《特集:父母を敬う》「子どもを卒業する勇気」

信仰生活

親との関係

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近藤由美

プロフィール:元キリスト者学生会関西地区主事。関西聖書学院で、ゲスト講師として親子に関する集中講義を受け持つ。同学院非常勤カウンセラー。著書に『新・親との関係を見つめる』『「二人」を生きる関係』(いのちのことば社)。

「子ども」を卒業する勇気

私たちは子どもから大人に成長するにしたがい、ものの見え方の変化を経験する。見える範囲が広がって、新しく視界に入ってくるものが増える。興味や関心の広がりが、それらにさらに拍車をかける。自分の周りに変化が起きたというよりは、自分自身の心の成長に伴って変化がもたらされるのである。

「両親」は、果たして人の目にどのように映っているのだろうか。そして、人の一生を通じてどのように変化するのだろうか。私は、必ず両親の見え方、見方に変化が訪れる時がくると思っている。いきなり自分の心の目が広角レンズになったような驚きの瞬間が訪れる。思春期の親への反発は、その変化の訪れのしるしである。完全だと思っていた親が不完全、心優しい善人と信じきっていた親が、実はそうでもなかった、人前での立派な顔に裏があった、裏の事情のドロドロした現実を親も隠しもっていた…、つまり親も「罪人」であるという事実。うすうすその事実に気づいても、それまで何の疑いもなく無邪気に信頼しきっていればいるほど、その現実を認めて受け入れることは、実はそうたやすいことではない。その混乱期が、反抗期なのであろう。反抗期を過ごすことは罪ではない。反抗期を迎えさせてしまった親も、育て方が間違ったからと思い悩む必要もない。しっかり育てられ、育ってきた当然の結果としての「反抗期」と私は考える。つまり、次の段階に進むための大切な移行期なのである。

しかし問題なのは、一生を反抗期で過ごす人がいること。またその反対に、親に反抗することに罪意識をもち、従順を演じて過ごす人がいること。そして、大人になることは損であると考えて、大人になることを放棄して過ごす人(子どもを決め込む)がいることである。いずれも共通しているのは、「大人になりたくない」ということなのである。

大人になるために

大人になるためには、何をすればよいのだろうか。それは、親をそれまでとは別の視点から見ることである。つまり親を父親、母親としてでなく、一人の男性、一人の女性として見るのである。少し距離をとって、客観的に、自分のもつ想像力や記憶力を総動員させて。

父親、母親という人はどんな人生を送ってきた人なのか、子ども時代にどんな経験をしてきたのか、どんな喜びや挫折を、何歳の時に経験しているのか、独身時代にどんな夢をもっていたのか、二人はどこでどのように出会って結婚したのか、結婚生活は順調だったか、自分が誕生することは、二人にどんな意味をもたらしたか、現在の二人はどんな関係にあるのか…。それは両親の年表を作成するという作業になる。すると、驚くくらい両親のことについて何も知らない、という事実に直面するのである。この作業こそ、親に向き合うための大切な手段であると、私は自身の経験から考えている。子どもが幼いうちは、親に向き合ってもらえばよい。しかし大人になれば、子どもも親に向き合えるようになるのである(十分に成長していれば)。世話をされ、養育してもらうことから、「向き合う」関係への変化を受け入れる決断が求められる。

私たちは自分のものの見方、感じ方の傾向を自覚しているだろうか。何を意識しているのか。親から「与えられたもの」か、「与えられなかったもの」か。それをどのような感情と共に記憶にとどめ、意識化しているか。心の記憶は極めて自己中心的になされていて、必ずしも事実が記憶されているわけではない。大人になるということは、事実以外の装飾を自分ではがして、事実を事実として見直すプロセスを自らのなすべき務めとすること、そして事実の背後にあった親の事情を知っていくことが、神の前に問われるのではないか。事実の背後に隠れていた親の教育的配慮、躾、経済的理由、健康上の理由…、本当のわけを知ろうとすることは、成熟のしるしである。

親の罪にどう向き合うか

新約聖書で「信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」(ヘブル11・7、新共同訳)と評価されているノアが、ある日葡萄酒を飲んで酔っ払い、天幕の真ん中で裸になって寝入ってしまった。この出来事に遭遇した彼の子どもの反応は、二つに分かれた。父親の姿を見て(もしかしたら悪意に満ちた軽蔑の視線を投げかけて)、何もしなかったハムと、着物を持って後ろ向きに歩いていき父親の裸を覆う行動を執ったセムとヤペテ。ノアの醜態(罪)という事実に、正反対の行動を執ったのである。

後にノアは、ハムが執った、何もしなかったという態度を問題視している。子どもが親を敬う行為が執れない原因が、親の事実にあるのではないと、この聖書箇所は言いたげである。

大人になって親の真の姿が見えたとき、子どもの時には見えなかった闇の部分が見えたとき、それをどう受け留めるかは子どもの側の問題なのである。

「罪」を憎んで「罪人」を憎まず、と言うのは簡単でも、実際は難しい。特に親子という近しい距離であれば、親の罪が子に及ぼす影響は深刻にならざるをえない。親の身勝手で子どもが振り回されたり、親の罪が子どもの人生を左右してしまうことは、確かにあるからである。

親が子どもに罪を犯すことを強要するなら、その場合は親に従う必要はない(エペソ6・1 「主にあって」とあることから)。しかし親自身の犯した罪に対して私たちが選べるのは、「赦す」選択肢であって、「裁く」選択肢ではない。裁きは神の領域なのである。

ただし、一言断っておかなければならないのは、親の罪を赦すことを口にする前に、その親から、私たちが数えきれないほど何度も繰り返し赦されてきた事実がある、ということである。

ノアのセム、ヤペテの二人の息子にとって、父親の醜態の事実は、父親への尊敬を阻む問題とならなかった。心の態度を変えさせる原因にならなかったのである。

ノアは、二人の息子が後ろ向きに歩いてきて、裸の自分に着物をかけてくれた行為に気づいた時、どう思っただろうか。子どもが親を信じ尊敬している愛にあふれる行為が、親の居ずまいを正すことにならなかっただろうか。

親への感謝を表す

人は、生物の中で最も未熟な状態で誕生するらしい。動物の子どもたちが生まれてすぐに立ち上がり、自分の足で歩いて母親のところに行っておっぱいを飲む姿をテレビなどで見ると、その差に唖然としてしまう。生まれたばかりの人間はただ泣くだけで何もできず、何もかも誰かの世話を受けなければ、即刻死に至る。食事、排せつ、入浴、衣服の着脱、部屋の温度調整…、意思伝達さえできないので、誰かが一方的に見守って必要を読み取り、継続的にこまめに(決して気まぐれでなく)世話をしてくれなければ、簡単に死ぬのである。やがて、話しかけられてことばを覚え、微笑みかけられて笑うことを習得する。

そしてその時代のことを、私たちはまったく記憶していない。その根気のいる役割を喜んで担い、労力を惜しまずに与え続けてくれた存在が、親、または親代わりになってくれた人々なのである。誰かが卵の代わりにマムシを与えていたなら、私たちは生きてはいない。自分に愛を注いでくれた存在があり、その愛を食べてきたので、今、生きている。たとえその愛のかたちが、自分の気に入らないかたちだったとしても。

私たちに物心つくまでの記憶がないせいか、私たちは不平不満を言うのは得意でも、感謝する心は貧弱で身についていなかったりする。感謝する心は、自覚的に学習して身につけるもので、親への関心をもって親を知ることによって、震える心によってのみ、身につくのではないか。

配慮される者から配慮する者へ、与えられる者から与える者へ、感謝される者から感謝する者へ、話題の中心にしてもらう者から脇役、聞き役に、贈り物をされる者から、感謝のことばとともに贈る者に。それは、生み、育ててくれた親に対する人生後半の務めであり、それが神への感謝となるのではないか。

新しい親との出会い

私たちは神により、とても大きな世界の中で生きることへと招かれている。そしてそれは、他者との出会いによって、現実となっていく。しかし、もし親との関係につまずき、そこから抜け出せずに自由を得られないなら、いつまでたっても広い大きな世界は絵に描いた餅で終わる。

不思議なことに、親を敬うことが意識しないほどに自分の生き方になっていくとき、現実には親離れをし、親から自由になって、他者と出会えるようになる。「新しい親」との出会いである。どんなに願っても親からは与えられなかったものを豊かにもっている他者との出会いは、新鮮で、しかも喜びに満ちている。そのような他者に出会うことに、実の親に対する後ろめたさはなく、また親も、自分たちが与えられなかったものを子どもが他者から受けることを喜べるのである。新しい親は、惜しげもなくその賜物を与えてくれる存在となり、そこに主にある「シャローム」の関係が生まれるのである。

【「百万人の福音」2017年5月号より】

「新・親との関係をみつめる」 近藤由美 ¥1,200+税 いのちのことば社刊