《筋ジスのボクが見た景色》試練とタラント

いのちのことば

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筋ジスのボクが見た景色

黒田良孝(くろだ・よしたか)1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。

病気の進行は私から自立生活を奪いました。それまで私は周囲の患者と比べて症状が軽く、自分は特別だと思っていたのでなおさらショックを受けました。
人間は、調子の悪いときはそれを神様のせいにして、調子の良いときは「自分は大したものだ」とすべてを自分の手柄にしてしまいます。私はその典型でした。しかも、同じ病気の仲間に対しては優越感を抱く醜さがありました。それがあたかも自分の努力で得られたものだと錯覚して、症状が重い患者のことを見下していました。すべてのものが取り去られて初めてそのことに気づいたのです。
これまで蓄えていたものは雲散霧消しました。イエスのたとえ話にある神様のことばが耳にこだまします。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12・20)。
しかし神様は私から命を奪うことはせず、かわりに再出発の機会を与えてくださいました。これまで気づかなかった神様の恵みに目が開かれたのです。

「けっこうフツーです」で書いてきた私の半生には数々の出会いがあり、人生の節目節目で彼らが影響を与えてくれました。偶然で片付けてきた紆余曲折ですが、「神の見えざる手」が働いていたと感じざるを得ない導きがあったのです。それは神の臨在を感じさせるものでした。かつての自分の力により頼む私であったら、気づかなかったと思います。こう考えると、20代後半からの試練の日々は、自らを省みて神様に目を向けさせるためのモラトリアム(猶予期間)だったのかもしれません。
意味のある試練でした。聖書のみことばが思い起こされます。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます」(Ⅰコリント10・13)。

生死の境をさまよい、実家での終わりの見えない引きこもり生活が十数年続きました。そこから抜け出すことは到底できないと思っていましたが、「死」以外の出口が用意されていたのです。もう一度私に時間が与えられました。ヘルパーがついているので、主体的に使うことのできる〝タラント〟です。しかし、タラントは地面を掘って隠しておくだけではいけません。意味のない試練がないように、与えられた時間にも使命があるはずですが、それが何かはまだわかりません。人との出会いをはじめとする神の導きに後から気づいたように、後々わかってくるのだと思います。
この連載もそうですが、私は今自分の体験を語る活動をしています。執筆や講演や学生向けの授業をする機会が増えました。筋ジスはさまざまな身体機能を奪っていきましたが、パソコンで文章を書き、自分の声で話す能力は残っています。残された機能には意味があると信じて「伝えること」を自分に課しているのです。
介護や看護を志す人に自分の思いを伝え、利用者や患者の思いをくみ取れる人材を育成することはもちろん大事ですが、障害を受容できなかったり、生きづらさを感じたりする人が背負う重荷を、少しでも軽くできるような活動ができれば本望です。

昨年は重度障害者が国会に議席を得て、今年はいよいよ日本でパラリンピックが開催されます。社会の関心が高まり、テレビCMでも健常者と障害者が共演するようになりました。画期的なことですが、一過性のブームになりそうで心配なところもあります。
また、能力のある障害者だけがフィーチャーされることの弊害も気になります。能力のある人は価値があり、能力のない人は価値がないという誤ったメッセージが送られる可能性があります。その弊害を防ぐためには、障害のある個人個人が外に出て社会と関わり続けるしかないと思います。
差別や誤解をなくすためには互いを知ることが最も肝要です。介護の体制など地域格差もあるので簡単ではありませんが、心の扉だけは開いておきましょう。私もタラントを活用できるよう精進していきます。《続く》(月刊「いのちのことば」2020年2月号掲載)

月刊「いのちのことば」