《試し読み》「信仰」という名の虐待からの解放

信仰生活

霊的・精神的なパワーハラスメントにどう対応するか

「信仰」という名の虐待からの解放
パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド 共著、1500円+税、A5判

第1章 「『信仰』という名の虐待」とは何か

「間違っていることを間違いだとはっきり言わないことは、世界に不幸をもたらす。」――匿名

聖書の中には、「『信仰』という名の虐待」ということばはありません。これは、17年前に多くの人の協力によって生まれたことばです。確かに聖書には、このことばはありませんが、旧約聖書の預言者たち、そして新約聖書においても主イエスが、聖書を用いて人々を虐待する者たちを強く批判しました。
エレミヤ書5章でエレミヤはイスラエルを様々なことばで批判しています。26節に、「それは、わが民のうちに悪しき者たちがいるからだ。彼らは野鳥を捕る者のように待ち伏せし、罠を仕掛けて人々を捕らえる」とあり、さらに30節と31節には、「荒廃とおぞましいことが、この地に起こっている。預言者は偽りの預言をし、祭司は自分勝手に治め……」とあります。
ここで、悪行を行っているのは指導者たちです。権力をもっている人たちです。彼らのことばや行動によって、多くの人たちが深い傷を受けていました。エレミヤ書6章13節、14節に、「信仰」という名のもとでの虐待の一つの側面を見ることができます。

「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、
みな利得を貪り、
預言者から祭司に至るまで、
みな偽りを行っているからだ。
彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、
平安がないのに、
『平安だ、平安だ』と言っている。」

ここに書かれている(宗教的)指導者たちは、ただ自分の立場と利益を守ることだけを考えています。人々のたましいの救いについては何も考えていません。自分の行動が悪いものであっても、別に問題はないと言っています。そして、現実を隠しているのです。
主イエスも、当時の宗教学者と彼らの説く律法主義、「宗教システム」について激しい論争をなさいました。マタイの福音書23章4節で、「信仰」という名のもとに虐待を行う宗教学者を批判されました。

「彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。」

宗教学者たちは、神さまのことばを利用して、自分たちの利益のために人を支配していました。そして、その人たちにどれほど精神的な苦痛を与えているのかを全く考えませんでした。現在でも同じことが起こっています。牧師や長老たちが自らの欲求のみを満足させるために信者たちの心を利用して、非常に重い荷を肩に載せているのです。それは特に霊的、精神的な重荷です。そのために、聖書のことばを利用しています。
フランス人のアルフォンス・マイヨー牧師は、『モーセの十戒―現代人のための規範』(Alphonse Maillot, Le Decalogue une morale pour notre temps, Labors & Fides)という著書の中で、第八の戒めについてとても興味深い解説を行っています。

「旧約聖書には次のように書かれています。出エジプト記20章15節、『盗んではならない』、申命記5章19節、『盗んではならない』と。普通このみことばを読むとき、『物を盗む』ことを想像します。そうした解釈は確かに間違ってはいません。けれども、今日の多くの聖書の解釈者は、『盗む』の主な意味が[人間を盗むこと]であると主張しています」(125頁)。

フランス語聖書の一つ、TBOの訳では、出エジプト記20章15節、申命記5章19節にはrapt(拉致)ということばが使われています。
旧約時代には、襲撃によって人を拉致することが頻繁にありました。もちろん、このように「盗まれた」人は奴隷にされていました。それをもとに考えると、神さまはモーセの十戒を通して、ユダヤ人、そしてクリスチャンに「人を拉致して奴隷にすることを禁止しておられる」ということになるのではないでしょうか。この戒めが破られているとき、それは奴隷にされている当事者と神さまの前にだけ明らかではあっても、他の人にはなかなかわかりません。
人は奴隷になると、あらゆる自由を奪われます。感情、行動、判断、情報を盗まれ、あやつり人形のようになってしまいます。「信仰」という名のもとに行われる虐待によっても同じことが起こり、神さまの第八の戒めが破られていることになります。それだけでなく、このことによって、主イエスの救いと福音も否定されてしまいます。そのようなことが起こっているとすれば、クリスチャンが「見ざる、聞かざる、言わざる」というような態度を取ることは許されないのではないでしょうか。
「信仰」という名の虐待とは何か、と聞かれるときに、私は次のように答えます。
「それは、人を拉致することです。その人の人生とたましいの奥深いところまでを拉致することです。人間としての尊厳を認めず、一つの道具のように扱ってしまうことです。そうした虐待を受けている人は、父なる神さまともイエスさまとも交わることができません。父なる神さまとイエスさまと出会うことができなくなります。ただ、一人の牧師、教会、あるいは教派教団に依存するだけになってしまいます。この虐待は、神さまの名を使う霊的な強姦の一形態でもあると言えます。これによって、その人は海の底よりも深い圧力を受け、精神的、霊的につぶされてしまいます。」
被害者たちは普通の生活に戻るためにとても苦しみます。その人たちが教会を離れるときに、主として二つのパターンがあるようです。自ら離れるか、あるいは追い出されるか、です。彼らは教会を離れた後、深い孤独感を味わいます。「神さまに背を向けた不信仰者だ」と決めつけられ、それまで親しくしていた人たちから「裏切り者」扱いされるからです。信仰の友との交わりが断たれ、それまで得ていた安心感や愛情など心の支えとなっていたものをなくし、あたかもすべてを失ったかのような気持ちになり、ひとりきりになってしまいます。そして「教会から離れたので、これから神さまが私に復讐する」、「これから罰を受けるに違いない」、「そして地獄に落ちる」と信じるようになります。
こうした恐怖感はその教会の牧師の教えからくるものです。被害者たちは自らに対してネガティブなイメージを植えつけられています。深い羞恥心を覚え、人を信頼するのが難しくなっています。多くの場合、キリスト教に強いアレルギーをもつようになります。……

第4章 このような表現を使うときは危険

「私は神さまからヴィジョンを示された!」
第3章では、六つの表現の危険性に言及しました。これからいくつかの他の表現についても考えていきます。それらは、多くのクリスチャンたちによって使われています。
最初に「ヴィジョン」という言葉から始めましょう。この言葉の意味は大きく二つに分けられます。一つ目の意味は「将来の構想や展望(計画)」です。二つ目の意味は「見えるもの・幻・幻覚」です。
一つ目は次のように表現することができるでしょう。「私にはヴィジョンがあります。」たとえば、「私には、日本人の子どものためにフランス語の学校を開くというヴィジョンがあります」。そして、このヴィジョンを実現させるためにいろいろな行動をとります。しかし、いくら頑張っても、そのヴィジョンを実現できません。その場合の責任は私自身にあります。「私の」ヴィジョンだからです。実現できなければ、なぜできなかったのかを考えます。それはおそらく最初から無理があったからでしょう。私はそのことを認めなければなりません。
しかし、「私は」の代わりに「神さまから」という言葉を使うと、どうなるでしょうか。「私は神さまからヴィジョンを示された!」 信仰がない人たちにとってはあまり意味のない言葉です。ところがクリスチャンには、自分の教会の牧師がこのような表現を使うと、それが心に響きます。一つの例を紹介しましょう。
ある牧師が説教の中で、「私は神さまからヴィジョンを示された!」、「新しい会堂を建てなければならない!」、「その新しい会堂を通して、私たちの町でリバイバルを起こさなければならない!」と語りました。さらに、「このヴィジョンが実現されるために、皆さんの祈り、経済的な協力、そして時間と、多くの献金が必要だ」と言いました。それを聞いた信徒たちは一生懸命頑張りました。ところが、新しい会堂を建てるにあたって、いろいろなところで壁にぶつかるようになりました。なかなかスムーズに進みません。そのとき牧師は教会員たちを激しく非難しました。「あなたたちが不信仰なので、神さまから示されたヴィジョンが実現できない」と叫びました。そして、教会の人たちはそれを信じ込んでしまいました。神さまに向かって悔い改めの祈りをささげました。
ところが、どのようにしてこれが神さまに示されたヴィジョンであると確認できるのでしょうか。それが実現し、成功するときには、そう言えるかもしれません。けれども、それが実現せず、成功しないとき、そのことは教会の人たちの責任なのでしょうか。牧師には、責任がないのでしょうか。先ほど述べた教会の人たちは悔い改めながら、自分たちの不信仰によって「神のヴィジョン」が実現できなかったと信じてしまいました。
なぜそんなことが起こったのでしょうか。それは、「私は神さまからヴィジョンを示された」という表現の中に理由があります。ヴィジョンが「神さまから」であって、「私(牧師)から」ではないからです。牧師のヴィジョンではないため、牧師の責任ではないと思っているからです。牧師の責任は、神さまが自分に示したヴィジョンを教会員たちに伝えることだと認識しているからです。そして、それを聞く教会員たちが神さまの前に責任をもつことになります。教会の人たちは、そのヴィジョンを成功させるために頑張らなければなりません。そうなると、うまくいかないときの理由は、教会の人たちの不信仰になってしまうのです。さらに、それを彼らに深く信じ込ませるために、牧師は次のように言います。
 ・「神さまに対する祈りが足りない!!」
 ・「神さまへの愛が足りない!」
 ・「神さまのみこころがわかっていない!」
 ・「神さまの喜びにならない!」
 ・「神さまから祝福されない!」
このような被害を受けたクリスチャンは次のように証言しています。
「あまりにもそう言われたので、本当に自分は不信仰であると思い込んでしまいました。そして、神さまに対して罪を犯していると思うようになりました。また、強い羞恥心を覚え、落ち込みました。さらに恐怖心さえ覚えるようになりました。」
第3章で説明したように、教会の人たちに伝わっているメッセージは同じです。「神さまの前にあなたは、Not OK!」……「You are not a good Christian!」。
ここで注意していただきたいことがあります。今挙げた五つの表現と、「神さまからヴィジョンが示された!」には、大きな共通点があるということです。何かあると、必ずといってよいほど、ある言葉が使われるのです。それは、「神さま」を主語とする表現です。
そして、教会の人たちを責める表現にも大きな共通点があります。それは五つあります。必ず終わりに「ない」が付けられていることです。これをよく考えてみると、実は非常に曖昧な表現が用いられているのです。どう曖昧なのでしょうか。具体性が全く「ない!」からです。
 ・「神さまに」対する祈りが足り「ない!」
 ・「神さまへの」愛が足り「ない!」
 ・「神さまの」みこころがわかってい「ない!」
 ・「神さまの」喜びになら「ない!」
 ・「神さまから」祝福され「ない!」
これらの表現には、どうして、どのように「ない」のかの説明がありません。漠然と「ない」と言われているだけなのです。恐ろしいことは、本当は具体性がないにもかかわらず、教会員にとっては具体性があるように伝わっていることです。どういう具体性でしょうか。それは先ほど述べた被害者の証言にあります。「私は不信仰な者です」、「神さまに対して罪を犯しています」。しかし、この表現には明らかに大きな問題があります。「間違った罪責任を覚える心」を生み出すからです。
ここで重要なのは、クリスチャンたちが精神的・霊的に支配されないように次のことを考え、確認することです。こうした言葉はだれが語ったものでしょうか。「神さま」でしょうか。それとも、「自分の立場」を利用する人たちでしょうか。神さまが「ない」と言われるのでしょうか。それとも、「自分の立場」を利用する人たちが語るのでしょうか。

「〇〇さんは霊的におかしくなった!」
あるキリスト教系の大学での出来事ですが、入学したポール(仮名)は同じく法律を学んでいたクラウド(仮名)と友だちになりました。クラウドはクリスチャンだったので、教会のバザーにポールを誘いました。そこは若者の多い教会でした。ポールは以前から聖書に興味をもっていたので、そのことを牧師に話してみました。牧師は彼を聖書の勉強会に誘いました。
最初の3か月は勉強が楽しかったのですが、ポールは歴史という側面からも聖書についていろいろなことを知りたいと思いました。けれども、クラウドの教会の牧師はなかなか歴史について教えてくれませんでした。ポールは、大学で歴史の教師に会いに行きました。その人はクリスチャンでした。そして大学のチャプレンを紹介してくれました。このチャプレンは福音的な神学的立場の人ではありませんでした。彼は聖書の歴史についてポールに教えてくれました。
すると、クラウドの教会の牧師はポールを激しく非難してきました。「そのチャプレンに会ってはいけない!」、「自由主義(リベラル)の人は福音を知らない」と。けれども、どれほど非難されても、ポールはチャプレンに会いに行き、歴史などを学び続けました。そしてチャプレンから得た情報に基づいて、聖書についてクラウドの教会の牧師に質問をしました。そのことから、牧師はポールに対して不満をあらわにし、ひどく批判をしてくるようになりました。「あなたの質問は私の勉強会に混乱をもたらすだけだ!」と言いました。
その後さらに牧師からの批判がひどくなったので、ポールは教会へ行かなくなりました。
大学の歴史の先生はそのことを知り、クラウドに尋ねました。「なぜポールはあなたの教会へ行くことをやめたのですか。」 クラウドは答えました。「ポールが霊的におかしくなったからです。」 先生は「もうちょっと具体的に説明してくれませんか」と聞きましたが、クラウドは「ポールが霊的におかしくなったからです」と同じことを言いました。それ以外、具体的な説明は全くありませんでした。ただ最後に、「私の教会の牧師がそのように教えてくれたからです」と言いました。
ポールのような実例がたくさんあります。多くのところで、教会を離れた人に対してこうした表現が使われています。そして、そこの教会員に、クラウドに対してと同じ質問をしても、やはり同じ答えしか返ってこないのです。
では、「霊的におかしくなった」とはどういう意味なのでしょうか。このように言うクリスチャンは本当に人の霊を見ることができるのでしょうか。霊を見るための特別な賜物、あるいは眼鏡があるのでしょうか。「〇〇さんは霊的におかしくなった」と言うクリスチャンにこのような質問をしても、だれも答えることができません。そしてなぜ、教会を離れた人たちについてそう言えるのかと尋ねると、クラウドのように「牧師がそのように教えたから」と答えます。
「〇〇さんは霊的におかしくなった」という言葉は教会の人たちに、どんなイメージを与えているのでしょうか。それは、「霊的におかしくなった」人は「悪」であるということです。もう仲間ではありません。その人が「OK」ではないからです。さらに、そこには「神を汚した人」という意味も含まれています。これは決定的なことなので、教会の人たちは、「霊的におかしくなった」ということの意味を考える必要がなくなります。結局のところ、牧師と牧師に従っている教会の人たちには何も問題がないということになり、すべては「霊的におかしくなった」人の責任であると結論づけることになるのです。責任を当人だけに押しつければ、教会の人たちは安心することができます。「自分には何も問題がない」ことになるからです。
けれども牧師がそう言っても、それを聞いた教会の人たちがその言葉の意味について具体的に確認しなければ、それは非常に危険なことです。その人たちが何の確認もしないならば、この表現で満足して、思考停止しているのです。牧師は、教会の人たちの心を否定的なイメージの中に閉じ込めるために、こうした表現を用います。本当に恐ろしいことです。……(本文より一部抜粋)

「信仰」という名の虐待からの解放
パスカル・ズィヴィー、ウィリアム・ウッド 共著、1500円+税、A5判