《特集》聖書に発見!回復のプログラム⑧ 闘病がもたらした“いのち”の回復

宣教・神学・教育

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聖書に発見!回復のプログラム

死亡率70%の難病と格闘し、回復

北九州シオン教会牧師
力丸嗣夫さん

2005年10月のことでした。北九州近辺の四教会が合同して開催される「第10回シオン聖会」を翌日に控えた朝、41度の高熱と、首から上を切り取ってほしいと思うほどの頭痛に襲われました。看護師の娘の勧めで、主治医である貞元春美医師の医院へ駆け込みました。診察室のベッドに横になり、聴診器を当てるため胸をはだけた途端、貞元医師は看護師に指示を出し、診察室は急に慌ただしくなりました。私の全身は、湿疹で真っ赤に腫れ上がっていたのです。

実はその数か月前から、私は強力な鎮痛剤を服用していました。長年の腰痛がその頃は特にひどく、通常の痛み止めでは効き目がなかったため、整形外科医が最後の望みを託して処方してくれたのです。すると服用2日めから、日常生活が困難なほどだった激痛がまったく消え去ったのでした。その直後、発疹の症状が現れたのです。貞元医師はすぐに整形外科医に連絡し、治療を一手に引き受けてくれることになりました。

鎮痛剤の副作用として現れた私の症状は、スティーブンス・ジョンソン・シンドローム(SJS:中毒性皮膚壊死症)という難病で、死亡率七十パーセントの重篤でした。貞元医師は、「これから長い闘いになりますが、力丸さんを決して死なせはしないから、私にゆだねてください」と約束してくれました。しかし、湿疹は既に全身に広がり、腸内、気管支、食道、口腔、脳の硬膜、眼の網膜までも侵しました。「ヨブの試練はこれではなかったか…」と思うほどの闘病生活は、半年にも及びました。

普通の治療は通用せず、異常なほど高単位のステロイド投与以外には、命をつなぎ止める方法はありませんでした。実は貞元医師は、過去に米国でマイコプラズマ感染症の研究に従事しておられ、その際SJSの臨床例を38例担当、うち32例を生還させたキャリアの持ち主でした。日本でも数少ないSJS症例対応医師のもとに私を送ってくださった神様に感謝します。見舞客の中には、私を思いやって大きな病院への転院を勧めてくださる方もおられましたが、私は貞元医師に全幅の信頼を置いて治療することを決めていました。

発症後2か月間の劇症時は、ただ主と対座する毎日

発症後2か月間の劇症時は、ただ主と対座する毎日でした。口腔の粘膜が何度も剥がれ落ち、口から血が流れる毎日で、水も飲めず食事もできず、目も完全に見えませんでした。さらに、脳の硬膜の浮腫による圧迫で、気も狂わんばかりの頭痛。気管支の浮腫は、「窒息とはこんなにも苦しいのか…」と思うほどでした。そのような中でも、同じ病室の患者がとても温かい方々で、慰められました。聖書を読むことすらできない状態の中、私は「この病から学べるものは何でも学ぼう」と、日々主の臨在に触れ、平安な治療の日々を送りました。2か月が過ぎてからは安定した日々が戻ってきましたが、6か月の入院期間の中で全身の皮膚の壊死による剥離が3度に及び、毎日全身にワセリンを塗布しなければ、肌に接する布が体の神経と血管を剥ぎ取るような痛みにさらされ、苦しみました。

そして闘病の中、私は大きな悲しみに直面しました。貞元医師が末期の膵臓がんであり、余命数か月と宣告されたのです。みるみる痩せていく中、貞元医師は院長を息子さんに交代し、ご自分の治療と私の治療にのみ専念されました。私はなんとか医師に福音を伝え、永遠のいのちを受け継いでほしいと願い、床の中で来る日も来る日も祈りつつ機会を模索していました。「主よ、貞元医師をあなたの御手の中に送るための時を下さい…」

1月の終わりのことです。貞元医師は、2週間ぶりに私の病室に来られました。「力丸さん、私がこうして来られるのは今日限りです。力丸さんのことはすべて息子に託したので、安心して任せてください」。医師は最期のお別れに来られたのでした。その時私は、ずっと祈って準備してきたことを実行しました。 「先生、先生が私の命を助けてくださったように、私は先生の永遠のいのちを神様の愛に繋がせていただきます。死ですべてが終わりではないのです。この聖書に印をつけたところ読み、神様を信じてイエス・キリストに祈ってください。神様は必ず聞いてくださいます」。すると先生は、「力丸さん、私は、あなたがそのことを語ってくれる時がいつかきっとくると待っていました。必ず聖書を読みます。祈ってください。力丸さん、あなたは必ずもう一度神様の働きをする生活に戻れますよ。頑張ってください」。この厳粛な会話の2週間後、貞元医師は静かに帰らぬ人となられました。私は貞元医師が、永遠のいのちを得て主の前に帰られたことを確信しています。

私の命とご自分の命を交換してくださったような思い

医師会の会長も務めた貞元医師の葬儀は盛大でした。多くの僧侶の読経に包まれる中、病院を抜け出した私は葬祭場の最後列に座り、涙にくれて祈っていました。勝利ではありましたが、あんなに悲しい別れはありませんでした。貞元医師が、私の命とご自分の命を交換してくださったような思いでした―。

その後、私は順調に回復し、イースターの前日に退院しました。半年の入院生活の中で主治医を天に送り、同室者を主の弟子として、立ち上がらせていただいた。人生最大の試練が、大きな勝利と恵みの時となりました。

<「百万人の福音」2017年4月号より>

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