《緊急特集》患難の時代の中で内村鑑三の信仰に学ぶ

信仰生活

その生涯の後半で、内村鑑三は、第一次世界大戦の悲惨さを知り、多数の死者を出したパンデミックを目の当たりにして、関東大震災の恐ろしさも味わった。そこで彼が見いだしたものは何だったのか―。
終末論の著書もある岡山英雄牧師に寄稿していただいた。

岡山英雄(東松山福音教会牧師)
1954年大阪生まれ。 東京大学文学部、聖書神学舎卒業後、牧師に。米国のゴードン・コンウェル神学校、英国のセント・アンドリューズ大学で黙示録を研究。哲学博士。現在、東松山福音教会牧師。著書に『小羊の王国』『キリスト者の平和論・戦争論』(いのちのことば社)他多数。

❶終わりの時代の前兆

新型コロナ・ウイルス

 二〇二〇年、世界は未知の新型コロナ・ウイルスの感染に怯えている。このウイルスは、無症状でも感染力があるというかつてない特異性から、対策はきわめて難しい。行動は制限され、経済活動は停滞し、世界全体に大きな影響を与え、先行きが見えない。そのような中で、人々に不安や恐れが強まっている。私たちはこのような状況の中でどのように生きるべきだろうか。内村鑑三の信仰に学び、克服の道を探りたい。
 現代のキリスト者が、内村から学ぶべきことは、数多くある。
そのひとつは、聖書に基づく非戦論である。しかし内村鑑三の戦争論に関しては、筆者と冨岡幸一郎氏との対談が『キリスト者の戦争論』(地引網新書 二〇〇六年)と題して出版され、昨年の「百万人の福音」八月号の特集「クリスチャンと戦争」でも言及した。それゆえ今回は彼の終末論に注目したい。

第一次世界大戦の衝撃

 私たちは今、未知のウイルスに翻弄されているが、百年前、世界を大きく揺り動かす事件があった。第一次世界大戦である。この戦争(一九一四~一八年)は、全世界に衝撃を与えた。二十世紀の初め、産業革命が進み、世界は科学技術の進展によって進歩し、さらなる黄金時代を迎えるという楽観的な歴史観が支配的であった。
 しかしこの人類史上初の世界戦争はそのような希望を打ち砕いた。この戦争によって、千六百万人が戦死し、科学の進歩と人類の未来に対する深刻な反省が生まれた。

終末的視点

 このような世界情勢を内村は、英字新聞によって正確に把握し、それに対して積極的に発言した。内村は世界大戦を終結させる仲介者として、中立国アメリカに期待していたが、アメリカの参戦(一九一七年)によって、その望みは絶たれた。
 彼が全国的な講演活動を始めたのは、その翌年であった。世界戦争が深刻化する中、地上の平和は、もはや人間的な努力によっては得られないことを確信し、キリストの再臨による最終的な平和を訴えた。再臨運動と呼ばれ、一年間に五十八回の講演を全国各地で行った。この現実の世界において、聖書のことばはどのような意味をもつのか。内村はそれを考え、学び、行動した。

スペイン風邪

 内村がキリスト再臨運動に力を注いだ一九一八~一九年、スペイン風邪が大流行し、その死者は世界で一億人、日本では二十万人である。その死者は第一次世界大戦の戦死者(千六百万人)よりも多い。しかも当時の世界人口は二十億、現在は七十億であることを考えると、いかに大きな災害であったかがわかる。この疫病について内村はいう。
 「まことに恐るべき世界的疫病である。しかして我らは眼前にその害毒を目撃しながら、今日の医学をもってこれをいかんともすることができないのである」(『イエスの終末観』一九一九年)
 スペイン風邪は、強毒性の新しいインフルエンザウイルスであり、その悲惨な現状を彼は終末論的に解釈し、それは世の終わりの警告であるという。
 「神は決してなんら警告を加えることなく、人の罪深きに至って不意にこれを陥れるがごとき無慈悲を行いたまわない。いくたびか戒告に戒告を重ね、忍耐に忍耐を加えて、悔悛を促したまう」(同)
 そして言う。世界は「黄金時代」ではなく、「患難時代」に向かっていると。

産みの苦しみ

 内村は、戦争、疫病、大地震(関東大震災はスペイン風邪の四年後の一九二三年)などを終末的なしるし、前兆と理解する。このような解釈は的確である。
 黙示録によれば、これらは七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢の災害に描かれている災いであり、最終的審判に先立つ、警告的審判である。世の終わりが近いことを警告し、悔い改め、目を覚まして最後の審判に備え、キリストの再臨、新天新地を待ち望むようにとの神の警告である。このような終末的視点から現実を見ることが重要である。
 世界は世の終わりに大きく揺さぶられ、患難の時代を経て、キリストの来臨による新天新地が実現する。しかし困難な時代は、新しい栄光の時代が到来するための「産みの苦しみ」の時であり、すべては、失望ではなく希望に終わる。

聖書主義

 内村の終末論の優れた点は、その徹底した聖書主義である。聖書のことばを深く学び、信じてキリストの来臨を待ち望むという信仰が貫かれている。彼のキリスト再臨運動が大きな反響を生んだ時、キリスト教界から強い反対があった。しかし彼はたじろぐことなく、数々の再臨預言に言及し、これこそが初代教会の信仰の核心であると熱く説いた。
 そのみことばに対する真摯な姿勢は、百年経った今も、私たちに強く訴える。

❷内なる平安と伝道

天国の前味

 内村の終末論は、聖書のことばに基づくとともに、彼の実際の体験(実験)に根ざしている。一九〇六年、彼は、聖霊によって「天より降る新しきエルサレム」をかいま見たが、それは「天国の前味」であると言う。
 「ああ平和、平康、安心、聖書に書いてある人の思念に過ぐる平和とはこの事であらふ、我が過去はすべて忘れられ、我が未来は希望満々たり、人生の意味はわかり、ことに苦痛問題はみごとに解釈され、天は晴れ、地は動かず、樹も草も、獣も鳥も、日も月も星も、みな我に同情をよするやうに思はれる、これがもし天国でないならば何が天国であるか、天より降る新しきエルサレムを我はこの世において見ることが出来て感謝する」(『聖霊を受けし時の感覚』一九〇六年)
 内村は厳格で冷静、緻密な聖書研究者であるが、反面、このような個人的な体験に基づく熱い想いをもっていた。

ルツ子の死

 内村がキリスト再臨の信仰を深めたのは、ルツ子の死によってである。一九一二(大正元)年一月一二日、五十一歳の時、愛娘ルツ子が、突然の病で床に伏し、六か月の闘病の後、十八歳で召天した。これは内村の人生における最も衝撃的な事件のひとつだった。六年後、再臨運動の始まった年、彼はその死について記した。
 「この日、我らの愛するひとりの少女は我らを去りて、我らの天地は一変した。この日、聖国(みくに)の門は我らのために開かれた」(「一月十二日」一九一八年)

来世的キリスト教

 深い悲しみの中で、彼は信仰の眼をもって天の国を仰ぎ見、やがて地に来られるキリストの栄光を見た。そして「現世的信仰」から「来世的信仰」へと深められた。彼は言う。「信仰の進歩と共に、今世はますます軽くなりて、来世はますます重くなる」(「福音と来世」一九一五年)と。これは厭世主義ではなく、永遠的視点から見た現世の相対化である。

内的再臨と外的再臨

 来世的信仰は、キリストの再臨待望信仰へと深められる。神の霊によって内なる世界を新しくされた者は、やがてキリストによって外なる世界が新しくされることを待ち望む。
 内村鑑三は、このような聖霊の働きに注目し、すでに起こっている聖霊の降臨を「内的再臨」、やがて起こるべきキリストの来臨を「外的再臨」と呼ぶ。(『基督再臨の二方面』一九二〇年)
 このような個人的体験とキリストの再臨待望との関係についての内村の指摘は、重要である。パウロも、全被造物が一新される終末的完成の世界を、キリストの霊によって体験した。
 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5・17)
 そして主の来臨を切望した。
 「マラナ・タ(来てください、主よ)」(Ⅰコリント16・22参照)
 聖霊により一瞥した天の国は、赦しと愛と平和に満ちた世界、すなわちキリストの来臨後に実現する終末的世界である。聖霊の降臨によって、キリスト者は、すでにキリストの来臨後の世界を体験している。それゆえ確信をもって、来臨のキリストを待ち望む。
 揺れ動く世界にあって、何よりも大切なのは、揺り動かされることない心の平安、確信である。不安と恐れが世に満ちているときでも、私たちは静まって、神の霊に満たされ、開かれた門から、天の永遠の栄光をかいま見ることができる。
 内なる静謐な平安、ここにすべての活動の源がある。内的平安に基づく活動なら、熱狂に走ることはない。冷静にしかし熱く、キリストの来臨を待ち望むことができる。

内なる平安

 二〇二〇年、疫病の感染の中で不安と恐れが世界に広がり、それは「コロナ鬱」とも呼ばれている。膨大な情報に翻弄され、外出が制限され、外なる楽しみが失われ、自宅での生活が続き、ストレスがたまる。
 しかしさまざまな活動が制限されているこの時こそ、私たちは静まって、自らの信仰のあり方を問い直し、何が自分にとっての喜び、楽しみなのかを顧みることができる。そして現世的な信仰を、来世的・永遠的信仰へと深めていくことができる。
 この世界の現象のすべてを、人間は自らの手でコントロールすることはできない。すべてを創造された神だけが、人の生命、微生物から広大な宇宙に至る一切を支配しておられる。この時こそ、静まって主と共に過ごし、神を崇め、聖霊に満たされ、平安のうちを歩んでいこう。

終末と宣教

 内村は、スペイン風邪について述べた前述の文章を、以下のように結ぶ。
 「世の終末の切迫を知りて、我らはいよいよ福音の宣伝に熱心なるべきである」(『イエスの終末観』一九一九年)
 困難な時代にこそ、キリストの福音を宣べ伝える責任が私たちに託されている。彼はキリスト再臨運動を、立場の異なる伝道者たちと共に行った。大きな目標で一致できるなら、小さな違いを超えて協力することができる。
 内村の再臨運動から百年、黙示録、終末論の研究は大きく進展した(※)。
 私たちは、黙示録また終末について深く学び、揺るぐことない確信をもって、来臨の主、「来つつある方」を待ち望み、希望の福音を語り続けていこう。
【「百万人の福音」2020年7月号より】

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