付けるよりも、別の視点から見直す提案をしたいと思っています。それは問題をより高い天の視点から見るということと、解決がすぐには見えない問題のただなかに身を置いて「うめいている」ということ自体に意味があるということ、また、現在は何もできないようでも、その矛盾に真摯に向き合うことが、将来の変化の種になっているというようなことです。
ここでなされる提案や新たな視点の中には、多くの教会の指導者からご批判を受けるものも多々あろうかと思います。私自身も、今から二十年前に、このようなことを書く勇気はありませんでした。ただ、その頃から、考えてきたことの基本は変わりませんし、個人的にはそれを語ってきました。そして、本にして公にするためには、聖書全体のストーリー、またこの世の権威と神のご支配に関しての様々な神学的見解を整理する必要がありました。私が新入社員として苦しんだ四十年前と現代は働き方や仕事の仕方も大きく変わってきています。しかし同時に、そこには時代を超えた数千年前からの仕事の現実と神の前でのあるべき姿との永遠の葛藤があります。そのようなことをともに本著を通して考えることができればと願っています。(本文より一部抜粋)

高橋秀典 著
上司から課せられる〝不当な要求〟にどう対応するか、理想と現実のはざまをどう生きるか、「献身」とは何か……迷いと葛藤のただなかにある社会人に、過酷なノルマを課されながら営業マンとして働いた経験をもとに、聖書をひもときながらアドバイスする。