《筋ジスのボクが見た景色》絶望の中で見えた光

いのちのことば

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筋ジスのボクが見た景色

黒田良孝(くろだ・よしたか)1974年福井県生まれ。千葉県在住。幼少の頃に筋ジストロフィー症の診断を受ける。国際基督教大学卒。障害当事者として、大学などで講演活動や執筆活動を行っている。千葉市で開催された障害者と健常者が共に歩く「車いすウォーク」の発案者でもある。

こだわり続けた東京での日々に終止符を打ったのは、ヘルパーによる吸引が、法的に認められていなかったというのが大きな理由ですが、気管切開前後の身体の衰えにより死を意識したこともあります。食事もまともに取れず体重は40キログラムを切り、さらに社会と隔絶された状態で病室に五か月もいました。
その間、病院との話し合いを続けて、ヘルパーによる吸引の特例を認めてもらう努力をしていましたが、進捗は芳しくありません。もし自立にこだわれば、入院がいつまでも長引くことになります。先行きが長くないことを悟った私は、「このまま自立生活に戻る交渉をしても成功する可能性はおそらくないし、その間に私の身体は弱り、外の世界を見ることもなく命を終えてしまう」と考えるようになりました。病院で死んでしまうくらいなら、実家で穏やかに最期を迎えようと決意したのです。

実家に戻った時点で、自分の命は長くてもあと1、2年しかもたないだろうと思っていました。しかし、短命を嘆いていたのではなく、死ぬことで今の絶望的なつらい状況から、早く解放されたい気持ちだったのです。神様から与えられた命に期限を設けるなど、クリスチャンにあってはならない傲慢ですが、それほど、肉体も精神も疲れ果てていました。

ヘルパーのいない在宅療養の大変さを理由に、実家での暮らしを拒否していたのですが、実際は予想以上に厳しいものでした。それまでは、のべ十人以上が私のケアにあたっていたのに実家では家族しか担い手がないのです。しかも毎日24時間、一日も欠かさず面倒をみなくてはならないのですから想像を絶する負担です。
また、介護するマンパワーが足りないのですから、私もやりたいこと全てを頼むことはできずに遠慮することになります。生きるための最低限のことは十分にしてもらっているので、それ以上のぜいたくを言って負担をかけたくなかったのです。そうなると、やはり通院以外の娯楽のための外出等は頼みづらいものです。しかし、短い先行きに希望というものをもてずにいた私は、生きること自体を消極的に放棄していましたので、最初に感じていた苦痛は次第にあきらめに変わり、助けてほしいという気持ちさえ失っていきました。それまでインターネットやメールで付き合いのあった人たちとも距離をおき、引きこもり状態になったのです。彼らの充実した日々のことは、正直聞きたくありませんでした。

精神状態の落ち込みと反比例して、衰えゆくはずだった身体の調子は徐々に回復していきました。口から食事が取れるようになり、体重の減少にも歯止めがかかりました。また、気管切開のおかげで呼吸状態が大幅に改善して、風邪もほとんど引かなくなりました。気がつけば、自ら設けた命の期限である2年をはるかに過ぎています。通常、筋ジストロフィーで身体が弱り体力が衰えた場合には、機能の改善は期待できませんが、私の場合は改善に転じたのです。今思えば、実家での暮らしは必要な充電期間でした。

自立生活をやめて失意のうちに実家に移り、ヘルパーのいない暮らしを始めて12年が経ちました。気がつけば20代だった私は40代になり、主な介護の担い手である母は自分自身の健康を意識しなければならない60代になりました。家族介護の限界が見えてきたのです。そうなることはわかっていたのですが、病院に入る以外に現実的な方策を見つけることはできませんでした。「もうどうしようもない」とあきらめかけていた時に紹介されたのが、現在入居しているグループホームです。多少形態は異なりますが、東京で手放さざるを得なかった生活とほぼ同じ暮らしができます。運命的な出会いです。これは先駆的な取り組みで、全国でもほとんど例がありません。
後悔とあきらめに支配されて、自分の存在意義さえ見失っていた私にも道が用意されていました。24時間体制のヘルパーと生活を営むチャンスが再び与えられたのです。私の介護に生活の全てを捧げていた母を解放することもできました。絶望の淵にあっても神様は私のことを覚え、希望を与えてくださったのです。《続く》(月刊「いのちのことば」2020年1月号掲載)

月刊「いのちのことば」